神の国の食卓で味わう、恵みによる格上げ

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はじめに

ある安息日、イエスはパリサイ派のある指導者の家に食事に招かれました。イエスはその様子を見ていました。皆がさりげなく上座を選ぼうとしていたのです。そこでイエスは語り始めます。まず招かれた客たちに、次に自分を招いた主人に対して。この食卓での助言(ルカ14章7〜14節)は、一見すると単なる礼儀作法のように思えるかもしれません。しかし実際には、イエスはもっと深いことを語っています。あなたがどのようにして神の国の食卓に招かれるのか、そしてあなたの日々の生活がどのようにその証しとなり得るのかを、イエスはここで語っているのです。

メッセージの構成

1. 背景:一つの食事をめぐる四つの場面

  • ルカ14章1〜24節はひとまとまりの物語です。すべてが、ある安息日にパリサイ派の指導者の家で行われた食事を舞台にした四つの場面から成っています。
  • 1節が舞台設定です。2〜6節では、皮膚の病を患う人の癒やしが語られます。続いて今回の箇所、食卓での振る舞い方についての教えが来ます。そしてその後、ある客が「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と口にし、イエスは大宴会のたとえで答えます。
  • ルカの福音書には、少なくとも七つの食事の場面がはっきりと記されています。イエスは食事の機会を用いて教えを分かち合っておられました。別の文脈で言えば、プラトンの饗宴やルターの食卓談話を思い起こしてもよいでしょう。

2. 良い客であるとは(7〜11節)

  • イエスが語り始めたのは、招かれた客たちが上座、つまり重要な人物のすぐそばの席を求めていることに気づいたからです。
  • その言葉は二つの部分に分かれています。「招かれたら、上座に着いてはいけない……」(8〜9節)、そして「招かれたら、末席に行って座りなさい……」(10節)。そして「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高くされるのです」(11節)という言葉で締めくくられます。
  • 一見すると、この言葉は今日の私たちにはあまり関係がないように思えるかもしれません。結婚式では席はあらかじめ決められているからです。けれども、イエスが指摘するこの態度は、市長主催の祝賀行事やレセプションなど、公式の場でなお見受けられます。人々は前に出ようと少し肘で押し合うのです。
  • これは真の知恵の教えです。皆の前で格下げされるのは恥ずかしいことであり、逆に格上げされることは実に嬉しいものです。誰もが格上げされることを喜びます。飛行機でも、ホテルでも、レンタカーでも。実は今年の夏、南フランスで妻とレンタカーを借りたとき、まさにそれを経験しました。
  • しかし、イエスは私たちをただの礼儀正しい人間にしたいのではありません。もっと深いところを見つめておられます。

3. 良いもてなし手であるとは(12〜14節)

  • 二つ目の言葉も、最初のものと同じ構造で語られます。「昼食や夕食を催すときには、こうしてはいけない」、そして「宴会を催すときには、こうしなさい」。
  • しかしここでの求めは、さらに鋭いものです。イエスは自分を招いた人に向かって言います。友人や兄弟、親族、裕福な近所の人だけを招くのではなく、貧しい人、体の不自由な人、足の萎えた人、目の見えない人を招きなさい、と。
  • これは私たちの普段の習慣とは異なります。私たちはまず家族や友人、あるいはもっと親しくなりたいと思う知人を招くものです。
  • では、イエスはそれを禁じておられるのでしょうか。いいえ、そうではありません。イエスご自身、友人であるマルタとマリアの招きに応じておられます。弟子たちとの最後の食事も分かち合われました。イエスは、親しい交わりや友情、兄弟としての交わりのすべてを否定しようとしているのではありません。
  • むしろイエスは、私たちの動機について考え直すよう促しておられます。私が招くのは、お返しをしてくれる人、何かを与えてくれる人だけではないだろうか。イエスは私たちに、互恵の論理を離れて、与えることそのものの論理を生きるよう招いておられます。見返りを何も期待せずに与えることの中に、本当の喜びを見出すのです。
  • 結びの言葉は意外なものです。「そうすれば、あなたは幸いです。彼らはお返しができないのですから。義人の復活のときに、あなたは報いを受けるのです」(14節)。イエスはここで、この地上で私たちが行うことは、来るべき世においても決して無駄にはならないと語っておられます。

4. この言葉に込められた二つの深い教え

  • どのようにして神の国の民となるのか。招かれた客たちに向かって、イエスは上座を求める態度、自分がふさわしいと思い込む態度を批判しておられます。パリサイ人と取税人のたとえ(ルカ18章9〜14節)でも、イエスはまったく同じことを指摘します。自分は他の人より優れていると誇るパリサイ人と、遠くに立って身を低くし、自分が「何者でもない」ことを知っている取税人です。そしてイエスはこのたとえを、ルカ14章と同じ言葉で結んでおられます。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高くされるのです」。つまり、神の国の食卓に席を得るのは、まさに自分にはその資格がないと認めるときなのです。神の国に入るとは、驚くべき格上げです。単に一つ上のクラスへの格上げではなく、想像を超えた、まったく無償の格上げなのです。
  • 私たちの生き方が神の国の価値観に満たされること。自分を招いた人に語りかけることで、イエスはあなたに気づかせようとしています。私たちの日々の態度、日常のちょっとした振る舞い。たとえありふれた招待であっても。それはひとつのメッセージになるということです。そのメッセージは神の国の価値観に反することもあれば、逆にそれを明らかに示すこともあります。神の国の民となるとき、あなたは望むと望まざるとにかかわらず、来たるべきこの国の大使ともなるのです。大使は自分を受け入れる国から報酬を受け取ることを期待するのではなく、自分を遣わした国から受け取ります。それが14節の意味です。「義人の復活のときに、あなたは報いを受けるのです」。

