はじめに
私たちは誰でも、自分にとって大切なものを守りたいと思っています。子ども、夫婦関係、教会、友人たち。しかし気づかないうちに、その良い意図が支配や圧力、人を切りつける言葉に変わってしまうことがあります。ゲツセマネの園での使徒ペテロのように、あなたも純粋な愛から出発して、間違ったタイミングで、間違った方法で「剣」を抜いてしまうことがあるのです。神様はあなたを、別の守り方へと招いておられます。怒りや強さによってではなく、神様の知恵と光、そして自分の言葉を制することによる守り方です。
メッセージの流れ
1. 誠実な愛が、間違った形で表れることがある
- ペテロは偽善者ではありません。屋上の間で、死んでもイエス様に従うと語ったとき、彼は心の底から本気でした。
- けれども、その意図と実際の行動の間には隔たりがありました。ペテロはあまりにもイエス様を守りたいあまり、イエス様が祈りへと招いておられたにもかかわらず、剣を手に取ってしまったのです。
- この隔たりは私たち誰にでも起こりうるものです。母親が子どもを守ろうとして、結局は縛りつけてしまう。夫が妻を守ろうとして、結局は息苦しくさせてしまう。牧師が教会を守ろうとして、結局は締めつけてしまう。
- 問題は愛を少なくすることではありません。私たちの愛が支配や傷つけることに変わらないよう、神様にその愛を導いていただくことです。
2. 私たちの言葉は、人を傷つける剣になりうる
- ゲツセマネの園で、ペテロは剣を抜き、マルコスの耳に当たります。しかし彼が狙っていたのは耳ではなく頭でした。マルコスがとっさに身をかわしたのです。
- 今日、私たちにとっての「剣」とは、しばしば自分の言葉です。ヤコブはそれを、破壊しうる火として描いています(ヤコブ3章)。
- 誰かを守ろうとするとき、私たちは声を荒げたり、話を遮ったり、批判したり、辱めたり、言葉で支配しようとしたりすることがあります。配偶者、子ども、教会の仲間、同僚など、自分の周りの人たちの「耳を切りつけて」しまうのです。
- 自分の言葉の持つ力に気づくこと。それが、傷つけずに守ること、破壊せずに正すことを神様から学ぶための第一歩です。
3. イエス様に癒やしていただき、別の守り方を学ぶ
- ペテロの行動を前にしても、イエス様は彼を褒めることはありません。マルコスの耳を元通りにし、ペテロに剣をさやに納めるよう言われます。
- ペテロが傷つけるところで、イエス様は癒やされます。私たちが支配するところで、イエス様は自由にしてくださいます。
- 不器用な守り方によって傷つけてしまった人たちを、イエス様に癒やしていただくよう祈りましょう。イエス様に赦しを求め、傷つけた相手にも赦しを求め、切り取られた「耳」をもイエス様がつなぎ合わせてくださると信じましょう。
- そしてこう祈りましょう。「主よ、私の家族を、夫婦関係を、教会を、縛りつけることなく守るにはどうすればよいですか」と。それは、御霊があなたの内で少しずつ進めてくださる御業なのです。
心に留めておきたいこと
- 誠実な愛だけでは十分ではありません。それが支配に変わらないよう、神様の知恵に導かれる必要があります。
- あなたの言葉は剣になりえます。神様の光を求めずに誰かを守ろうとするとき、それは周りの人の「耳を切りつけて」しまいます。
- イエス様は、ペテロ流の守り方を拒まれます。イエス様が選ばれるのは、祈りであり、十字架であり、傷ついた人を癒やすことです。
- どんなに壊れてしまったものも、回復できないものはありません。イエス様は切り取られた耳をもつなぎ合わせてくださいます。あなたの傷ついた人間関係も同じです。
- 縛らずに守ることは、自然に身につくものではありません。それは学びであり、日々あなたの内で進められる聖霊の御業です。
個人への適用
- あなたの人間関係の中で、守ることがいつの間にか圧力や支配に変わってしまった場所はどこですか。
- 最近あなたが口にした言葉の中で、差し伸べる手というより、剣の一撃のように響いたものはありますか。
- 守ろうとするあまり「耳を切りつけて」しまった相手に、赦しを求めるべき人はいますか。
- 次に難しい会話をする前に、聖霊様に自分の言葉を守ってくださいと祈る時間を取っていますか。
- あなたが自分の手の中に強く握りすぎている人は誰ですか。今日、神様はその人を委ねるようあなたを招いておられませんか。
引用された聖句
- ヨハネ 18:1-11 · イエス様の逮捕とペテロの行動
- マタイ 26:47-56 · 「剣をもとに納めなさい」
- ルカ 22:50-51 · イエス様が僕の耳に触れて癒やされる
- ヤコブ 3章 · 舌は火であり、不義の世界
- マタイ 26:33-35 · ペテロの約束「死んでもあなたに従います」
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よくある質問
自分の「守り」が相手を縛っていないか、どう見分ければいいですか?
大切な人が愛されているというより支配されていると感じているとき、あなたの言葉が安心させるどころか相手を傷つけているとき、あなたが信頼ではなく恐れから反応しているとき、その愛はいつの間にか圧力に変わっている可能性が高いです。ゲツセマネの園でのペテロのように、あなたは良い気持ちから始めても、行き着く先が美しいとは限りません。自分がどこで強く握りすぎているのか、神様に正直に示してくださいと祈り求めましょう。
ペテロは愛から行動したのに、なぜイエス様はその行為をたしなめたのですか?
ペテロは誠実でした。イエス様はその愛そのものを否定しているわけではありません。しかしイエス様は十字架へと召されており、ペテロは祈りよりも人間的な戦いを選んでしまいました。ペテロが切りつけて傷つけたところで、イエス様はマルコスの耳をつなぎ、癒やされます。この出来事は、たとえ心が誠実であっても、私たちの守り方が神様の御業とは正反対の方向に進んでしまうことがある、ということを教えています。
支配することなく、具体的にどうすれば守ることを学べますか?
あなたの人間関係について、神様に明確さと光を求めて祈りましょう。難しい会話に入る前に、自分の言葉を吟味する時間を取りましょう。あなたがつい支配しがちな人たちを神様にゆだね、聖霊に自分を変えていただきましょう。これは自然に身につくものではなく、神様があなたの内で少しずつ進めてくださる御業です。
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