神様が書かれる物語の中で、あなたの居場所はどこにあるのでしょうか。エフェソ2:11-22を基にしたこのメッセージで、ステファン・ギエは、教会を和解が目に見える形になる場所として、そして一人ひとりの変えられた人生が神様の知恵を表す場所として、改めて捉え直すよう招いています。
はじめに:すべてを変える二つの問い
エフェソの信徒への手紙2章で、パウロは密度の濃い文章を書いています。彼は異邦人たちに、かつて自分たちがキリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約とは無縁の、この世にあって希望を持たず、神を持たない者たちだったことを思い起こさせます。そして逆転が告げられます。「しかし、あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今やキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となったのです。」
使徒パウロはそこで終わりません。3章の冒頭で、彼は言いかけて途中でやめてしまう文を書き始めます。「こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となったこの私パウロが……」。そこで文が途切れるのです。彼は一息つき、自分が描いたばかりの壮大な絵に立ち返り、今度は自分自身をその中に含めます。自分の働きについて、救いの計画における自分の場所について語り始めるのです。
そこには二つの問いが流れています。それはあなたにとっても同じ問いです。自分は何者なのか?そして自分の居場所はどこなのか?
メッセージの構成
1. 私は何者なのか:パウロの大転換
パウロとはどんな人物だったのでしょうか。彼自身がいくつかの手紙で語っています。彼はユダヤ人であることを誇りとし、ベニヤミン族(ダビデ王の部族)の出身でした。エルサレムで最高の教師たちのもとで学びました。パリサイ人であり、先祖の伝統に熱心で、成文律法にも口伝律法にも深く精通していました。
そして、彼はクリスチャンを激しく迫害する者でもありました。使徒言行録が伝えるように、パウロはエルサレムで家々を回り、男女を問わず捕らえ、彼らの死を求め、信仰を捨てさせようとし、鞭打たせました。彼にとって、イスラエルに約束されたメシアが十字架につけられた一人の男であるなどという主張は、つまずきであり、冒瀆でした。
もしあなたがその頃のパウロに出会っていたら、こう思ったかもしれません。「あの人はもう手遅れだ」と。あなたも誰かについてそう思ったことがあるかもしれません。あるいは、自分自身についてそう思っているかもしれません。「私は遠すぎる。自分がしてきたこと、自分の在り方を、どうやって取り戻せばいいのか」と。
パウロは明らかに間違った道を歩んでいました。しかし神様は、その誤った確信のただ中にいる彼に会いに来られました。ダマスコへの道で、彼はイエス・キリストがメシアであり、神の子であること、そして自分こそがその方を迫害している当人であることを啓示されます。完全な逆転です。彼の世界観、神学、アイデンティティ。すべてが揺さぶられました。
自分が正しいと思い込んでいたパウロは、実は自分が完全に間違っていたこと、神様が自分を赦してくださること、そしてキリストこそが父なる神に近づく唯一の道であることに気づきます。だからこそ彼はこう書くのです。「私が今の私であるのは、神様の賜物によるのです。神様がその恵みによって、力強く働いてくださった賜物なのです。」
パウロは、自分が受けた恵みを完全に自覚しています。これは謙遜のふりではありません。自分にふさわしくない贈り物を受け取ったと知っている人の言葉です。このような大転換を起こせるのは神様だけです。ここでの神様の力とは、まさにその恵みの表れであり、一人の人を完全に変えて、ご自身の計画の中に入らせるものなのです。
迫害する者だったパウロは、宣教する者となりました。クリスチャンを牢に入れていた処刑人が、今度は自らの宣教のために牢に入れられる身となったのです。彼自身の言葉によれば、彼はキリストの囚人です。この表現には、とても美しい比喩的な意味もあります。パウロはキリストのものです。なぜならキリストが彼を捕らえてくださったからです。彼はもはや自分自身のためではなく、他者のために生きているのです。彼の働きとは、すべての人に、特に異邦人に、この良い知らせを伝えることでした。
2. 教会を壊す者から、教会を建てる者へ
福音によって、パウロは自分がこれまで引いていた内なる境界線が崩れ去ったことに気づきます。すべての人が、出自、身分、年齢、背景の違いにかかわらず、同じ祝福を受けます。イエスを信じるすべての人は神様の相続人であり、同じ一つの体の一部であり、同じ約束にあずかる者です。すべての人がキリストにあって富む者であり、すべての人が神様に近づく道を持っています。