5. 御子の論理、私たちの模範

  • この神の国の論理を、イエスご自身が完全に生きられました。神の御子であり、神の国の民の中の民でありながら、イエスは上座を求めることをなさいませんでした。すべての人に仕える者となり、末席。それはしもべの席であり、十字架の死へと至る席。を取ることをためらいませんでした。
  • イエスもまた、招きを発してくださいました。自分が貧しく、体が不自由で、足が萎え、目が見えないと知っている人たちへ。自分には神の国にふさわしくない、資格がないと知っている人たちへの招きです。ルカの福音書は特にこの点を強調しています。「丈夫な人には医者はいりません。いるのは病人です」。
  • もしあなたがクリスチャンなら、思い起こしてください。それはあなたが格上げされたからです。驚くべき、思いがけない、並外れた格上げによって。あなたにはまったく権利のなかった席です。そしてイエスはあなたにこう語られます。この格上げは、最もふさわしい者に与えられる特権ではありません。それはすべての人に、例外なく開かれた恵みなのです。

心に留めておきたいこと

  • 神の国の食卓は勝ち取るものではなく、受け取るものです。そこに席を得るのは、まさに自分にその資格がないと認めるときです。
  • 上座を求めることは、自分にその資格があると信じることです。末席を選ぶことは、自分が受けるに値しない恵みに頼っていると認めることです。
  • 救いとは驚くべき格上げです。一つ上のカテゴリーではなく、あなたの中の何ものも交渉できなかった席です。
  • あなたの招き方、迎え方、仕え方は決して中立ではありません。それは神の国の価値観を告げ知らせるか、あるいは覆い隠すかのどちらかです。
  • 神の国の民となったあなたは、その大使ともなります。あなたの報いはこの地上からではなく、義人の復活から来ます。

個人的な適用のために

  1. 神の前で、あなたは自然にどこに座ろうとしていますか。まるでクリスチャンとしての立場を「勝ち取った」かのように上座にでしょうか。それとも、ただ恵みによって生きる者として末席にでしょうか。
  2. 家族や友人、同僚を招くときの自分の姿勢を振り返ってみてください。あなたの根底にある動機は何でしょうか。与えることの喜びでしょうか、それとも見返り(招待、評判、恩返し)への期待でしょうか。
  3. あなたの周りに、あなたの社交の食卓に「ふさわしくない」とされる人。決してお返しができない人。がいませんか。今週、その人を迎え入れることができるでしょうか。
  4. あなたの日常生活のどの部分で、あなたの態度は今なお神の国の価値観に反しているでしょうか。逆に、どこで本当の証しとなっているでしょうか。
  5. 今週、少し時間を取って、あなたが受けている格上げのゆえに神に感謝してください。「思っていたより自分には価値があった」ではなく、「自分では決して到達できなかった場所を、神が与えてくださった」という感謝です。

引用された聖句

よくある質問

イエスは本当に家族や友人を食卓に招くことを禁じているのですか。

いいえ、そうではありません。イエスご自身、友人であるマルタとマリアの招きに応じておられますし、弟子たちとの最後の食事も分かち合われました。イエスは親しい交わりも、友情も、家族との関係も否定してはいません。イエスが指摘しているのは、互恵の論理を極端に押し進め、お返しをしてくれる人、何かを与えてくれる人だけを招くという姿勢です。イエスは私たちに、見返りとして何も与えられない人にも食卓を開くよう招いておられます。

神の国の食卓で「格上げされる」とはどういう意味ですか。

日常生活で格上げされるとは、支払った金額以上の席やクラスを受け取ることを意味し、たいていは思いがけない嬉しい出来事です。イエスはこの感覚を用いて救いについて語っています。神の国の食卓では、あなたはただ「本来の一つ上のクラス」を受け取るのではありません。まったく権利のなかった席を受け取るのです。それは優れた者への特権ではなく、すべての人に差し出される、受けるに値しない恵みなのです。

偽りの謙遜に陥ることなく、具体的にどうやって「末席を選ぶ」ことができますか。

それは自分をおとしめたり、注目を集めるためにわざと低く見せたりすることではありません。それはむしろ一種の高ぶりにすぎません。そうではなく、神の前で正直に、自分が完全に神の恵みに依存しており、神の国においても人との関係においても、どんな席も自分に当然与えられるものではないと認めることです。具体的には、目立とうとせずに仕えること、進んで最初の発言を人に譲ること、社会が「最後」に位置づける人々を迎え入れること、忘れられたときにこそ喜ぶことです。イエスが言うように、その報いはこの地上にあるのではなく、義人の復活のときに来るのです。

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