水の上を歩かれるイエス様 嵐の中で信仰の一歩を踏み出そう

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水の上を歩かれるイエス様 嵐の中で信仰の一歩を踏み出そう

岸が見えない暗闇の中、必死に舟をこぎ続ける夜があります。もう全力を尽くしたのに、風はやまず、どこに向かっているのかもわからない。そんな時、「主はどこにおられるのだろう」と心の中で問いかけたことはありませんか。まさにそれが、ヨハネの福音書6章16節から21節でヨハネが語る場面です。イエス様は嵐のただ中を歩いて来られました。それは弟子たちを驚かせるためではなく、ご自分を彼らに現すためでした。サミュエル・ショット師があなたの教会でこの箇所を語ってくださいましたが、そのメッセージは一言に要約できます。「イエス様は、私たちの嵐の中を歩む道であり、私たちを信仰の一歩へと招いておられる」ということです。

それでは、今朝、イエス様がどのようにあなたの舟に近づいて来られるのか、一緒に見ていきましょう。

メッセージの構成

  1. イエス様ご自身に焦点を当てた、簡潔な奇跡
  2. あなたの目が見えなくなっている時こそ、神様はしるしを送ってくださる
  3. 「わたしだ。恐れることはない」――イエス様は「わたしはある」というお方として現れる
  4. 信仰の一歩――目を上げて、イエス様を舟に迎え入れる

1. イエス様に焦点を当てた、簡潔な奇跡

場面はとてもシンプルです。夕方になりました。弟子たちは湖岸に下りて舟に乗り込み、カペナウムへ向けて漕ぎ出します。あたりは暗く、イエス様はまだ彼らのところに来ておられません。風が吹き始め、湖は荒れてきます。弟子たちは漕ぎに漕ぎ、25、30スタディオン、つまり5、6キロメートルほど進みました。すると湖の真ん中で、イエス様が水の上を歩いて舟に近づいて来られるのが見えたのです。彼らは恐れました。イエス様を舟に迎え入れようとすると、たちまち舟は目指す地に着きました。

サミュエル師は大切なことを指摘してくださいました。この奇跡はマタイの福音書とマルコの福音書にも記されていますが、ヨハネはずっと簡潔に描いています。イエス様が弟子たちに湖を渡るよう命じられたことは書いていません(マタイとマルコとは違います)。水の上を歩いたペテロが、途中で沈みかけたエピソードも記していません。なぜでしょうか。

それは、ヨハネがあなたの目をただ一つのことに向けさせたいからです。それは、イエス様ご自身です。ヨハネ20章31節でこう記しています。「これらのことが書かれたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるようになるため」だと。ここでヨハネは背景を取り払い、あなたをイエス様ご自身と向き合わせます。イエス様がどなたであるか、何を現しておられるか、あなたに何を信じるよう求めておられるか、そこにあなたの目を向けさせるのです。

2. あなたの目が見えなくなっている時こそ、神様はしるしを送ってくださる

弟子たちは、ちょうどパンの奇跡を経験したばかりでした。五千人もの人々をイエス様が養われたのを、自分の目で見たのです。それなのに、その数時間後、嵐のただ中で、彼らはなおも見えない状態にありました。マルコの福音書はもっとはっきりと書いています。彼らはパンの奇跡が何を意味していたのか、理解していなかったのです。

そこで主は、彼らをある状況に置かれます。夜の航海。逆風。前に進めない。向こう岸も見えない。暗闇によって肉体的に見えなくなり、イエス様が誰であるかという理解においても霊的に見えなくなっていたのです。そして、イエス様が現れると、彼らは恐れます。マタイとマルコによれば、幽霊だと思ったのです。

サミュエル師はわかりやすい例を挙げてくださいました。高速道路を走っていて、標識は目に入っているのに、指し示している方向が理解できない――そんな感じだと。標識はそこにあります。あなたに語りかけています。でも、あなたはその意味をつかめずにいるのです。

あなたも、そんな状態にあるかもしれません。決断しなければならないのに、その先が見えない。仕事のこと、家族のこと、あなた自身の生活の中の何かが重くのしかかり、キリストとの関係を妨げている。霧が立ち込め、波が打ち寄せ、そのただ中でイエス様が見えなくなってしまう。

