聖書 — 口語訳 (1955)
ルカによる福音書 14
概要
ルカの福音書14章は、まず安息日にパリサイ派の指導者の家の食卓で始まります。イエスはそこで病人をいやし、末席に着くようにすすめ、お返しのできない人々を招くようにと語り、客たちが口実を並べる大宴会のたとえを話されます。それから群衆に向き直り、弟子となる代価を示されます。何よりもイエスを優先すること、十字架を負うこと、自分の力を見積もることです。この章は、神の無償の招きと、従うことへの真剣な呼びかけを織り合わせています。
この章の5つの区分
1ある安息日のこと、食事をするために、あるパリサイ派のかしらの家にはいって行かれたが、人々はイエスの様子をうかがっていた。
2するとそこに、水腫をわずらっている人が、みまえにいた。
3イエスは律法学者やパリサイ人たちにむかって言われた、「安息日に人をいやすのは、正しいことかどうか」。
4彼らは黙っていた。そこでイエスはその人に手を置いていやしてやり、そしてお帰しになった。
5それから彼らに言われた、「あなたがたのうちで、自分のむすこか牛が井戸に落ち込んだなら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」。
6彼らはこれに対して返す言葉がなかった。
7客に招かれた者たちが上座を選んでいる様子をごらんになって、彼らに一つの譬を語られた。
8「婚宴に招かれたときには、上座につくな。あるいは、あなたよりも身分の高い人が招かれているかも知れない。
9その場合、あなたとその人とを招いた者がきて、『このかたに座を譲ってください』と言うであろう。そのとき、あなたは恥じ入って末座につくことになるであろう。
10むしろ、招かれた場合には、末座に行ってすわりなさい。そうすれば、招いてくれた人がきて、『友よ、上座の方へお進みください』と言うであろう。そのとき、あなたは席を共にするみんなの前で、面目をほどこすことになるであろう。
11おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
12また、イエスは自分を招いた人に言われた、「午餐または晩餐の席を設ける場合には、友人、兄弟、親族、金持の隣り人などは呼ばぬがよい。恐らく彼らもあなたを招きかえし、それであなたは返礼を受けることになるから。
13むしろ、宴会を催す場合には、貧しい人、体の不自由な人、足の悪い人、目の見えない人などを招くがよい。
14そうすれば、彼らは返礼ができないから、あなたはさいわいになるであろう。正しい人々の復活の際には、あなたは報いられるであろう」。
15列席者のひとりがこれを聞いてイエスに「神の国で食事をする人は、さいわいです」と言った。
16そこでイエスが言われた、「ある人が盛大な晩餐会を催して、大ぜいの人を招いた。
17晩餐の時刻になったので、招いておいた人たちのもとに僕を送って、『さあ、おいでください。もう準備ができましたから』と言わせた。
18ところが、みんな一様に断りはじめた。最初の人は、『わたしは土地を買いましたので、行って見なければなりません。どうぞ、おゆるしください』と言った。
19ほかの人は、『わたしは五対の牛を買いましたので、それをしらべに行くところです。どうぞ、おゆるしください』、
20もうひとりの人は、『わたしは妻をめとりましたので、参ることができません』と言った。
21僕は帰ってきて、以上の事を主人に報告した。すると家の主人はおこって僕に言った、『いますぐに、町の大通りや小道へ行って、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の悪い人などを、ここへ連れてきなさい』。
22僕は言った、『ご主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席がございます』。
23主人が僕に言った、『道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい。
24あなたがたに言って置くが、招かれた人で、わたしの晩餐にあずかる者はひとりもないであろう』」。
25大ぜいの群衆がついてきたので、イエスは彼らの方に向いて言われた、
26「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。
27自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。
28あなたがたのうちで、だれかが邸宅を建てようと思うなら、それを仕上げるのに足りるだけの金を持っているかどうかを見るため、まず、すわってその費用を計算しないだろうか。
29そうしないと、土台をすえただけで完成することができず、見ているみんなの人が、
