はじめに
新しい年を迎えるたびに、同じ問いが心に浮かびます。私たちの教会は、何をいちばん大切な証しとして掲げるべきなのでしょうか。2026年1月4日に語られたこのメッセージで、マシュー・グロック師はマタイ9:9-17を開き、教会の使命とはまず何よりもイエス・キリストご自身を証しすることだと語ります。プログラムでも、方法論でも、スタイルでもなく、ひとりの人格です。師はまず、三十年、四十年、五十年とこの群れに連なってきた兄弟姉妹たちに感謝を捧げます。普遍的な教会が、こうしてひとつひとつの具体的な場所に形をとり、ある一群の人々がともに、この地域で、今ここでキリストの御国の現実を示そうと決意している――その証しなのです。
メッセージの流れ
1. 多様性の中で一つに結ばれた教会、ただ一つの証しのために
- 2024年の教会修養会で作られたミッションステートメントはこうまとめています。「多様性の中で一つに結ばれたこの教会は、一人ひとりを迎え入れ、ともにイエス・キリストの証しに参与します。教会員のニーズにも、地域の人々のニーズにも耳を傾けながら。」
- 教会は自分自身のために存在するのではなく、神が送ってくださる人々を迎え入れるために存在します。まだここにいない人も、長くここにいる人と同じくらい大切な存在です。
- クリスチャンの歩みは一人では生きられません。パリでは住民の半数がひとり暮らしですが、教会はもう一つの道を差し出します。兄弟姉妹の交わり、賜物の補い合い、愛による一致、そして言葉と生き方の一致です。
- そのすべては、ただ一つの目的のためです。イエス・キリストを証しすること。主は今この瞬間、ご自分の民のただ中に生きて臨んでおられます。呼びかけ、慰め、とりなしてくださるのは主ご自身です。
2. 主の御国――新しい皮袋に入れる新しいぶどう酒
- マタイ9:16-17「だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしません。そんなことをすれば、皮袋は破れ、ぶどう酒は流れ出し、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるものです。」
- イエスの御国はまったく新しいものです。主を証しするとき、私たちは新しい人類がすでに今ここに存在していることを宣べ伝えているのです。
- 多くの宗教は一つの文化や民族の中に閉じ込められています。しかしイエス・キリストの教会は、あらゆる国民を一つに集めます。私たちの多様性も一致も、私たち自身から生まれるものではありません。キリストが新しい現実を創造してくださるからこそ生まれるのです。
- 新しい皮袋に注がれるべき新しいぶどう酒とは、主ご自身のことです。そして主は豊かないのちをもたらしてくださいます。それは世界の現実の苦しみを無視するものではなく、永遠のいのちの約束によってその苦しみを乗り越えていくいのちです。
3. 主の人格――その権威とアイデンティティ
- 主の権威(9節)「イエスはそこを立ち去り、道を進んで行くと、マタイという人が収税所に座っているのを見て、『わたしについて来なさい』と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。」マタイはローマのために税を取り立てる者として、皆から軽蔑されていました。イエスは彼を呼び、彼は立ち上がります。人を押しつぶすのではなく、その人を尊重する権威、抗いようのない招きです。
- 状況に左右されない主のアイデンティティ(10-13節)。マタイの家で取税人や「罪人」たちと食卓を囲むイエスに、パリサイ人たちはつまずきます。主はこう答えます。「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人です……わたしが喜びとするのは、あわれみであって、いけにえではありません。」
- パリサイ人たちの宗教は分離の宗教でした。他人を避けることで聖さを保とうとするのです。私たちの内にも、少しばかりパリサイ人的な傾向があります。自分たちと違うやり方をする人を裁いたり、逆に厳格すぎる人を裁いたり。しかしイエスは、そのようなゲームには一切関わろうとされません。
- なぜでしょうか。主が、ご自分のアイデンティティに確信を持っておられるからです。主は病を恐れないその医者です。病人から身を守るのではなく、ご自分こそがいのちそのものであり、他の人々にそのいのちを「感染」させに来られたのです。病と死の結果を覆すことができるのは、主おひとりだけです。
4. 主のみわざ――道徳的な変化より先にある恵み
- イエスは悪から距離を置いたりはされません。罪人の家に入って行かれます。まず道徳的な変化を求めるのではなく、人を変える恵みをお与えになるのです。
- これは地域教会にとって、いつも突きつけられる挑戦です。私たちはよく福音の結果――戒め、生き方の変化、暮らし方――について語ります。それは良いことですが、福音そのものはイエス・キリストです。
- 私たちは、承認されるため、受け入れられるために従うのではありません。神の恵みがすでに私たちの人生に入っているから従うのです。宣べ伝えるべきはイエスであって、変化そのものではありません。
- このみわざは十字架において完全に成し遂げられました。主の晩餐が記念しているのはまさにそのことです。イエスは私たちのために罪となることを受け入れられました。誰かが代価を払わなければならなかった、あの信じがたい交換――それを主が成し遂げてくださったのです。
