ヨナ書1章:逃げても神の御顔から離れられない

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はじめに

主の御顔から離れたところには、良いものは何もありません。この表現はヨナ書1章全体に流れています。3節では、ヨナは主の御顔を避けて逃げるために立ち上がり、同じ節の終わりでは、主の御顔を避けて船に乗り込みます。そして10節では、水夫たちが彼が主の御顔から逃げていることを悟ります。わずか16節しかないこの箇所に、同じ表現が三度も出てくるのです。ある説教者はこう一言でまとめています。神が御自分の民のために、そして人々のために望んでおられることは、それがさばきであれ救いであれ、常に良いものである、と。だからこそ、主の御顔から離れることは、あなたのために本当に良いものが立ち上がりうる唯一の場所から自分を断ち切ることになるのです。

この章は、あなたを、逃げることのできない神、逃げ回る預言者、そして最終的には彼以上に神を恐れるようになる異邦人の水夫たちの前に立たせます。もしあなたが詩篇139篇の「私はあなたの御霊から離れて、どこに行けるでしょう」という問いの意味を理解したいなら、ヨナ書1章がその舞台を用意してくれます。嵐、船、くじ引き、そして敵と話しに行くよりも船底で眠ることを選ぶ一人の男の姿です。

メッセージの構成

1. 神の敵たちよ、そのさばきを恐れなさい(1〜2節)

  • 「立って、あの大きな都ニネベへ行き、これに向かって叫べ。彼らの悪が私の前に上って来たからだ。」神は数ある地方神の一柱ではありません。
  • 当時の水夫たちは複数の神々を信じていました。山の神、海の神、川の神、豊穣の神、特定の民族の神といった具合です。しかしここで語られているのは、天と地を造られた神、逃れることのできない神です。
  • ニネベはアッシリアの首都で、その暴力性と不義、そして支配が及ぶあらゆる場所に丹念に広めた恐怖で知られていました。テロという行為は、20世紀に発明されたものではないのです。
  • そのメッセージは二重です。神は悪に無関心ではなく、それをさばくことを決意しておられます。そして同時に、警告することも決意しておられます。神は、さばきが下る前に、宿敵の地に御自分の預言者を送られました。これはすでに恵みなのです。

2. 主の御顔から離れて、それでもなお主を恐れなさい(3〜10節)

  • ヨナは立ち上がりますが、それは逆方向へ向かうためでした。港はヤッファ、行き先はタルシシュ(現在のスペイン、ジブラルタル海峡付近)です。彼は運賃を払って乗り込みます。主の御顔から離れて。
  • 列王記第二14章は、この人物を理解する助けになります。アミタイの子ヨナは、神がヤロブアム二世(ネバテの子ヤロブアムの罪から離れなかった悪しき王)に、イスラエルの国境が回復されると告げられたときの預言者でした。ヨナは、神が御自分の民に対して示された、受けるに値しない恵みの証人なのです。それなのに、彼は同じ恵みがニネベに告げ知らされることを拒みます。
  • この逃亡は愚かで無駄なものです。相手は天と地の神だからです。説教者はこれを一つの単純なたとえで表現します。コーナーポストの陰に隠れて、審判に見えないと思い込んでいるサッカー選手のようなものです。全地は主の競技場なのです。
  • 5節との対比。水夫たちは恐れて、それぞれ自分の神々に助けを求め、荷物を海に投げ込みます。一方ヨナは船底に降りて横になり、ぐっすりと眠り込んでしまいます。的外れな平安です。
  • 船長が彼を揺り起こします。「どうして眠っているのか。起きて、あなたの神を呼び求めよ。」異邦人たちが預言者に一貫性を思い出させるのです。
  • くじはヨナに当たります。彼は責任を引き受け、立ち上がり、胸を張ってこう告白しなければなりません。「私はヘブル人です。天の神、海と陸地を造られた主を恐れています。」荒れ狂う海の上で、まさにその海を支配する神から逃げていると自称する男が語る、明確な信仰告白です。

3. 主の御前で、水夫たちの畏敬の念(11〜16節)

  • 水夫たちの恐れは三段階で深まっていきます。5節では恐れて自分たちの神々に助けを求め、10節ではヨナが創造主なる神から逃げていると知って大いに恐れ、16節では海が静まったとき、主を大いに恐れるようになります。
  • 14節では、彼らは主の御名を呼び求めます。「主よ、どうかこの人のいのちのゆえに私たちを滅ぼさないでください。」そして主の力と主権を認めます。「主よ、あなたは御心のままになさったのです。」
  • 16節、ヨナを海に投げ込み、荒れ狂う波が静まるのを見た後、彼らは主にいけにえを献げ、誓いを立てます。物語から彼らの偶像はすでに姿を消しています。
  • 役割の逆転は完全なものです。主を恐れるようになったのは、外国人で迷信深く無知だとされていた水夫たちであって、預言者ではないのです。
  • どんな海も嵐も、神の御心に逆らうことはできません。どんな人間の心も、神にとって遠すぎたり頑ななすぎたりすることはないのです。

