はじめに
イエス様の言葉には、私たちを安心させ、慰め、心を穏やかにしてくれるものがあります。でも、ルカによる福音書14章25節から35節の言葉は違います。読むと思わず身構えてしまうような言葉です。「もし誰かがわたしのもとに来て、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹、そして自分の命さえも、わたしより愛するなら、その人はわたしの弟子ではありえない」。大勢の群衆がイエス様と共に歩いていたとき、イエス様は振り返ってこう問いかけます。あなたは、わたしに従うということが本当はどういうことか、わかっていますか、と。
文脈を見ることが大切です。ルカ13章から、イエス様は狭い門のこと、神様の大いなる食事のこと、断ることもできる招きのことを語っています。理解する立場にいたはずの多くの宗教指導者たちが、実は「いいえ」と答えていました。そして今、イエス様に付き添う群衆に向けて、イエス様は愛から出た警告を語ります。代価を計算せずに勢いだけで従うことのないように、と。弟子とは応援団ではありません。最後まで、十字架を含めて、師に従い抜く人のことです。
二つの条件が示され、そして一つの結論が示されます。あなたはイエス様をすべてより上に置かなければなりません。あなたは最後までイエス様だけに寄り頼まなければなりません。それがわかるとき、あなたは世に味をつける塩となります。そうでなければ、あなたは外に捨てられる塩になってしまいます。
記事の構成
1. イエス様をすべてより上に置く(26〜27節)
2. 最後まで、イエス様だけに寄り頼む(28〜32節)
3. 塩の味を保つ(33〜35節)
1. イエス様をすべてより上に置く(26〜27節)
イエス様はまず、心を揺さぶる言葉から始めます。ここで「憎む」と訳されている動詞は、憎しみを勧めているわけではありません。これはヘブライ的な言い回しで、徹底した優先順位を表すものです。つまり、より少なく愛する、わたしより後に置く、という意味です。イエス様は、あなたに父や母、妻や子供を軽んじるようにと求めているのではありません。誰も、何も、わたしの代わりに置いてはならない、と求めているのです。
弟子とは、自分の人生にイエス様を付け加える人のことではありません。弟子とは、イエス様が中心であり、基準であり、第一である人のことです。あなたの家族、友情、仕事、健康、評判、時間、お金。これらすべては、イエス様の下に置かれるとき、美しく正しいものになります。そして、イエス様より上に置かれるとき、偶像になってしまいます。
具体的に言えば、この忠誠の葛藤は、あなたの人間関係に関わってきます。周りを困らせたくなくて真実を隠したくなるかもしれません。関係を失いたくなくて倫理的な選択を和らげたくなるかもしれません。狂信者と思われたくなくて福音への献身を控えたくなるかもしれません。イエス様はこう言われます。わたしを優先しなさい、と。価値観においても、時間の使い方においても、福音のために献金することが人から「非常識だ」と言われるようなお金の使い方においても。ジャン・カルヴァンが語ったように、キリストを半分だけ求める者は、結局キリストを持つことができません。イエス様が与える人生と、まさにイエス様抜きで築かれる人生とを、両立させることはできないのです。
そしてイエス様は続けます。「自分の十字架を負ってわたしに従わない者は、わたしの弟子ではありえない」。一世紀のローマ帝国支配下のパレスチナでは、十字架を負って歩く人を見るということは、宗教的なシンボルを見ることではありませんでした。それは処刑へと向かう死刑囚の姿でした。イエス様は、あなたがイエス様に従うことによって、自分自身に死ぬこと、自分の評判に死ぬこと、イエス様なしであなたを好んでいた人々からの評価に死ぬことを求めておられます。これはポーズではありません。歩みそのものです。
2. 最後まで、イエス様だけに寄り頼む(28〜32節)
イエス様は続けて、一見すると経営や戦略の話のように聞こえる二つのたとえを語られます。塔を建てようとする人は、まず腰を下ろして、完成させるだけの費用があるかを計算しなければなりません。そうしなければ、人々に笑われてしまいます。一万人で二万人と戦おうとする王は、まず腰を下ろして、対抗できるかどうかを見極めなければなりません。そうでなければ、まだ間に合ううちに使者を送って和睦を求めるべきです。
私たちはこれらのたとえを、あなたにイエス様に従う力があるかどうかを見極めるようにという呼びかけとして読みがちです。しかし実際には、その逆のことが語られています。腰を下ろして、あなたの手元を見てください。あなたには塔を建てるだけのものがありません。あなたには戦いに勝つだけの兵力がありません。弟子とは、「わたしは、やり遂げられる」と立ち上がる人のことではありません。腰を下ろして、こう悟る人のことです。わたしには、最後までやり遂げるだけのものがない、と。
ペテロは、自分一人で自分の塔を建てようとしました。「主よ、わたしは最後までついていきます。あなたのためにいのちを捨てます」。彼は福音を理解していませんでした。自分もイエス様のように塔を建てられると思っていたのです。本当は、自分に代わって師が死んでくださることで、自分こそが希望を持てるようになるのだということを見ずに。そして、鶏が鳴く前に、彼は三度つまずいてしまいました。
