不完全でも神に愛される、本物の教会

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はじめに

コリントの教会は分裂、不品行、礼拝の混乱、神学的な誤解に満ちた悪夢のような教会でした。それでもパウロが手紙を書き始めるとき、まず彼らに感謝しています。なぜそんなことが可能なのでしょうか。第一コリント書の最初の九節で、パウロは手紙全体の土台を据えます。すなわち、これから語ることはコリントの人々の忠実さにではなく、彼らに対する神の忠実さに基づいているということです。本物の教会は不完全であっても、なお本物の教会でありえます。それは、その教会が神のものだからです。

メッセージのアウトライン

1. コリントの教会は本物の教会である(1〜3節)

  • パウロは神の意志による使徒として自分を紹介します。これから書くことは彼個人の意見ではなく、神から与えられた権威を帯びています。
  • 彼はこの教会を「コリントの教会」ではなく「コリントにある神の教会」と呼びます。数々の問題を抱えていても、この教会は神のものであり、パウロはその立場を疑いません。
  • コリントの人々は「キリスト・イエスにあって聖なるものとされ」「聖徒として召された」者たちです。聖なるものであるという地位と、聖なる者として生きるという実践との間には、常にへだたりがあります。
  • ティム・ケラーは、ある王が孤児を養子にし、体を洗い、王子の衣を着せてこう言う物語を語ります。「私のものはすべてあなたのものだ。さあ、王子として生きることを学びなさい。」神が私たちを救い、それから神が私たちをどう造り変えたかにふさわしく生きるよう召してくださるのも、これと同じです。

2. 何一つ欠けることのない本物の教会(4〜7節)

  • パウロは本当に感謝しています。しかしそれはコリントの人々のゆえではなく、彼らのためです。彼の感謝は彼らの行いにではなく、神が彼らのためになさったことに基づいています。
  • 彼らはキリストにあって、あらゆる言葉、あらゆる知識において豊かにされました。キリストのあかしは彼らの中にしっかりと打ち立てられていました。
  • パウロは彼らの救いを疑ってはいません。問題は神から何かが欠けているということではなく、彼らが受けた賜物を誤って用いていることにあります。
  • 賜物や恵みがあるからといって、それは成熟を意味しません。コリントの人々は神の賜物を自分自身の賜物とみなすようになり、そのことが高慢、利己心、誤りへと彼らを導きました。

3. 最後まで支えられる本物の教会(8〜9節)

  • 「私たちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいるあなたがたには、賜物に何一つ欠けたところがありません。」神の賜物は決してそれ自体が目的ではなく、キリストの再臨という目的のためにあります。
  • あなたがキリストにあって持っているものは、今日この瞬間の完全な幸福のためではなく、終わりの日まであなたを堅く保つために十分なものです。
  • 「主はまた、あなたがたを最後まで堅く支え、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者としてくださいます。」イエスが再び来られる日、あなたは完全ではないでしょうが、恥じることなく罪責を負うこともないでしょう。なぜならキリストが十字架の上であなたの罪責を負ってくださったからです。
  • これは根拠のない楽観主義ではなく、一つの約束です。すべては教会の神への忠実さにではなく、教会に対する神の忠実さに基づいています。

4. なぜパウロはこのように語り始めるのか

  • それは、コリントの人々が矯正される前に、自分たちが何者であるかを知る必要があるからです。パウロは指示を与える前にアイデンティティを確認し、矯正の前に恵みを表し、対決の前に希望を与えます。
  • ジェイソンは、自分の父親がどのように叱ってくれたかを語ります。その叱責が強く心に響いたのは、悪かったことを全部数え上げたからではなく、いつもこう語り始めたからでした。「お前は私の息子だ。私はお前を愛している。お前が何をしようとも、それは変わらない。」
  • その矯正が心に痛みを与えたのは、罪がその愛に反するものだったからです。そして、この対比こそが変わりたいという思いを生み出したのです。
  • もしあなたがキリストにあるなら、あなたにははるかに優れた仕方であなたを正してくださる天の父がいます。なぜなら、父は常にご自身の契約と愛という文脈の中であなたを正してくださるからです。

覚えておきたいポイント

  • 本物の教会とは完全な教会のことではありません。それは神のものであり、神の忠実さの上に立つ教会のことです。
  • あなたは聖なるものとされている(地位)と同時に、聖なる者として生きるよう召されています(実践)。この二つの現実は共に働き、この人生においてその間には常にへだたりがあります。
  • 神からの賜物を受けていることは、成熟を証明するものではありません。大切なのは、その賜物をどう用いるかです。神とその民のために用いるのか、それとも自分自身のために用いるのかです。
  • あなたの希望は、あなたがすべてを正しく行えるかどうかにではなく、御子との交わりに生きるようあなたを召してくださった神の忠実さに基づいています。
  • 神はあなたを正す前に、あなたのアイデンティティを確認してくださいます。その愛の安心感こそが、神の矯正に耳を傾けることを可能にするのです。

個人的な適用

  1. あなたが自分の地域教会の問題を目にするとき、あなたの自然な反応は何ですか。嫌悪、絶望、批判でしょうか。第一コリント1章1〜9節は、あなたのものの見方をどのように変えるでしょうか。
  2. あなたは聖徒(神のために取り分けられた者)として生きていますか、それとも単に一度赦されただけの罪人として生きていますか。今、あなたの中で最もへだたりが大きいのはどこですか。
  3. 神はあなたにどんな賜物を委ねられましたか(言葉、知識、奉仕、もてなし、その他)。あなたはそれを自分自身のものと考えていますか、それとも神の民のために実らせるべき預かりものと考えていますか。
  4. あなたは矯正をどのように受け止めていますか。神の御言葉によるものであれ、あなたを愛する兄弟姉妹からのものであれ、それを父の愛という文脈の中で受け止めていますか、それとも拒絶として受け止めていますか。
  5. あなたが忠実でないときでさえ神は忠実であるということを、あなたは今日、どの領域で聞く必要がありますか。

引用聖句

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よくある質問

なぜパウロは、コリントのような問題だらけの教会について神に感謝するのですか。

それは、彼の感謝がコリントの人々の行いにではなく、神が彼らのためになさったことに基づいているからです。パウロは彼らのゆえにではなく、彼らのために感謝しています。この区別は本質的なものです。パウロはまず教会における神の御業を見てから、その問題を見ます。この見方こそが、苦々しさではなく希望に満ちた矯正を可能にするのです。

「聖なるもの」であると同時に「聖徒として召される」とはどういう意味ですか。

聖書において、聖さとは一つの状態(私たちはキリストの死によって神のために取り分けられている)であると同時に、一つの実践(私たちはこの地位にふさわしく生きるよう召されている)でもあります。クリスチャンはすでに神の目に聖なる者とされていると同時に、実践的な聖さにおいて成長するよう召されています。ティム・ケラーのたとえが助けになります。王が孤児を養子にし(地位)、それから王子として生きることを教える(実践)のです。

拒絶されたと感じることなく、神の矯正を受け入れるにはどうすればよいですか。

パウロがここで示している順序を思い起こすことです。すなわち、指示の前にアイデンティティ、矯正の前に恵み、対決の前に希望です。あなたの天の父は、あなたを拒絶するために正すことは決してありません。父があなたを正すのは、あなたを愛し、すでにキリストにあってご自分の子どもと宣言してくださったからです。矯正が心を痛めるのは、あなたの罪がその愛に反するものだからですが、あなたと父との関係はあなた次第ではなく、父次第です。そして父は変わることがありません。

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