主の子どもとして生きる

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はじめに

モーセが申命記の中でイスラエルに語りかけるとき、民は約束の地の入り口に立っていました。ひとつの世代がすでに過ぎ去っていました。彼らの前には、約束の地が広がっていました。彼らの周りには、違う仕方で悲しみ、違う仕方で食事をし、違う仕方で礼拝する諸国の民がいました。そこでモーセは、同じことを何度も形を変えて繰り返します。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主があなたを選ばれたのだ。そのように生きなさい。」

14章から16章にかけて、この考えが具体的に展開されていきます。喪の服し方、食べる物、十分の一、免除される借金、解放される奴隷、祝われる祭り。そのすべてが、このアイデンティティのふるいにかけられます。あなたは主の子どもです。だから、あなたにふさわしい生き方があり、もはやふさわしくない生き方もあるのです。

この学びでは、これら三つの章を一つ一つたどっていきます。古い規則の目録としてではなく、神様が今日、ご自分の子どもたちに歩んでほしいと願っておられる生き方の姿として見ていきます。ご覧の通り、どの戒めも同じ署名を帯びています。それは神様がどのような方であるかを語り、あなたがどのような者であるかを語り、そしてこの二つが出会うときに何が変わるのかを語っているのです。

記事の流れ

  1. あなたは主の子ども、すべての土台
  2. 希望が違うから、喪の仕方も違う
  3. 食べる物においてさえ、他と区別された民
  4. 十分の一、神を恐れることを学ぶ心の学校
  5. 免除の年:神がゼロに戻してくださるとき
  6. 三つの祭り:思い起こし、喜び、御前に出る

1. あなたは主の子ども:すべての土台

14章は、一つの宣言から始まります。「あなたがたは、あなたがたの神、主の子どもである。」どんな規則よりも先に、アイデンティティがあります。モーセは「これこれをすれば主の子どもになれる」とは言っていません。「あなたがたはすでにそうなのだ。だから、それにふさわしく生きなさい」と言っているのです。

これが聖書の順序であり、それは決して変わりません。神様はまず迎え入れ、それから教えられます。新約聖書の中で、パウロは別の言い方でこれを繰り返します。あなたがたはキリストとともによみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい、と。従順はアイデンティティを築くのではなく、そこから流れ出るものなのです。

キリストを受け入れたあなたは、神の子どもです。これは単なるスローガンではありません。これから続く聖句すべての出発点です。もしこの土台を忘れてしまうなら、これから出てくるすべてが、強制のリストのように見えてしまうでしょう。もしこれを心に留めておくなら、あなたはそれぞれの戒めを、父親が子どもたちに自分に似る生き方を教えるための贈り物として見ることができるはずです。

2. 希望が違うから、喪の仕方も違う

「死人のために、自分の身に傷をつけたり、額をそったりしてはならない」(申命記14:1)。イスラエルの周りにいたカナンの諸民族は、自分の体を傷つけたり、髪をそったり、切りつけたりすることで喪を表していました。体は、痛みが刻まれる場所となっていました。なぜなら、その根底には、墓の向こうに希望がなかったからです。

モーセは民に、悲しんではならないと求めているのではありません。身近な人の死に直面しての悲しみは人間的なものであり、正当なものです。モーセが求めているのは別のことです。その悲しみの表し方が、一つの希望を証しするものであってほしいということです。あなたを選ばれた神様は、ご自分のものたちを死に見捨てたままにはなさらないからです。

パウロは、テサロニケ人への手紙第一4章13節で、まさにこの論理を受け継いでいます。「眠っている人々のことについては、他の望みのない人々のように、あなたがたには悲しんでほしくありません。」あなたは兄弟を、姉妹を、親を悲しんでもかまいません。心が張り裂けそうになってもかまいません。しかし、あなたはすべてが終わったと思っている人のようには悲しみません。キリストはよみがえられました。そしてキリストにあって死んだ人々は、その方のそばで生きているのです。

これはすでに、主の子どもとしての生き方の最初の特徴です。あなたが喪失をどのように乗り越えていくかが、あなたが誰に属しているのかを証しするのです。

3. 食べる物においてさえ、他と区別された民

14章の残りの部分は、きよい動物と汚れた動物について詳しく述べています(3〜21節)。多くの現代の読者は、これらの聖句でつまずいてしまいます。なぜ神様が、皿に何を盛るかを気にかけられるのでしょうか。

これらの食物規定は、それ自体のために存在していたのではありません。もっと深い目的に仕えるものでした。一日に三度、この民が他の民とは違うのだということをイスラエルに思い起こさせるためです。食事は、シンプルで、日常的な、ありふれた行為です。しかし神様は、まさにその場所(食事という日常)を選んで、その召しの特別さを思い起こさせようとされたのです。