では、誰かに「あなたの弱さ、足りないところ、十分ではない材料をよく見た」と言われたとき、弟子はどう応えるでしょうか。彼はこう言います。そのとおりです、と。でも、わたしの塔を建てるのはイエス様です。戦いに勝つのもイエス様です。二万人を率いてわたしたちに向かってくる二人目の王とは、聖なる神様ご自身のことです。あなたには、その方の前に立ちはだかるだけのものがありません。知恵とは、まだ間に合ううちに使者を送り、和睦の条件を尋ねることです。この使者こそがイエス様です。この和睦の条件は、十字架の上で結ばれました。
だからこそ、イエス様はこう結論づけられます。「あなたがたのうち、自分の持ち物をすべて捨てない者は、誰もわたしの弟子ではありえない」。捨てるということは、自虐的に何もかも手放すことではありません。あなたが持っているもの(あなたの善さ、あなたの規律、あなたの信仰心、あなたの能力)に頼ることをやめて、イエス様だけに頼るようになることです。
3. 塩の味を保つ(33〜35節)
「塩は良いものです。しかし、塩さえ塩気をなくしたら、何によって味をつけるのでしょうか。それは土地にも肥やしにも役立たず、外に捨てられるだけです。聞く耳のある者は聞きなさい」。
一世紀には、料理に塩の塊を入れて味を出させていました。その塊が塩気を出し尽くすと、外に捨てられました。イエス様はこの塩を用いて、こう語っておられます。招きの徹底さを拒む弟子は、味気ないクリスチャンになってしまいます。誰とも変わらなくなり、もはや人を驚かせることもなく、対照的な存在でもなくなります。土地(証し)にも肥やし(へりくだった奉仕)にも、もはや役立たなくなるのです。
これは、あらゆる徹底したものを拒み、合意や相対主義、「みんな同じ意見でいましょう」を求める時代の罠です。弟子にとっての誘惑は、社会から外へ捨てられないように、イエス様の招きを時代の空気の中に溶かしてしまうことです。しかし、イエス様は警告されます。その徹底さを拒むことによってこそ、あなたは捨てられる存在になってしまうのだ、と。あなたは味を失い、喜びを失い、そこにいる意味を失ってしまいます。
塩の味というのは、荒々しい性格や説教くさい言葉のことではありません。それは、イエス様をすべてより上に置き、イエス様だけに寄り頼み、人々の食卓の中で、他の何ものも与えられない味をもたらす弟子の人生そのものです。それは御国の味、捧げられた人生の味、決して枯れることのない希望の味です。
まとめのポイント
- イエス様はあなたの人生への追加ではありません。中心であるか、そうでないかのどちらかです。
- 父、母、妻、子供、自分の命を「憎む」とは、より少なく愛すること、具体的な選択の中でイエス様を優先することです。
- 自分の十字架を負うとは、イエス様に従って歩むために、自分自身と他者からの評価に対して死ぬことを受け入れることです。
- 塔と王のたとえは、「あなたにその力があるか」を問うているのではありません。「あなたにその力はない、力のある方に寄り頼みなさい」と告げているのです。
- すべてを捨てるとは、自分に頼ることをやめて、最後までイエス様だけに頼るようになることです。
- 味を保つ塩とは、時代の空気との妥協を拒み、喜びの中でその徹底さを生きる弟子のことです。
あなたへの適用
- 今日、実際のところ、あなたの人生の中でイエス様が占めるべき場所を、どの人、どの関係、どの愛情が占めていますか。
- 周りの人を困らせないために、真実を隠したり、価値観を和らげたり、献身を控えたりしたくなるのはどこにおいてですか。
- 神様の前で正しくあるために、あなたはまだどんな「塔」に頼っていますか。自分の規律、努力、善さ、信仰心でしょうか。
- 今朝、あなたは腰を下ろして、「わたしには必要なものがない。でも、イエス様には、それがある」と認める用意がありますか。
- あなたの人生のどの場所で、弟子としての味が薄れてしまいましたか。イエス様は、あなたに何を取り戻すよう求めておられますか。
引用聖句
よくある質問
イエス様は、本当にわたしの家族を憎むようにと求めているのですか。
いいえ、違います。ここで使われている動詞は、優先順位を表すヘブライ的な言い回しで、わたしより少なく愛するという意味です。イエス様は、あなたに絆を断ち切るようにとも、大切な人を軽んじるようにとも求めておられません。誰も(家族であっても、あなた自身であっても)、イエス様がいるべき場所に置いてはならない、と求めておられるのです。イエス様を優先する弟子は、自分に委ねられた人々を、より少なくではなく、より深く愛するようになります。
「自分の十字架を負う」とは、どういう意味ですか。
一世紀には、自分の十字架を負う人は、処刑へと向かって歩いていました。イエス様は、宗教的なイメージではなく、死のイメージを用いておられます。自分の十字架を負うとは、イエス様に従うために、自分の高慢、自分の評判、自分への過信に対して死ぬことを受け入れることです。それは一度だけ耐え忍ぶ重荷ではありません。あなたのために自分の十字架を最後まで負ってくださった師の後を、日々従って歩むことです。
「持ち物をすべて捨てる」ことなしに、弟子でいることはできますか。
イエス様の言葉における「捨てる」とは、物質的な意味での放棄が第一なのではありません。もちろん、そうなることもありますが。それは、自分の塔を建て、自分の戦いに勝つために、自分の持ち物に頼ることをやめる、という意味です。あなたの持ち物、あなたの才能、あなたの努力は、あなたを最後まで導くことはできません。それができるのはイエス様だけです。捨てるとは、武器を置き、あなたの救い、歩み、忍耐において、イエス様だけに寄り頼むことです。
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