あなたの癒やしはすでに約束されています:今こそ、それを宣言しましょう
スティーブ・ブラッカード牧師による説教。パスター・キャシーの招きでモメンタム教会にて、信仰と癒やしをテーマにした礼拝(2026年2月15日、日曜日)。
聖書には、本当に受け取るなら、あなたの祈り方、話し方、そして神を待つ姿勢そのものを変えてしまう真理があります。今日お伝えするのはまさにそれです。あなたの癒やしは、神がこれからしてくださるかもしれないことではありません。それはすでに十字架で成し遂げられたことなのです。本当の課題は、癒やしを得ることではなく、神がご覧になっているようにその事実を受け止めることです。
スティーブ・ブラッカード牧師は毎年このテーマで語りに来てくださいます。今回はチームと共に訪れ、礼拝の後、受け取りたいと願うすべての人のために祈ってくださいました。メッセージの中心にあったのは、シンプルな原則です。神は、まだ実現していないことを、すでに実現したことのように宣言される、ということです。ここで語られた内容をご紹介します。
1. 神はあなたの癒やしを過去形で見ておられます
イザヤ書が書かれたのは、イエス様の誕生のおよそ700年前です。論理的には未来形、「彼はわたしたちの痛みを負うであろう」となるはずです。しかし、そこは過去形で書かれています。
「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかしわれわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。」(イザヤ書 53:4-5)
十字架の700年も前から、神はすでにあなたの癒やしを、成し遂げられた事実として語っておられます。これは文法の誤りではなく、一つの啓示です。神は私たちのようには考えておられません。私たちにとって未来に見えることが、神にとってはすでに約束済みなのです。
ペテロも新約聖書の中で、同じく過去形でこれを確認しています。
「そして自ら十字架の上でその身にわれらの罪を負われた。それは、われらが罪に対して死に、義に対して生きるためである。あなたがたは、彼の受けた傷によっていやされたのである。」(ペテロの第一の手紙 2:24)
内側で起こる革命とは、あなたの視点を変えることです。あなたは苦しんでいる自分の体を見て、「私はまだ癒やされていない」と結論づけます。神は十字架を見て、こう答えられます。「わたしはすでにあなたを癒やした。今日はあなたがその現れを受け取る日だ」と。神は考えを変えません。ためらっているのは私たちの方なのです。
2. あなたの信仰は、見つけた約束から始まります
スティーブ・ブラッカード牧師は、2003年に天に召されたケネス・ヘイギン牧師を引用します。彼の働きを通して、数万件もの癒やしが起こりました。その方法は徹底していました。誰かが祈りを求めてやって来ると、彼はいつも同じ質問をしました。「あなたはこのことについて祈るとき、神のどの約束に基づいているのですか」
もし「特にありません」と答えたなら、彼は祈ろうとしませんでした。「約束を見つけてから戻ってきなさい。それがあなたの信仰の土台になる」と。癒やしについては、さらにもう一つ質問をしました。「わたしが手を置いたら、何が起こると思いますか」。「癒やされます」と答えた人は、実際に癒やされました。「分かりません、そうなればいいと思っています」と答えた人には、心の中に信仰が湧き上がるまで、御言葉を聞き続けるよう勧めました。なぜなら、希望は始まりにすぎませんが、信仰は完成だからです。
これこそ、アブラハムを支えたものでした。まだ息子を授かる前、なお待ち続けていたとき、神はこう宣言されました。
「あなたの名は、もはやアブラムとは言われず、あなたの名はアブラハムと呼ばれるであろう。わたしはあなたを多くの国民の父とするからである。」(創世記 17:5)
動詞は過去形です。息子もいない、目に見える証拠も何もない、それでも神はその状況を、すでに成し遂げられたことのように語っておられます。アブラハムはこの言葉を信じ、その信仰が義と認められました。あなたも、神が人生に働かれるのを見たいなら、まず神があなたの状況について何を語っておられるかを見つけなければなりません。信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストの言葉から始まります(ローマ人への手紙 10:17)。
3. 見上げて、受け取りなさい
神は、ご自分の民を障害の前に送り出す前に、二度、同じ言葉を用いておられます。それは「見よ」という言葉です。モーセにはこう語られました。「見よ、わたしはこの地をあなたがたの前に与えた。入って行って、これを自分のものとしなさい」(申命記 1:8、21)。そしてヨシュアには、エリコを前にしてこう語られました。「見よ、わたしはエリコと、その王および勇士たちをあなたの手に渡した」(ヨシュア記 6:2)。