パウロは、机の上から立派な助言をするだけの理論家ではありません。紙の上では、異なる文化、身分、世代からなる教会というのは実に美しいものです。しかし現実の生活では、それは難しいことです。この計画には、自然に成り立つものは何もありません。パウロはそれを知っていました。彼は現場の人であり、当時の世界を巡り歩き、大陸、文化、宗教、思想の橋渡しをした旅人です。キリストにあって和解されたこの新しい人類を体現する、その先駆者だったのです。
彼はその困難さを自覚していました。そうでなければ、これほどのことを書き記さなかったでしょう。彼はこの召しのために苦しみ、この手紙を書いているその時も獄中にありました。しかしパウロは、神様の計画の質を、自分自身の苦しみの度合いで測ることは決してありません。もし彼が耐え忍び、この良い知らせを人々の具体的な生活の中で示し続けたのだとすれば、それは彼が教会とは何か、その使命とは何かを深く理解していたからです。
3. 私の居場所はどこか:エフェソ3:10の啓示
この使命を、パウロは3章10節でこう表現しています。「それは、今、教会を通して、天上の支配や権威に神様の限りなく豊かな知恵が知らされるためです。」
もう一度読んでみてください。これがこの箇所の頂点です。教会はすべての者に、特に天の諸力に、神様の知恵を表すのです。
ある神学者たちは、これを理解するための一つのイメージを示しています。それは演劇のイメージです。神様は演出家です。永遠の昔から、神様は一つの壮大な物語を書いてこられました。キリストはご自分の命をもってその企画の資金を出され、その脚本を可能にしてくださいました。幕が上がり、俳優たちが舞台に登場します。その俳優とは誰でしょうか。私たちです。教会です。
最も驚くべきは観客です。パウロは、それが天上の支配者たち、霊的な諸力だと言います。彼らはその舞台を見ています。私たちの人生を観察しているのです。そして彼らが、和解した人々、敵同士だった者たちが兄弟姉妹になり、罪人が仕える者になる姿を見るたびに、彼らはあることを認めざるを得ません。神様は限りなく知恵深く、その勝利は本物であるということです。
教会は神様の御業を傍観する者ではありません。教会こそが、その生きた実証なのです。だから問うべきは、「自分の人生の中で神様の居場所はどこか」ではなく、「神様の物語の中で自分の居場所はどこか。この宇宙規模の劇の中で、自分はどんな役を演じるのか」ということなのです。
4. 自分の居場所を見つける三つの方法
脚本を知ること。神様の計画を知らずに、どうやって教会として生きられるでしょうか。あなたを創造し、贖い、永遠の昔からこの脚本を書かれたのは神様です。その脚本とは、聖書です。パウロのような人々が、御霊に導かれて神様のご計画を明らかにし、それがもはや秘密でなくなるようにしてくれました。読み、黙想し、学んでください。そしてそれを、すべてを明らかにしてくださる聖霊の助けを借りて行ってください。語り、あなたを形づくり、善と悪、真実と偽りについての御自身のビジョンを与えてくださるのは神様です。
その物語によって自分が変えられるままになること。俳優が脚本にじっくり浸る時間を取るように、御言葉があなたに働きかけるままにしてください。聖書を開くとき、神様にこう尋ねてください。「今日、あなたは私に何を明らかにしてくださいますか。あなたの恵みの力によって何を変えてくださいますか。父よ、平和をつくるために、私はだれと共に歩むよう召されているのですか」と。パウロにとってそうであったように、福音はただ良いアイデアを与えるだけではありません。人そのものを変えるのです。敵を兄弟姉妹に、迫害する者を仕える者に変えるのです。
その物語を体現し、演じ、生きること。エフェソの信徒への手紙全体は、「それが良いことだから」とか「クリスチャンとはそういうものだから」という理由で、多様で一つに結ばれた教会になろうと呼びかけているのではありません。それは神様のためにそうするようにと呼びかけているのです。あなたが赦すとき、あなたが手を差し伸べるとき、あなたが自分の快適な領域を出て、考え方の違う相手のもとへ向かうとき、あなたはあなたの神様がどれほど偉大で栄光に満ちた方であるかを、天上の支配者たちや権威に示しているのです。どんなありふれた状況にあっても、こう自問してみてください。「今ここで、どうすれば神様にスポットライトを当てられるだろうか」と。
5. 試練の中で落胆しないために
パウロの模範に、そして何よりイエス様の模範に倣ってください。苦しみは神様の失敗のしるしではありません。それはまた、あなたの奉仕やこの計画におけるあなたの役割の失敗でもありません。パウロが獄中にあったからこそ、彼はあの手紙を書くことができました。そして何千年も経った今も、その手紙は私たちの人生の中でキリストの勝利を響かせ続けているのです。
