はじめに
四人の男たちが、体の麻痺した人を運んできます。イエスが教えている家は満員で、戸口から入ることができません。そこで彼らは屋根に登り、それを剥がして、友を穴から吊り下ろします。イエスはそれを見つめておられます。イエスはまず「立ち上がりなさい」とは言わず、こう言われます。「子よ、あなたの罪は赦されている。」マルコ2章1〜12節に基づくこの説教で、ステファヌ・ギエは、イエスがあなたを本当に解放しようとしている「閉じ込め」は、いつもあなたが思っているものとは限らないことを示します。時には、体よりも罪悪感のほうが、あなたを麻痺させているのです。
メッセージの流れ
1. 「イエス」という名前が二度強調されるテキスト
- マルコによる福音書の最初の数章では、イエスは多くの動詞の主語となっていますが、実際にその名前が出てくることは意外に少なく、マルコは主に「彼」という代名詞を使っています。
- マルコ2章1〜12節では、「イエス」という名前がわずか二回だけ登場します。5節と8節です。どちらもギリシア語の構文は同じで、「イエスは彼らの信仰を見て言われた…」「イエスは彼らの心の内の思いを知って言われた…」となっています。
- これは偶然ではありません。マルコは二つの超人的な力を際立たせています。イエスは信仰を見抜き、心の内を知っておられるということです。人間には見えず知り得ないものを、イエスは見抜かれるのです。
- マルコは福音書の最初の一節で、すでに謎を明かしています。「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」(マルコ1章1節)。ですから、ここでイエスが誰にも見えないものを見ておられても、驚くことはありません。イエスは今朝、あなたの信仰もご覧になっており、たとえそれが混乱していても、読み取ることができるのです。
2. 「彼らの信仰を見て」― 信仰の共同体的な側面
- この代名詞は印象的です。「彼らの信仰を見て」とあります。まず問題になっているのは麻痺した人本人の信仰ではなく、主として四人の運び手たちの信仰なのです。
- 神学者たちは教父の時代からこの点について議論してきました。ヨハネ・クリュソストモスは四人の信仰だけで十分だったと考えましたが、より多くの学者は、運ばれることを受け入れた麻痺した人自身の暗黙の信仰も加えて考えます。結局のところ、テキスト自体は結論を出していません。
- しかし本当に問うべきは、なぜ四人の信仰も、おそらくそれ以上に語られているのか、ということです。それは、信仰には共同体的な側面があるからです。他者の信仰は、あなた自身の信仰を支え、後押しします。
- あなたには、教会の中で信仰を生きる必要があります。あなたには、自分の信仰を支えるために他者の信仰が必要です。特に罪悪感と赦しの問題においては、一人で抜け出すのがどれほど難しいことでしょうか。
- ある時には、兄弟姉妹の言葉や、礼拝での御言葉、あるいは聖餐を通して、自分ではもう自分に言い聞かせられなくなった神の恵みを、もう一度語ってもらう必要があります。
- この四人の運び手は教会を象徴しています。そして教会の使命は、壁を築くことではなく、屋根を剥がすことです。罪悪感に麻痺した人々と、唯一その人を解放できるイエスとの間に、道を切り開くことです。
3. 麻痺した人の本当の必要 ― 癒しの前にある罪悪感
- 麻痺した人はおそらく体の癒しを期待していたことでしょう。しかしイエスは、まず別のことから始められます。「子よ、あなたの罪は赦されている。」それは彼が明示的に求めたことではありませんでしたが、それこそが本当の必要だったのです。
- 当時、病気や障がいは罪の結果であると広く信じられていました。ヨハネ9章では、生まれつき目の見えない人を前にして弟子たちが尋ねます。「彼が罪を犯したのですか、それとも両親ですか。」この麻痺した人も、自分の状態が赦されない罪のせいだと思い込んでいた可能性は十分にあります。
- 正当なものであれ、そうでないものであれ、深い罪悪感が、体と同じくらい彼の内面の生活を麻痺させていたのかもしれません。
