はじめに
あなたはイエスの後ろを歩いています。群衆がいて、みんなで前に進んでいます。すると彼が振り返り、あなたが聞きたくないことを口にします。「もし誰かがわたしのところに来て、自分の父、母、妻、子ども、兄弟、姉妹、そして自分自身の命さえも憎まないなら、わたしの弟子にはなれない。」ルカ14章26節。このMomentumのメッセージの中で、説教者は言葉を和らげようとはしません。まず初めにこう念を押します。イエスはあなたの機嫌を取りに来たのではない、と。聖書は「気分よく過ごせる人生」を提案してはいません。聖書はあなたに本当のことを語ります。時にそれは痛みを伴います。
私たちは誰でも、助けを求めることが苦手です。説教者の妻ローランスは夫婦・家族カウンセラーですが、彼女は多くの夫婦が手遅れになってから相談に来るのを見ています。国もまた、自分たちが衰退していることを認めるのが苦手です。ですから、自分には救い主(自分では自分を救えないので、救ってくださる方)が必要だと認めることは、なおさら難しいのです。私たちの内側には、助けを求める叫びを妨げる抵抗、ある種の高ぶりがあります。そして、ルカ14章25節から35節でイエスが取り組もうとしているのは、まさにこの抵抗なのです。
この箇所が問いかけていることは単純で、今日のあなたにも関わることです。どうやってイエスに従うのか。答えは二つの段階で示されます。イエスをすべてに優先して置くこと。そして、それは彼だけがあなたを最後まで導けるからです。
メッセージの流れ
1. イエスに従うとは、彼をすべてに優先して置くこと(ルカ14章26節から27節)
- 文脈こそが鍵です。ルカ9章51節以来、イエスは十字架で命を捨てるためにエルサレムへ上ろうと「顔を堅く」しておられます。大勢の群衆がこの十字架に向かう道を、彼と共に歩んでいます。
- ここでの「憎む」という動詞は、カルト的な憎しみでも、心の底からの憎悪でもありません。聖書は至るところで、両親を、そして敵さえも愛するようにと私たちに命じています。ここでは、神がヤコブを愛し、エサウを憎んだ、つまりヤコブを選び取ったと記されているときと同じように、徹底的に優先することを表す強い動詞が使われています。
- イエスに従うとは、親、配偶者、子ども、友人、そして自分自身の命という、生まれつきの忠誠の対象よりも彼を優先することです。そこには、人間関係や価値観、選択、時間やエネルギー、お金の使い方における、具体的な忠誠の衝突が生まれます。
- カルヴァンはこう語りました。「キリストを半分だけ求める者は、キリストを丸ごと持ってはいない。」イエスが与えるいのちと、彼なしに自分で築こうとするいのちとを、両立させることはできません。
2. イエスに従うのは、彼だけがあなたを最後まで導けるから(ルカ14章28節から32節)
- 二つのたとえ(塔と王)は同じことを指し示しています。あなたの無力さです。前者は塔を完成できず、後者は戦いに勝つには力が足りません。これは、あなたに従うだけの力があるかを計算せよという招きではなく、あなたにはその力がないという事実の確認です。
- 塔のたとえは思い上がりを突きます。あなたは自分一人で救いを築けると思っています。自分の手元を見てください。最後までやり遂げるための材料など、そこにはありません。
- 王のたとえは軽率さを突きます。「まあ2万人もいれば十分だろう、自分一人で行こう。」いいえ、違います。もし攻めて来る偉大な王が、三たび聖なる神ご自身であるなら、あなた自身のほかに、いったいどんな信頼できる仲介者を送れるでしょうか。
- ペテロは自分の力だけで最後までやり遂げようとして、失敗しました。弟子とは、腰を下ろしてよく考え、自分にはイエスが必要だと認め、自分の十字架を負う者です。それは、自分の思い上がりに対する死のしるしです。
3. 教訓:塩気を持つこと、勇気を持つこと(ルカ14章33節から35節)
- 「こういうわけで、あなたがたのうち、自分の持ち物をすべて捨てない者は、誰もわたしの弟子にはなれない。」33節。これは、自分に救い主が必要だと気づいた弟子の答えです。