2節はそれをはっきりと語っています。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は、地の面のすべての民の中からあなたを選んで、ご自分の宝の民とされた。」聖なるとは、区別されているということです。聖別されているということです。生まれつき優れているということではなく、神様の御手によって別に取り分けられているということなのです。

新約聖書の中で、ペテロは同じ論理をクリスチャンたちに当てはめます。「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です」(ペテロの手紙第一2:9)。食物規定はキリストにあって取り除かれましたが(マルコ7章、使徒の働き10章)、その論理は今も生きています。あなたの日々の生活、何を見るか、何を聞くか、何を口にするか、家に何を招き入れるか、それこそが、あなたが誰かほかの方に属していることが目に見える形で示される場所なのです。

4. 十分の一、神を恐れることを学ぶ心の学校

22節から29節では、十分の一が取り上げられます。毎年、イスラエルは収穫の十分の一を取り分け、神様が選ばれる場所に上り、そこで(主の前で)、家族、しもべたち、レビ人とともに、それを食べなければなりませんでした。

23節の言い回しに注目してください。「あなたの神、主の前で……食べなければならない。それは、あなたの神、主を、いつも恐れることを学ぶためである。」十分の一は、まず第一に税金ではありません。それは一つの教育なのです。毎年、あなたの働きが生み出したものの十分の一が取り分けられ、神様の御前に持ち運ばれ、喜びのうちに分かち合われます。そしてそこで目指されている結果とは、自分の神様を恐れることを学ぶ心なのです。

聖書の言葉において、神を恐れるとは、震え上がることではありません。神様をその本来の姿、すなわち与え主として受け止めることです。どのぶどうの房も、どの穀物も、どの給料も、神様の御手から来ています。取り分け、上って行き、御前で食べるというその行為が、この真理を民の体に刻み込んでいったのです。

三年ごとに、この十分の一は別の形をとりました(28〜29節)。それは町にとどめ置かれ、レビ人、寄留者、みなしご、やもめを養うために用いられました。つまり、土地も家族も守りも持たない人々のためです。神様は、この分かち合いに祝福の約束を結びつけておられます。「あなたの神、主は、あなたが行うすべての手のわざにおいて、あなたを祝福される。」

今日では、その形は変わりましたが、教えの本質は同じです。神様のみわざと、持たない人々のために、定期的に、喜んで献げること。それは、心が受け取ったものに執着しないことを学ぶための訓練なのです。

5. 免除の年:神がゼロに戻してくださるとき

15章は、驚くべき慣習から始まります。七年ごとに、イスラエルは兄弟の間で結ばれた借金を免除しなければなりませんでした。「七年の終わりごとに、あなたは負債の免除を行わなければならない」(申命記15:1)。借りていた人々は解放されました。貸していた人々は、その債権を放棄しました。

モーセは、心の中に湧き上がってくる誘惑を先取りして語ります。免除の年が近づくと、人はもう貸したくないという誘惑に駆られます。計算はすぐに始まります。「七年目までに返してもらえなければ、すべてを失ってしまう。」この箇所はその考えを名指しし、それを退けます(9節)。「あなたの心の中に、よこしまな思いを抱いて……貧しい兄弟に意地悪な目を向けないように、気をつけなさい。」

その先の言葉が雄弁です。神様は利己主義を禁じるだけでは満足されません。与える人々にこう約束されます。「必ず彼に与えなさい。彼に与えるときは、心に未練を残してはならない。このことのゆえに、あなたの神、主は、あなたのすべての働きと、あなたが手を伸ばして行うすべてのことを祝福されるからである」(10節)。

その後に、ヘブル人の奴隷の解放について語られます(12〜18節)。六年が経つと、彼らは自由になって出て行きます。しかも彼らは、手ぶらで出て行くのではありません。「彼を手ぶらで去らせてはならない。贈り物を彼に持たせなさい」(13〜14節)。神様はこの律法の中心に、次のような記憶を据えられます。「あなたがエジプトの地で奴隷であったこと、あなたの神、主があなたを贖い出されたことを思い起こしなさい」(15節)。

これが根底にある論理です。あなたは贖われた。だから、あなたは解放する。あなたはただで受け取った。だから、あなたは与える。受け取った恵みが、貸す手を形作るのです。イスラエルの民は七年ごとに、この行為を礼拝のように繰り返さなければなりませんでした。神様が彼らに返してくださった自由を、兄弟に返すのです。

6. 三つの祭り:思い起こし、喜び、御前に出る

16章は、イスラエルの年に三度の大きな集いについて語ります。年に三度、すべての男子は、神様が選ばれる場所に上らなければなりません(16節)。これらの祭りは休暇ではありません。それは思い起こしのためのものです。