- 今日でも、どれほど多くの人が「なぜ神様は私にこんなことをなさったのだろう」と考えていることでしょうか。DVや性暴力の被害者が「自分にも少し落ち度があった」と自分を責めることがあります。子どもが病気になった親が、自分たちが何をしてしまったのかと自問することがあります。根拠のない罪悪感というものは、確かに存在するのです。
- 精神分析家であり神学者でもあったティエリー・ド・ソシュールは、人間を特徴づけるのは笑いではなく、罪悪感であると語りました。人間とは罪悪感を感じる存在なのです。そして聖書も、ユダヤ人であれ異邦人であれ、すべての人が等しく神の前に罪ある者であることを確認しています(ローマ3章9節)。
- しかし福音の核心中の核心は、あなたが罪人であると教えることではありません。あなたがキリストにあってあらゆる罪悪感から解放されていると教えることです。神学者アントワーヌ・ヴェルゴットが述べたように、罪悪感は「支払うべき負債」という方向を向いていますが、福音が告げるのは「もはやその負債を払う必要はない」ということです。これこそが解放です。
4. 律法学者たちもまた、自分の閉じ込めから出る必要がある
- その場にいた律法学者たちは、心の中でこう考えます。「この人は神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったい誰が罪を赦すことができようか。」原則としては彼らは正しいのです。しかし、彼らの神学が、イエスに近づくことを妨げているのです。
- それでもマルコは最初の一節ですでに告げていました。イエスは神の子である、と。だから、イエスには罪を赦す権威があるのです。律法学者たちの問題は、知識の不足ではなく、目の前に立っている方が誰であるかを認めることを妨げる、神学的な閉じ込めなのです。
- もしイエスがすぐに麻痺した人を癒さなかったのだとすれば、それはおそらく律法学者たちが自分たちの誤りに気づくことを望んでおられたからでもあるでしょう。彼らもまた赦しの福音を必要としています。彼らもまた、閉じられた場所から出る必要があるのです。
- その時点では、彼らはそのことに気づいていません。本来感じるべきはずの罪悪感を、彼らは何も感じていないのです。これもまた、別の形の閉じ込めです。自分には何も必要ないと思い込むことです。
5. 「あなたに言う」― 成し遂げる権威ある言葉
- ご自分の言葉に罪を赦す権威があることを証明するために、イエスはそれを癒しへと展開されます。「あなたに言う。起きて、床を担いで家に帰りなさい。」
- 「あなたに言う」という言葉は、単なる飾りではありません。それは創世記と同じ言葉です。「神は『光あれ』と言われた。すると光があった。」詩篇33篇9節がこれをまとめています。「主が仰せになると、そのようになった。」
- イエスが「癒やされよ」と言えば、その人は癒やされます。「赦されよ」と言えば、その人は赦されます。イエスの言葉は、正当なものであれ根拠のないものであれ、あらゆる罪の実態とあらゆる罪悪感を打ち砕くのに、完全に十分なのです。
- パウロも同じことを確認しています。「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法は、あなたを罪と死の律法から解放したのである」(ローマ8章1〜2節)。
覚えておきたいポイント
- イエスはあなたの信仰を見ておられます。たとえそれが混乱していても。イエスはあなた自身以上に、あなたの心の内の思いを知っておられます。あなたを麻痺させているものは何も、イエスから隠されてはいません。
- 信仰は一人だけで行う修行ではありません。あなたには、自分の信仰を支えるために他者の信仰が必要です。特に罪悪感があなたを閉じ込めようとするときには。
- 教会の役割は壁を築くことではなく、屋根を剥がすことです。罪悪感に麻痺した人々と、解放してくださるキリストとの間に道を開くことです。
- イエスがあなたを解放しようとしている本当の必要は、いつもあなたが思っているものとは限りません。時には赦しが癒しに先立ちます。なぜなら、あなたを本当に麻痺させていたのは罪悪感だったからです。
