聖書は、すべての人が罪人であり、神の前に本当に罪を負っていると教えています(ローマ人への手紙3章23節)。罪悪感は単なる感情ではなく、まず客観的な事実なのです。ダビデは告白されない罪の重さを、体と心の両面から描いています。「わが力は夏のひでりによる衰えのように、かれ果てた」(詩篇32篇3節)。この罪悪感は無視すべきものではなく、神の前で認めるべきものです。それこそが癒やしと赦しへの第一歩だからです。
福音の良い知らせは、イエス・キリストが十字架の上で私たちの罪を負ってくださったということです。「主は、われわれすべての者の不義を、彼の上におかれた」(イザヤ書53章6節)。私たちが罪を告白するなら、神はその罪を完全に赦し、私たちの良心をきよめてくださいます(ヨハネの第一の手紙1章9節)。キリストにある者には、もはや何の罪の宣告もありません(ローマ人への手紙8章1節)。負債はすでに、一度限りで支払われたのです。
悔い改めといのちに導く本当の罪悪感と、決して解放を与えず人を蝕み続ける有害な罪悪感とは区別しなければなりません(コリント人への第二の手紙7章10節)。赦された者は、やましい良心を離れ、きよめられた心をもって神に近づくよう招かれています(ヘブル人への手紙10章22節)。神は私たちの罪を「東が西から遠く離れているように」遠ざけてくださるからです(詩篇103篇12節)。自分自身を罰し続けることは、十字架を疑うことにほかなりません。
罪悪感に関する聖書の言葉
« すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、 »
« わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた。 »
« もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。 »
« われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。 »
« こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。 »
« 神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。 »
« 心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。 »
« 東が西から遠いように、主はわれらのとがをわれらから遠ざけられる。 »
罪悪感についての説教
罪悪感に関するよくある質問
聖書によれば、罪悪感からどう解放されますか。
神に対して素直に罪を告白することです。神は赦し、きよめると約束しておられます(ヨハネの第一の手紙1章9節)。そして、自分の感情ではなく、キリストにある者にはもはや罪の宣告がないという神の宣言を信じることが大切です(ローマ人への手紙8章1節)。
罪悪感と聖霊の示す罪の自覚とはどう違いますか。
聖霊の示す罪の自覚は特定の罪を指摘して悔い改めに導き、その後は平安をもたらします。一方、告白した後も執拗に責め続け、絶望へと追い込む罪悪感は神から来るものではなく、むしろ告発者の働きに似ています。
赦しを求めた後も、なぜまだ罪悪感を覚えるのでしょうか。
罪悪感という感情は、神の前での立場が変わったからといって自動的に消えるわけではありません。聖書は、感情ではなく赦しの約束(ヨハネの第一の手紙1章9節)を信じるように招いており、その真理が少しずつ良心を新しくしていきます。
罪悪感は常に悪いものなのでしょうか。
いいえ。悔い改めといのちに導く、神に従った悲しみは健全であり、神ご自身が望んでおられるものです(コリント人への第二の手紙7章10節)。有害になるのは、変化や平安に至らずに長く居座り続ける罪悪感です。
神は赦された過去の罪をどのように扱ってくださいますか。
神はそれらを完全に遠ざけてくださいます。「東が西から遠く離れているように」(詩篇103篇12節)、もはやそれらを私たちに対して責めることはありません。赦された過ちに何度も立ち返ることは、十字架が実際に成し遂げたことを疑うことになります。