過越の祭り(1〜8節)は、エジプトを出たことを記念するものです。それは、解放の夜のように急いで食べられる種なしパンです。民は、血で印をつけられた家々の上を神様が過ぎ越された、あの夜を忘れてはなりません。今日の私たちにとって、過越の祭りは、ただ一度だけほふられた小羊であるキリストを指し示しています。

その七週間後に祝われる七週の祭り(9〜12節)は、収穫を祝うものです。「あなたの神、主の前で……あなたも、あなたの息子、娘も、しもべ、はしためも、あなたの町囲みの中にいるレビ人も、あなたのうちにいる寄留者、みなしご、やもめも、ともに喜び楽しまなければならない」(11節)。ここでもまた、民の喜びは何も持たない人々を含んでいます。感謝は、閉じた輪の中だけで生きられるものではないのです。

仮庵の祭り(13〜15節)は、収穫の終わりを告げるものです。七日間、枝で作った仮小屋の中で過ごすこの祭りは、イスラエルが荒野で天幕に住んでいた時代を思い起こすためのものです。「あなたはただ喜んでいなければならない」(15節)。神様が喜びを命じられるのは、そこに実質があるからです。神様は、荒野の旅の間、ご自分の民を養い続けてくださったのです。

三つの祭り、三つの思い起こし。神様は私を救い出してくださった、神様は私を養ってくださる、神様は私とともに歩んでくださる。主の子どもは、こうした集いなしには生きていくことができません。今日、教会はこの教えを別の形で受け継いでいます。日曜日、聖餐式、共同体としての大切な時間です。これらが私たちの祭りです。それらはチェックすべき項目ではなく、心が自分自身とその神様が誰であるかを思い起こす場所なのです。

覚えておきたいポイント

  • あなたのアイデンティティは、あなたの従順に先立ちます。あなたはまず主の子どもであり、それにふさわしく生きるのはそのあとです。
  • あなたが喪失をどう乗り越えるかが、あなたの希望を物語ります。信仰は痛みを消し去るのではなく、その夜を待ち望みの時へと変えるのです。
  • 神様は日常のこと、あなたが食べる物、見る物、分かち合う物に心をかけておられます。聖さは、大きな行いだけでなく、こうした小さな行いの中にも生きているのです。
  • 十分の一、献げること、分かち合うこと、これらは心の学校です。それらは、神を恐れること、そして受け取ったものに執着しないことを教えてくれます。
  • 受け取った恵みが、与える手を形作ります。あなたは贖われた。だから、あなたは解放する。あなたはただで受け取った。だから、あなたは喜んで与える。
  • 神様との集い(礼拝、聖餐式、祭りの時)は、選択肢ではありません。それらは、あなたが誰であるかを思い起こさせてくれるものなのです。

個人的な適用

  1. 神の子どもとしてのアイデンティティは、あなたの人生を導いているものですか。それとも、日常を何も変えないまま身に着けているだけのバッジになっていませんか。
  2. 喪や喪失のときに、あなたがその夜を乗り越える仕方は、希望を持つ民のそれに似ていますか。
  3. あなたのスケジュール、支出、会話は、あなたが神様に属していることについて何を物語っていますか。
  4. あなたは神様のみわざと、持たない人々のために、定期的に、喜んで献げていますか。それとも、献げ物は、他のすべてが終わったあとに残ったものになっていませんか。
  5. あなたの人生の中に、お金であれ、言葉であれ、傷であれ、あなたが債権を握っている人はいませんか。神様が、それを免除するようにと求めておられる相手はいませんか。
  6. あなたの一週間の中で、あなたを神様の御前に連れ戻してくれる三つの「祭り」は何ですか。礼拝、祈りの時間、聖餐式。あなたはそれらを守っていますか、それとも少しずつ失われるままにしていますか。

引用された聖句

よくある質問

クリスチャンは今も申命記14章の食物規定を守らなければならないのでしょうか。

いいえ。イエス様はマルコの福音書7章で、すべての食べ物をきよいものと宣言され、使徒の働き10章のペテロの幻がそれを裏づけています。この箇所の論理は今も残っています。食事に至るまでのあなたの日々の生活が、あなたが神様に属していることを物語るということです。しかし、食物禁止のリストは、もはやクリスチャンにのしかかるものではありません。

なぜモーセは、喪のしるしとして体を傷つけることを禁じたのですか。

それは、その行為がイスラエルを取り囲んでいた異教の礼拝に属するものであり、また出口のない絶望を表すものだったからです。主の子どもも喪に服しますが、その泣き方を変える希望とともに、それを行うのです。

十分の一は、今も教会にとって有効な命令なのでしょうか。

新約聖書は、十分の一を義務的なパーセンテージとして引き継いではいません。それは、定期的に、惜しみなく、喜んで献げるようにと招いています(コリント人への手紙第二9:7)。しかし、この戒めの精神は今も残っています。献げる心は、神を恐れることを学び、受け取ったものに執着しないことを学ぶのです。

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