けれど、肉眼にはまだ何も見えないとき、「見よ」とはどういう意味なのでしょうか。それは、約束を見上げるということです。神が語られたことを見上げるということです。神の真実、神の優しさ、神の力、神の愛、あなたへの愛情、そして神が介入してくださる力を見上げるということです。神はどんな状況にも決して希望を失われません。「今回ばかりは、わたしにも手に負えない」などと神が言われることは絶対にありません。神はいつでも力があり、いつでも行動する意志を持っておられます。
エリコの周りを黙って歩いたことには、実践的な原則があります。六日間、民は一言も発せずに歩き続けました。なぜでしょうか。それは、私たちの言葉には力があるからです。城壁の高さや戦士たちの強さを前にして、恐れの言葉をたった一言でも口にすれば、その約束を台無しにしてしまいます。神は、あなたが神のなさっていることを自ら壊してしまう危険を、決して冒したくないのです。
スティーブ・ブラッカード牧師は、具体的な証しを分かち合ってくれました。彼の教会に通うある姉妹は、有害な雰囲気の職場でこの原則をつかみ取りました。彼女は毎朝十分早く出勤し、信仰によって神の平安をデスクの上に解き放ち、イエスの名によってその雰囲気が変わることを宣言すると決めました。すると、すべてが変わりました。有害な空気は去り、解決策が次々と与えられました。彼女が約束の上に立ったからです。
4. 長血をわずらった女性と、心の中の言葉の鍵
マルコによる福音書は、十二年間も長血をわずらい、あらゆる医者に財産を使い果たしても良くならず、かえって悪くなっていったある女性の物語を記しています(マルコによる福音書 5:25-34)。ある日、彼女はイエスのうわさを耳にします。希望が芽生え、それはやがて信仰へと変わります。彼女は心の中でこうつぶやきました。「せめてこの上着にでもさわれば、なおしていただけるだろう」(マタイによる福音書 9:21)。彼女は群衆をかき分け、上着のふさにさわりました。すると、たちまち長血が止まりました。
ここに決定的な細部があります。マタイとマルコは、この女性が何を思っていたかを記しています。人間の目撃者には、それを知ることなどできなかったはずです。それを福音書記者たちに明らかにしたのは聖霊です。なぜなら、この心の中の言葉こそが彼女の癒やしの鍵だったからです。あなたにも、心の中で語る言葉があります。誰にも聞こえない言葉を、あなたは自分自身に語りかけています。そしてその言葉は、あなたの人生に大きな重みを持っているのです。
マルコは「病気に悩んでいた者たちは皆、イエスにさわろうとして、押し寄せてきた」と記しています(マルコによる福音書 3:10)。あの日、多くの人がイエスに触れました。しかし癒やされたのはただ一人でした。その違いを、イエスご自身がこう言い表しておられます。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。そして、その病気に悩まされず、すこやかであってください」(マルコによる福音書 5:34)。彼女を癒やしたのはイエスの信仰ではありません。イエスは彼女がさわったことすら、その時は見ておられませんでした。それは、彼女自身の信仰が行動に移されたことで、そこにある力をつかみ取ったのです。
誰かがあなたのために祈るとき、ただ一つのことを心に留めてください。「今この手で触れられているのは、イエスがわたしに触れておられるのだ」と。スティーブ・ブラッカード牧師は、ロバート・バクスター牧師と共にボン・ベルジェ教会で行われた聖書学校での出来事を証ししてくれました。祈りの経験がほとんどなかった二人の生徒が、次々と六人の癒やしを目にしたのです。十代の頃から壊れていた肩が、一分の祈りで完全に動くようになりました。膝の痛みが消えました。すべて六人とも、完全に癒やされました。祈りを受けた人たちが、イエスに触れられていると信じたからです。
5. 信じるべき二つのこと、行うべき二つのこと
スティーブ牧師は、シンプルな実践方法で締めくくってくれました。
信じるべき二つのこと。
- イエスは今日、あなたを癒やしたいと願っておられます。なぜなら、その代価はすでに払われているからです。あなたへの思いはこうです。「あなたが癒やされるために、わたしはこれほど苦しんだ。だからこそ、わたしの最も大きな願いは、あなたがその癒やしを受け取ることだ」と。
- それは今であって、いつか後のことではありません。神がアブラハムに、すでに父であると宣言されたのは、アブラハムが信じたその瞬間に、その答えが解き放たれたということです。神は「あなたをいやす主」(出エジプト記 15:26)として、未来形ではなく現在形でご自身を示しておられます。
行うべき二つのこと。
- 信仰の宣言をしなさい。心の中で、あるいは声に出して。「たぶん神がしてくださるだろう」ではなく、完成された未来として言い表しましょう。「神はあなたの中の何を癒やしてくださるでしょうか。背中を癒やしてくださいます。足を癒やしてくださいます。痛みを取り除いてくださいます」と。神はこの宣言を待って、答えを解き放たれます。