4. ヨナからイエスへ:本当の嵐を静める方

  • マルコの福音書には、ほぼ対称的な場面が記されています。嵐、船、そして船底で眠る一人の人です。しかし、今度は不従順な預言者ではなく、主イエス御自身です。目を覚まされたイエスは、矛盾した方ではありません。風と波に「黙れ、静まれ」と命じ、弟子たちに問いかけます。「なぜそんなに怖がるのか。まだ信仰がないのか。」
  • 弟子たちは大きな恐れに包まれます。「いったいこの方はどういう方なのだろう。風も湖も従うとは。」ヨナの物語の水夫たちと同じ段階を辿っています。
  • 嵐が静まる以上のこと、十字架こそ、神が御子の上にさばきを下し、私たちに対する御怒りを静められた場所です。悪と死という、あの本当の嵐こそ、イエスがゴルゴタで静められたものなのです。
  • イエスの死は、あなたが負っていたすべての悪、あなたが隠していた偶像、あなたの逃亡、あなたの放棄までもが、神によって赦されたという確かな保証です。

覚えておきたいポイント

  • 主の御顔から離れたところには、あなたにとっても、また神があなたを遣わそうとしておられる人たちにとっても、良いものは何もありません。
  • 海と陸地を造られた神から逃れることは不可能です。あなたの逃亡は、あなたを神の御顔から遠ざけるのではなく、ただ神があなたのために立てられた計画から遠ざけるだけです。
  • ヨナの悲劇は、彼が神について語ること(「私は天の神、主を恐れています」)と、彼が神に対して実際に行うこと(不従順になり、下って行き、眠り込む)との間のずれにあります。この同じずれが、私たち全員を脅かしています。
  • 神は、(たとえ異邦人の水夫たちのような)ずっと遠くにいる人々をも用いて、御自分の民に一貫性を思い出させ、御自身を恐れさせることがおできになります。
  • 主はあまりにも確固たる決意を持っておられるので、あなたと共に、あるいはあなたにもかかわらず、御計画を前進させられます。あなたが受けた恵みは、あなただけのために良いものなのではなく、あなたの「ニネベ」のためでもあるのです。

個人への適用

  1. あなたは今、どんな点で主の御顔から逃げていますか。あなたの「ニネベ」に行かないために、あなたはすでにどんな「タルシシュ」の代価を払いましたか。
  2. 日曜日の朝に歌っていることと、週の間に実際に生きていることの間に、ずれはありませんか。あなたはどこで船底に降りて眠り込んでいますか。
  3. あなたの「ニネベ」、つまりあなたが恵みを告げ知らせることを拒んでいる相手は誰ですか。あなたの目には、それを聞くに値しない人たちに見えているからではありませんか。
  4. あなたが最も恐れているのは何ですか。評判を失うこと、快適さを失うこと、安心できるいつもの習慣を失うこと、それとも、あなたに恵みを与えてくださった神を悲しませることですか。
  5. 神があなたの道に置かれた「水夫たち」(見知らぬ人、無知な人、遠く離れた人)を用いて、あなたを御自分のもとに引き戻し、彼らを通して御自身を知らしめることができると、あなたは信じる備えができていますか。

引用された聖句

よくある質問

ヨナとは誰で、なぜ彼はニネベに行くことを拒んだのですか。

アミタイの子ヨナは、すでに列王記第二14章に登場するイスラエルの預言者です。神は彼を通して、悪しき王ヤロブアム二世の治世下でイスラエルの国境が確保されることを告げられました。彼は、神が御自分の民に示された、受けるに値しない恵みの証人です。ニネベはアッシリアの首都で、宿敵にあたり、その暴力性で知られていました。ヨナがそこへ行くことを拒んだのは、さばきの前に与えられる警告という同じ恵みが、その敵に告げ知らされることを望まなかったからです。

本当に神の御顔から逃げることができるのでしょうか。

いいえ、できません。まさにこれが詩篇139篇の語ることです。「たとえ私が天に上っても、あなたはそこにおられます。たとえ私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。」ヨナ書1章はこれを行動によって裏づけています。海と陸地を造られた神は、風を吹かせ、嵐を送り、くじによって責任のある者を明らかにされます。逃亡は、あなたを神の臨在から遠ざけるのではなく、神があなたのために立てられた計画から遠ざけるだけなのです。

なぜこの章はイエスについても語っているのですか。

それは、嵐の中で船に眠る預言者の場面が、福音書の中でも再び現れるからです。ただし今度はイエスとして。眠っておられる方は逃亡中なのではなく、風と波に命じる主御自身なのです。そして、その方が静めに来られた本当の嵐は、湖の上のものだけではありません。それは、神が十字架の上で御子に負わせ、私たちに対する御怒りを静められた、当然受けるべきさばきそのものなのです。

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