そのような時にも、神様はあなたを見捨てられません。しるしを通して、目に見える形で、あなたの心と状況にふさわしい方法で、助けに来てくださいます。それはいつも劇的な奇跡とは限りません。受け取った一言かもしれません。ある出来事かもしれません。遣わされた兄弟姉妹かもしれません。ふと違った深みをもって迫ってくる一節の聖句かもしれません。主は教育者です。あなたが通っている出来事を通してあなたに語りかけ、あなたが目を上げて主ご自身を認めるようにと導いてくださるのです。

3. 「わたしだ。恐れることはない」――イエス様は「わたしはある」というお方として現れる

この箇所の中心は、20節にあるイエス様の短い言葉にあります。「わたしだ。恐れることはない。」ギリシャ語では、この表現は「エゴー・エイミ」――文字どおりには「わたしはある」です。これは、神様が出エジプト記3章で、燃える柴の中からモーセに現れる時に使われるのと同じ表現です。「わたしはある、という者だ」と。

これは決して偶然ではありません。ヨハネは福音書全体を通して、イエス様の七つの「わたしはある」を描いています。わたしはいのちのパンである、わたしは世の光である、わたしは門である、わたしは良い羊飼いである、わたしはよみがえりであり、いのちである、わたしは道であり、真理であり、いのちである、わたしはまことのぶどうの木である。ここ、嵐のただ中で、イエス様は「安心しなさい、友であるわたしだよ」とだけ言っておられるのではありません。弟子たちにこう告げておられるのです。「わたしはある。」わたしは奇跡を行うただの人ではない。あなたがたに近づいてこられた、人となられた神である。わたしを信じなさい。もうわたしを恐れなくていい。

そしてこの場面が、それを証ししています。体重約80キログラムの人間が水面に足を置けば、浮力も、水面の抵抗も、重力も、すべてが不利に働き、瞬時に沈んでしまうはずです。それでもイエス様は歩かれました。イエス様は物理の法則さえ超えて歩まれます。なぜなら、イエス様こそその法則をお造りになった創造主だからです。その全能性と神性が、はっきりと現れているのです。

サミュエル師は、燃える柴の前に立つモーセの場面を思い起こさせてくださいました。モーセは打ちひしがれていました。ファラオのもとへ行くことを恐れ、自分の民から拒まれることを恐れていました。そこに神様が近づき、「わたしはある」と名乗り、こう言われます。「恐れてはならない。」それは、嵐に翻弄される舟の中の弟子たちに語りかけたのと同じ声、同じ神様です。そして、それは今、あなたの嵐の中で、あなたに語りかけている同じ声でもあるのです。

4. 信仰の一歩――目を上げて、イエス様を舟に迎え入れよう

この奇跡は、あなたからの応答を求めています。それは信仰の一歩です。

ヨハネは21節に、注目すべきことを記しています。弟子たちはイエスを舟に迎えようとしたが、舟はすぐに目指す地に着いたのです。この時間の流れに注目してください。彼らは湖の真ん中、5、6キロメートルの地点にいました。イエス様がやって来られます。彼らはイエス様を迎え入れます。そして、たちまち目的地に着くのです。彼らを向こう岸へ運んだのは、彼らの努力ではありません。舟でもなく、櫂でもありません。舟に迎え入れられたイエス様が、彼らを行くべき場所へ運んでくださったのです。

ここに、あなたの信仰が問われる場面があります。主は、あなたに具体的な応答を求めておられます。目を上げること、そしてイエス様を舟に迎え入れることです。

目を上げるとは、出口の見えない状況から目をそらし、キリストに視線を定めることです。マタイの福音書の記事にあるペテロのように――彼はイエス様に目を留めている間は水の上を歩くことができましたが、波に目を向けたとたん、沈み始めました。あなたも、主を見つめ続ける限り、深く困難な出来事の中を渡っていくことができます。ひとたび視線をそらしてしまえば、たちまち浮力の法則が力を取り戻すのです。

イエス様を舟に迎え入れるとは、こう告げることに他なりません。「主よ、私はあなたを信じます。あなたが道であり、真理であり、いのちであることを信じます。あなたがこの状況から私を救い出し、目の前の霧を晴らしてくださることができると信じます。私の人生に、私の舟に来てください。あなたなしでは、私は何者でもないからです。」