- 塩気を失った塩は、捨てられるだけです。徹底的で、分け隔てなく、全面的なものすべてを拒む私たちの西洋社会は、味気ないものになってしまいました。
- 今の社会には、切実に風味が必要です。それを見ようとも望みもしない世界の中で、「私たちには救い主が必要だ」と言う勇気です。
- その勇気は、ごくふつうの一人ひとりの男女が「私は自分自身を救うことができません」と公然と語ることから始まります。
心に留めておきたいこと
- イエスは決してあなたの機嫌を取りません。彼の招きが徹底的なのは、そこにかかっているもの(あなたの救い)が、徹底的なものだからです。
- 「憎む」とは、何よりも優先することを意味します。身近な人を軽んじることではありません。イエスに優先する何かがあることを拒むことです。
- あなたの手元には必要なものがありません。塔であれ戦いであれ、あなたの無力さが出発点です。腰を下ろし、それを正面から見つめてください。
- 自分の十字架を負うとは、自分自身を救おうとするのをやめることです。イエスの姿の陰に身を隠し、彼の足跡を一歩一歩たどって歩むことです。
- あなたの風味とは、あなたの救い主です。味気ない世界の中で、教会には、世界が聞きたくないことを語る勇気があります。
あなた自身への適用
- 今週のあなたの生活の中で、どんな具体的な忠誠(家族、友情、評判、快適さ、お金、計画)が、まだイエスより先に置かれているでしょうか。それを名前で挙げてみてください。
- あなたはどこで、イエスと「彼なしに築く人生」とを両立させようとしていますか。あなたの半端な一歩はどこにありますか。
- あなたはまだ、自分の塔のどんな「材料」に頼っていますか。自分の道徳、自分の努力、自分のクリスチャンとしての過去、自分の善意でしょうか。それでは足りないと認めて、腰を下ろす覚悟がありますか。
- あなたが最後に、身近な誰かにこう公然と語ったのはいつですか。「私は自分自身を救うことができません、イエスが必要です。」今週、誰にそれを聞いてもらえるでしょうか。
- あなたはどこで風味を失いましたか。波風を立てないために、あなたの言葉は周りの相対主義に合わせてしまってはいませんか。神に勇気を求めてください。攻撃的な態度ではなく、勇気を。
引用された聖句
- ルカ 14:25-35(本文)
- ルカ 9:51 ・ イエスがエルサレムへ上る決意を固くする
- ルカ 13:23-30 ・ 狭い門と神の大宴会
- マラキ 1:2-3 ・ 「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」
- 使徒 4:12 ・ 救いはほかの誰によっても見出せない
よくある質問
ルカ14章26節で父母を「憎む」とはどういう意味ですか
聖書の文脈では、イエスが使っているこの強い動詞は、徹底的に優先することを意味します。聖書は至るところで、両親を、そして敵さえも愛し敬うようにと私たちに命じています。ここでイエスが言っているのは、親も配偶者も子どもも友人も、あなた自身の命さえも、彼に優先することはできないということです。これは身近な人々を軽んじる勧めではなく、すべてに優先してイエスを置きなさいという招きです。
なぜイエスは塔を建てる話や戦いに出る王の話をするのですか
この二つのたとえは同じことを指し示しています。あなた自身の無力さです。前者は塔を完成できず、後者は戦いに勝てません。イエスは、あなたが従うだけの力があるかを計算せよと言っているのではありません。あなたにはその力がないこと、そして彼だけがあなたを最後まで、神との平和にまで導けることを示しておられるのです。
今日、「自分の十字架を負う」とは具体的にどういうことですか
1世紀において、十字架を負う者は死に向かっていました。自分の十字架を負うとは、自分自身を救おうとする思い上がりを、そしてイエスと張り合うほかのすべての忠誠を、手放すことです。それは彼の姿の陰に身を隠し、一歩一歩彼に頼り、そのことが人間関係や時間、お金、価値観に生み出す忠誠の衝突を受け入れることです。
メモを取ったり質問したりするにはサインインしてください。