この朝、育むべき感謝があります。私たちより先に歩んだすべての人々への感謝、パウロの特別な働きへの感謝、そして私たちより前に、偉大な神様を証しした、変えられたすべての人生への感謝です。神様の恵みは人々を変え、その計画の中に招き入れます。それは教会が、キリストの目に見える勝利となるためです。世に対して、そして諸力に対しても、目に見える勝利として。
心に留めたいポイント
- 恵みはどんな人にも届きます。誰も遠すぎたり、失われすぎていたり、汚れすぎていて神様に届かないということはありません。迫害者パウロがその証拠です。
- あなたのアイデンティティは、築くものである前に受け取るものです。パウロと同じように、あなたもまず「キリストの囚人」。キリストに捕らえられ、キリストのものとされた者なのです。
- 教会は傍観者ではなく、実証者です。変えられた一つひとつの人生、一つひとつの和解が、天にまで及ぶ神様の知恵を表しています。
- 問うべき問いが変わりました。「自分の人生の中で神様の居場所はどこか」ではなく、「神様の物語の中で自分の居場所はどこか」です。
- 苦しみは計画の失敗ではありません。パウロは獄中で最も美しい手紙を書きました。あなたの試練も、目に見える以上の実を結ぶことができます。
個人的な適用
- あなたの周りに、「もう手遅れだ」と決めつけてしまった人はいませんか。パウロが受けた恵みは、その人へのあなたのまなざしを今日どう変えるでしょうか。
- もしパウロのように一言で自己紹介するなら(「私はキリストの囚人です」)、あなたなら自分の本当のアイデンティティをどう言い表しますか。
- 文化、身分、世代、価値観の違いなど、今週あなたの教会生活の中で、福音があなたに手放すよう求めている内なる境界線は何でしょうか。
- 今週、聖書を開いてこう祈る時間を取ってみてください。「父よ、平和をつくるために、私はだれと共に歩むよう召されているのですか」。心に浮かんだことを書き留めてください。
- どんなありふれた状況で、今日、「神様にスポットライトを当てる」ことができるでしょうか。ある会話、ある赦し、ある隠れた奉仕。具体的に何でしょうか。
引用聖句
- エフェソ 2:11-22 ·、遠く離れていたあなたがたが、キリストの血によって近い者となった。
- エフェソ 3:1-13 ·、キリストの囚人パウロ、明らかにされた奥義、教会を通して示される神様の知恵。
- エフェソ 3:10 ·、「それは、今、教会を通して、天上の支配や権威に神様の限りなく豊かな知恵が知らされるためです。」
- 使徒言行録 9:1-19 ·、ダマスコへの道でのパウロとキリストとの出会い。
- ペトロの手紙二 3:15-16 ·、ペトロは、パウロの手紙には理解しにくい箇所があることを認めている。
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よくある質問
「キリストの囚人パウロ」とは、正確にはどういう意味ですか。
パウロは、エフェソの信徒に手紙を書いている時、福音を宣べ伝えたために文字通り牢獄にいました。しかしこの表現には、非常に力強い霊的な意味もあります。パウロはキリストのものです。なぜなら、ダマスコへの道でキリストが彼を捕らえてくださったからです。彼はもはや自分自身のために生きていません。これは、「私はキリストが人生を掌握してくださった者です」という、美しく解放的なアイデンティティの言い表し方なのです。
なぜパウロは、教会が天上の諸力に神様の知恵を表すと言うのですか。
エフェソ3:10で、パウロは、ユダヤ人と異邦人という、かつての敵同士を一つの和解された体に結び合わせるという神様の永遠のご計画が、人間だけでなく霊的な現実に対しても示される、神様の知恵の公的な実証であると語っています。演劇の比喩はこれを理解する助けになります。私たちは俳優であり、神様は演出家であり、諸力はその舞台を観ています。教会の中で経験される一つひとつの和解は、キリストの勝利が本物であることの目に見える証しなのです。
具体的にどうすれば、神様の物語の中で自分の居場所を見つけられますか。
このメッセージからは三つの道筋が浮かび上がります。まず、聖霊の助けを借りて聖書を読み、黙想し、学ぶことで脚本を知ること。次に、神様にあなたの中で何を変えたいのかを尋ねながら、この御言葉によって自分が変えられるままにすること。最後に、今あなたがいる場所で和解を生きることによって、その物語を体現すること。赦し、他者への心の開き、快適な領域からの一歩。それは良く見られるためではなく、神様に栄光を帰すためです。
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