そして、サミュエル師は最後に、大切なことを思い起こさせてくださいました。イエス様があなたのために開いてくださったこの道は、無償のものではありません。それは十字架を通ってきた道です。人となられた神様は、あなたの人間性と、あなたの罪のただ中まで来てくださり、そのために命を差し出されました。イエス様の死とよみがえりによって、御父への新しい道が開かれたのです。あなたの嵐の中を歩むこの道は、大きな代価をもって買い取られた道なのです。

そして今朝、あなたにも――もしかしたらまだ一度も踏み出したことのない、この信仰の一歩、神様に率直に語りかけ、イエス様を舟に迎え入れるという一歩――この方、イエス様が近づいて来られます。サミュエル師が引用したチャールズ・スポルジョンの言葉のとおりです。「イエス様が歩いて来られないほど暗い夜も、荒れた海もない。」

要点まとめ

  • ヨハネはこの奇跡をあえて簡潔に記すことで、あなたの目をただ一つのこと、イエス様ご自身に向けさせます。
  • 夜の暗闇、疲れ、疑いなどによって目が見えなくなっている時こそ、主はあなたの状況にふさわしいしるしを通して語りかけてくださいます。
  • 「わたしだ。恐れることはない」(ヨハネ6:20)は、出エジプト記3章で神様がモーセに語られた「わたしはある」という言葉と直接響き合っています。イエス様はご自分の神性を現しておられるのです。
  • あなたを岸にたどり着かせるのは、あなたの努力でも、櫂でも、舟でもありません。舟に迎え入れられたイエス様です。
  • イエス様があなたのために開いてくださったこの道は、十字架を通っています。イエス様はそのためにご自分の命を差し出されました。

自分自身への適用

  1. 今あなたが岸を見ることもできずに漕ぎ続けている「嵐」とは何ですか。自分が今、目が見えなくなっていて、主が語りかけようとしておられると、どのように気づくことができますか。
  2. 波にばかり目を向けていたために、見過ごしてしまったかもしれない最近のしるし(一言、聖句、出来事、遣わされた兄弟姉妹など)は何ですか。
  3. イエス様が「わたしはある」――出エジプト記3章の神様であり、物理の法則さえ超える創造主であると名乗られることは、あなたにとってどんな意味を持ちますか。
  4. あなたは今、何に頼って乗り越えようとしていますか。自分の舟(自分の努力や解決策)ですか、それとも舟に迎え入れたイエス様の臨在ですか。
  5. 今週、あなたの人生の中でまだイエス様を迎え入れていない領域に、イエス様を招き入れるために、どのような具体的な信仰の一歩を踏み出しますか。

メッセージで引用された聖句

よくある質問

なぜヨハネは、ペテロのエピソードやイエス様が湖を渡るよう命じられたことを省いて、この奇跡をこんなに簡潔に記しているのですか。
それは、ヨハネがあなたに信じてほしいと願って書いているからです(ヨハネ20:31)。ヨハネは、ペテロの反応や渡航の細部といった背景を意図的に取り除き、あなたの目をイエス様ご自身に向けさせようとしています。ここで大切なのは弟子たちの働きぶりではなく、水の上を歩き「わたしはある。恐れることはない」と語られたお方が、どなたであるかということなのです。

ヨハネ6章20節の「わたしだ。恐れることはない」とは、具体的にどういう意味ですか。
ギリシャ語では「エゴー・エイミ」――「わたしはある」という表現です。これは、出エジプト記3章14節で、燃える柴の中からモーセに現れる時に使われるのと同じ表現です。イエス様は単に「安心しなさい、友であるわたしだよ」と言っているのではなく、ご自分の神性を現しておられます。イエス様は、弟子たちのただ中を歩まれた、旧約聖書の神様ご自身なのです。

神様が私を愛しているなら、なぜ人生に嵐が来るのを許されるのですか。
マタイとマルコの福音書には、弟子たちに舟に乗るよう命じられたのはイエス様ご自身だったと記されています。イエス様は、その航海が困難になることをご存じでした。それでも弟子たちを試し、あることを示し、ご自分がどなたであるかを現そうとされたのです。神様は、あなたが直面する状況にも、自然界の要素にも、変わらず主権を持っておられます。神様が人生に許される嵐は、決して偶然の出来事ではありません。それは、神様があなたのもとに来て語りかけ、ご自分を現し、より深い信仰の一歩へとあなたを招いてくださる場所なのです。

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