- 今までできなかったことをしなさい。何かが変わったかどうかを確かめるために動くのではなく、何が変わったのかを発見するために動くのです。これは信仰の表現です。もし癒やしがすぐには目に見えて確認できない場合(甲状腺、糖尿病など)でも、それでも信仰によって受け取り、その成就を見るまで、その癒やしの中を歩み続けてください。
説教者が引用したスティーブ・バックランドの言葉のとおりです。「多くのクリスチャンの人生は、もし彼らが自分の言葉を今の状況を描写するためだけに使うのをやめ、神が望まれるように、これからの未来を形作るために使い始めたなら、根本から変わるでしょう。」
まとめのポイント
- 神はあなたの癒やしを過去形で見ておられます。キリストが十字架で支払われたことは、すでにあなたのために約束されています。あとは今日、それを受け取るだけです。
- 信仰とは感情ではなく、確かな錨です。それは漠然とした希望ではなく、神の具体的な約束の上に成り立っています。
- 「見よ」とは、障害ではなく約束に目を注ぐことです。あなたの言葉は、神が備えておられるものを築くこともできれば、それを台無しにすることもできます。
- 心の中の言葉こそが鍵です。自分自身に語る言葉を変えれば、受け取るものも変わります。
- 神はあなたからの信仰の宣言を待っておられます。神は、あなたが答えを受け取りたいと願う以上に、あなたに答えたいと願っておられます。
あなた自身への問いかけ
- 今週、どの具体的な状況について、神の正確な約束を見つける必要がありますか。どこで探しますか(聖書、コンコーダンス、牧師)。
- 問題を見つめるとき、あなたの視線を支配しているのは何ですか。障害ですか、それとも神が与えてくださった言葉ですか。今、何を変えますか。
- 今、あなたの健康、仕事、家族について、心の中で語っている言葉は何ですか。その代わりに、どの聖書の言葉を繰り返したいですか。
- 今朝、声に出して「イエスよ、あなたは十字架でわたしを癒やしてくださいました。今それを受け取ります」と言い、それを本当にそう信じることができますか。
- 「いつか、たぶん」と待っていたある分野について、今日、「神が何をなさったかを発見するために」踏み出せる、最初の具体的な一歩は何ですか。
引用された聖句
- イザヤ書 53:4-5:預言者が、十字架の700年前に、癒やしを過去形で語っている。
- ペテロの第一の手紙 2:24:「その打たれた傷によって、あなたがたはいやされたのである」。
- 創世記 17:5:息子を授かる前に、神がアブラハムを多くの国民の父と呼ばれる。
- 申命記 1:8、21:「見よ、わたしはこの地をあなたがたの前に与えた」。
- ヨシュア記 6:2:「わたしはエリコをあなたの手に渡した」。
- マルコによる福音書 5:25-34:十二年間長血をわずらった女性。
- マタイによる福音書 9:20-22:心の中の言葉を記す並行箇所。
- マルコによる福音書 3:10:「病気に悩んでいた者たちは皆、イエスにさわろうとした」。
- ローマ人への手紙 10:17:「信仰は聞くことによる」。
- 出エジプト記 15:26:「わたしはあなたをいやす主である」。
よくある質問
まだ苦しんでいるのに、なぜ「癒やしはすでに成し遂げられている」と言えるのですか。
聖書は、癒やしを十字架で得られた霊的な事実として語っているからです(イザヤ書 53:4-5、ペテロの第一の手紙 2:24)。法的な成就はすでに約束されていますが、その現れには、あなた自身の信仰による応答が必要になることがよくあります。これは、救いの二つの時間軸と同じ意味です。キリストはすべてを成し遂げてくださいましたが、私たちは信仰によって、その成し遂げられたことの中に入っていくのです。
自分の状況にぴったりの約束が見つからないときは、どうすればよいですか。
積極的に探してください。コンコーダンスを開き、自分の状況を表す言葉(恐れ、借金、病気、孤独など)を調べ、見つかった約束を書き留めましょう。牧師や信仰の成熟した兄弟姉妹に、約束を見つける手助けを頼むのもよいでしょう。約束がなければ、あなたの祈りは漠然とした希望にとどまってしまいます。約束があれば、粘り強く立ち続けるための確かな土台になります。
このメッセージをもとに、具体的にどう祈ればよいですか。
シンプルな三つのステップがあります。一つ目、具体的な聖句(例えばペテロの第一の手紙 2:24)に立つこと。二つ目、心の中で、あるいは声に出して、「主よ、あなたが十字架でわたしのために得てくださった癒やしを、今受け取ります」というような信仰の宣言をすること。三つ目、動く、試す、歩くといった最初の行動を起こすこと。それは、神が何かをしてくださったかどうかを確かめるためではなく、神が何をしてくださったかを発見するためです。
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