30『あの人は建てかけたが、仕上げができなかった』と言ってあざ笑うようになろう。
31また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えるために出て行く場合には、まず座して、こちらの一万人をもって、二万人を率いて向かって来る敵に対抗できるかどうか、考えて見ないだろうか。
32もし自分の力にあまれば、敵がまだ遠くにいるうちに、使者を送って、和を求めるであろう。
33それと同じように、あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない。
34塩は良いものだ。しかし、塩もききめがなくなったら、何によって塩味が取りもどされようか。
35土にも肥料にも役立たず、外に投げ捨てられてしまう。聞く耳のあるものは聞くがよい」。
鍵となる聖句
おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
食卓の決まりが御国の決まりになります。そこには自分を引き上げて入るのではなく、その席に着く資格がないと認めることで入ります。この言葉は、ルカの福音書の別の箇所でも、パリサイ人と取税人について繰り返されます。
むしろ、宴会を催す場合には、貧しい人、体の不自由な人、足の悪い人、目の見えない人などを招くがよい。 そうすれば、彼らは返礼ができないから、あなたはさいわいになるであろう。正しい人々の復活の際には、あなたは報いられるであろう」。
イエスは主人に、返礼を期待する考え方から、与える考え方へ移るよう招かれます。友情や家族を責めているのではありません。私たちの招きの動機を問い、お返しなく与えられたものを神が忘れないと約束しておられます。
主人が僕に言った、『道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい。
主人は自分の家がいっぱいになることを望みます。最初の客たちが断ったあと、招きは貧しい人々に、さらに道やかきねのあたりの人々にまで広がります。このたとえは、ご自分の食卓を満たそうと熱心に求める神を示しています。
「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。 自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。
ここで言う憎むとは、家族を軽蔑するという意味ではなく、徹底して優先するというセム語的な言い方です。イエスは、どんな人もどんなものも自分より先に来てはならないと求めておられます。ローマ世界で十字架を負うことは、死刑囚の歩みでした。
それと同じように、あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない。
塔と王の二つの短いたとえの結論です。弟子となるために、持っているものを捨てることです。説教は、これを単なる持ち物の放棄というより、自分自身への一切の頼りを手放すことと読んでいます。
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ルカによる福音書14章についてよくある質問
ルカ14章26節の、父母を憎むとはどういう意味ですか
イエスは家族を嫌うように命じておられるのではありません。この動詞は、それと比べて愛することが少ないという、優先を表すセム語的な言い方です。選ばなければならないとき、だれもどんなものもイエスより先に来てはならない、という意味です。イエスを中心に置く弟子は、身近な人を軽んじるのではなく、むしろよりよく愛することができます。
大宴会のたとえの意味は何ですか
ある人が大きな晩餐を用意しますが、招かれた人々は次々に断ります。畑、牛、結婚という理由です。イエスは、神の招きは無償であるのに、もっともらしい理由で断ることがあると示されます。そこで主人は貧しい人々や見知らぬ人々に食卓を開きます。最初から除外される人はだれもいません。
今日、自分の十字架を負うとはどういうことですか
一世紀に自分の十字架を負う人は、処刑に向かって歩いていました。ですからイエスは、高ぶりと評判と自己充足に死んで、ご自分に従うようにと求めておられます。それは単に試練に耐えることではなく、十字架の果てまで先に歩まれたかたのあとに、日々ついて行く歩みです。
なぜイエスは塔と戦に出る王について語られるのですか
二つの絵はどちらも、取りかかる前に座って見積もることを求めています。自分の力を試すものとして読まれることが多いのですが、ある説教者はむしろ無力の告白と見ます。一人では建てることも勝つこともできないからこそ、イエスに寄りかかるのだというのです。
ルカによる福音書 14を引用している記事
口語訳(1955年)— パブリックドメイン。