- 福音の核心は、あなたが罪人であると教えることではありません。負債はすでに支払われた、あなたはもう払う必要がないと告げることです。
- イエスが「あなたの罪は赦されている」と言われるとき、その言葉は、天地創造の最初の日と全く同じように、告げたことを成し遂げるのです。
あなたへの適用
- 今、あなたを麻痺させている罪悪感は何でしょうか。それは正当なものですか、それとも神の前に実際の根拠のない、あなたを重く圧迫している感情でしょうか。
- 兄弟姉妹の存在、礼拝や聖餐のひとときなど、自分ではもう自分に言い聞かせられなくなった神の恵みを、誰かにもう一度語ってほしいと感じる場面はありますか。
- あなたの周りに、罪悪感に押しつぶされている人はいませんか。その人にとって、屋根を剥がしてイエスへの道を開く「四人の運び手」の一人に、あなたがなれるとしたら。
- あなたの神学は、時に律法学者たちに似ていないでしょうか。原則としては正しくても、イエスが今日あなたの人生で行おうとしていることに対して閉ざされていることはありませんか。
- 今週、あなたが単に漠然と同意する考えとしてではなく、神の前に成し遂げられた現実として受け止めたいイエスの言葉は何でしょうか。
引用聖句
- マルコ 2:1-12 ― カペナウムでの中風の人の癒やし
- マルコ 1:1 ― 「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」
- ローマ 3:9 ― ユダヤ人も異邦人も、等しく罪の下にある
- ヨハネ 9章 ― 生まれつき目の見えない人と「誰が罪を犯したのか」という問い
- 詩篇 33:9 ― 「主が仰せになると、そのようになった」
- ローマ 8:1-2 ― キリスト・イエスにある者はもはや罪に定められない
よくある質問
なぜイエスは中風の人を癒やす前に、その罪を赦されたのですか。
それは、イエスがその人の本当の必要を見ておられたからです。目に見える必要だけではありません。当時は病気と罪が結びつけられて考えられることが多く、この中風の人もまた、体と同じくらい内面を麻痺させる重い罪悪感を抱えていた可能性があります。まず「あなたの罪は赦されている」と告げることで、イエスは、歩行を回復させる前に、その人を押しつぶしていた罪悪感という根本原因に働きかけられたのです。こうしてイエスは、内なる解放が外なる解放に先立ち、その土台となることを示しておられます。
誰か他の人の信仰が、神の前で本当に自分のために何かをもたらすことがあるのでしょうか。
この箇所は「彼らの信仰」、つまり四人の運び手の信仰について語っており、イエスはそれに応えておられます。第三者の信仰だけで十分かどうかという神学的な問いに結論を出すことはしませんが、この物語は信仰の共同体的な側面をはっきりと思い起こさせます。信仰とは、支えられ、後押しされ、教会の中で支え合われるものです。あなたには、自分の信仰を支えるために他者の信仰が必要です。特に罪悪感があなたを赦しから閉ざしてしまう時には。だからこそ、聖餐や説教、共同の祈りは、恵みが具体的にあなたのもとに届く場所でもあるのです。
正当な罪悪感と、根拠のない罪悪感の感情とを、どう見分ければよいのでしょうか。
聖書はその両方の現実を認めています。罪のゆえに神の前に客観的に存在する罪の状態があり(ローマ3章9節)、これに対する唯一の答えはキリストにある赦しです。そしてもう一つ、主観的な罪悪感の感情があり、これは度を越していたり、根拠がなかったり、暴力や性暴力、病気といったトラウマによって育まれたりすることがあります。福音はその両方から解放します。十字架で成し遂げられた赦しによって本当の罪から、そして「もはや罪に定められることはない」というイエスの言葉によって、あなたの人生を麻痺させる罪悪感の感情からです。もし信仰を持っていてもなお感情が残るなら、兄弟姉妹や牧会的なサポートに助けを求めてください。まさにそうした時こそ、あなたが一人ではもう担いきれないものを、教会が担う瞬間なのです。
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