5. 主の招き――あなた個人に届く御声
- イエスはマタイを召されました。福音書全体を通して、主はさまざまな状況にある多くの人々を召しておられます。決まった型はありません。ある人はすぐに応えました。ある人は理解するまでに何年もかかりました。またある人はクリスチャンの家庭に生まれ、物心ついたときから福音を聞いてきました。
- しかし変わらないことが一つあります。イエスが召されるとき、召しておられるのは主ご自身だということです。それはあなたの両親の声でも、牧師の声でも、長老の声でも、隣人の声でもありません。主ご自身の御声です。
- 今日もなお、イエスはご自分の民のただ中におられ、あなたに呼びかけておられます。もう一度主を見つめ直すように、主があなたのためにしてくださったことを思い出すように、あなたの思いを主に向け直すように。
- その姿勢にとどまるとき、他のすべてがより明確に、より扱いやすくなります。あなたを苛立たせる人々も、乗り越えられそうにない状況も、神にゆだねることができます。キリストがあなたをそのように扱ってくださっているからです。
覚えておきたいポイント
- 教会の証しとは、まず何よりもイエス・キリストというお方の証しです。私たちのプログラムでも、私たちの変化でもありません。
- キリストの御国は古い皮袋には収まらない新しいぶどう酒です。あらゆる国民を一つに集める新しい人類を創造します。
- イエスは人を尊重する権威と、状況に左右されないアイデンティティをお持ちです。主はいのちそのものだからこそ、汚されることなく排除された人々と共に座ることができます。
- 福音はまず道徳的な変化を求めるのではなく、人を変える恵みを与えます。宣べ伝えるべきはイエスであって、その結果ではありません。
- イエスがあなたを召されるとき、それは主の御声です。あなたの両親の声でも、牧師の声でもありません。今日、その声に耳を傾けてください。
個人への適用
- あなたが自分の信仰について周りの人に語るとき、まずイエスを証ししていますか。それとも、まず信仰の道徳的・実際的な効果を語っていますか。
- あなたの周りや地域に、マタイのような「軽蔑されている人」――イエスがあなたを遣わそうとしておられる相手はいませんか。
- あなたが最もパリサイ人的になりやすいのはどんな点でしょうか。十分に厳格でない人を裁くことでしょうか、それとも厳格すぎる人を裁くことでしょうか。
- あなたは神に受け入れられるために善い人であろうとしていますか。それとも、神の恵みがすでにあなたの人生に入っているからそうしているのですか。この違いがすべてを変えます。
- 今、イエスに従うことに関して、あなたが最も耳を傾けている声は何でしょうか。少し時間を取って、主の御声を再び中心の声にしてください。
引用聖句
- マタイ 9:9-17 ― マタイの召し、彼の家での食事、断食と新しいぶどう酒
- マタイ 9:9 ― マタイへの「わたしについて来なさい」という招き
- マタイ 9:12-13 ― 「わたしが喜びとするのは、あわれみであって、いけにえではありません」
- マタイ 9:16-17 ― 新しいぶどう酒と新しい皮袋
- ホセア 6:6 ― 「わたしが喜びとするのは真実の愛であって、いけにえではない」(イエスが引用した箇所)
よくある質問
地域教会にとって「イエス・キリストを証しする」とはどういう意味ですか。
マシュー・グロック師によれば、イエス・キリストを証しするとは、キリストがどなたであるか、何をなさったか、その御国、そしてその招きについて語ることです。地域教会にとって、それは具体的に四つのことを意味します。主の人格(その権威とアイデンティティ)を宣べ伝えること、主のみわざ(十字架で成し遂げられた恵み)を宣べ伝えること、主の御国(神が始めておられる新しい人類)を宣べ伝えること、そして主の招き(一人ひとりに届く個人的な御声)を宣べ伝えることです。この証しは、多様性の中で、教会員のニーズにも地域の人々のニーズにも耳を傾けながら、ともに生きられるものです。
なぜイエスは取税人や罪人たちと食事をともにされたのですか。
それは、主が医者であり、医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人だからです。パリサイ人の宗教が分離の宗教であったのに対して、イエスの宗教は受肉の宗教です。主は「汚される」ことを恐れず人々のただ中に来られます。なぜなら主ご自身がいのちそのものであり、そのいのちを他の人々に注ぎ込みに来られたからです。主のアイデンティティは確かなものであり、状況に左右されません。だからこそ、社会が排除する人々と食卓をともにすることができるのです。
マタイ9章の「新しいぶどう酒と新しい皮袋」のたとえは何を意味していますか。
イエスはこのたとえを用いて、ご自分が以前あったものとはまったく異なる存在であることを示されます。主は古い宗教的な秩序を覆しに来られました。主ご自身がこの新しいぶどう酒であり、この新しいぶどう酒は新しい皮袋――新しい心、新しい共同体、新しい生き方――を必要とします。それは苦しみが消え去るという意味ではありません。しかし主がもたらす永遠のいのちは、この世界の現状を希望をもって乗り越えていく力を与えてくれます。
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