はじめに
「わたしは世の光である。」このイエスの言葉(ヨハネ8:12)は、しばしば文脈から切り離され、美しい格言のように読まれがちです。ステファヌ・ギエは、この言葉をもとの文脈。ユダヤの仮庵の祭り、ヨハネによる福音書7章から9章 ·、に置き直し、そこからイエスが今日あなたに伝えたい、とても具体的な三つのことを引き出します。イエスはあなたに神を見せてくださり、あなた自身についての真実を照らし出し、そしていのちへと至る道をあなたの前に示してくださるのです。
メッセージの流れ
1. この宣言の文脈:仮庵の祭り
- イエスはこの言葉を、宮の中、宝物殿と呼ばれる場所で語られました(ヨハネ8:20)。
- 仮庵の祭りは9月末頃に祝われました。ぶどうの収穫と実りを神に感謝する、一週間にわたる祝祭です。
- イスラエルの人々は木の枝で作った仮小屋に住み、荒野での40年間。神が水を与え、夜には火の柱が民を導いた出来事。を思い起こしました。
- 祭りの夜ごとに、祭司たちは宮の大きな燭台に大きな松明を灯し、人々は踊り、光と実りの恵みのゆえに神を賛美しました。イエスが「わたしは世の光である」と宣言されたのは、まさにこの、光を前にした喜びに満ちた文脈の中でのことでした。
2. イエスは、あなたに神を見せてくださる光
- 光はそれ自体のために輝くのではなく、周りを見えるようにするために輝きます。光となることで、イエスはあなたに神の真の御顔を見せてくださいます。
- 「あなたがたがもしわたしを知っていたら、わたしの父をも知っていたであろう」(ヨハネ8:19)。後にイエスはピリポに、わたしを見た者は父を見たのだと語られます。
- ヨハネによる福音書の序文はこう告げていました。「いまだ神を見た者はいない。父のふところにいるひとり子の神が、神を明らかにされたのである」(ヨハネ1:18)。
- 詩篇の記者もこの不思議さを予感していました。「まことに、いのちの泉はあなたにあり、われらはあなたの光によって光を見る」(詩篇36:10)。神の光はあまりに強く、それだけでは人を打ちのめしてしまいかねません。だからこそ、世の光であるキリストが必要でした。光なる神を、私たちに見えるようにするために。
- 人々は善い行いによって、宗教によって、哲学者たちの理性によって、神を探し求めてきました。これらの道は無意味ではありませんが、結局は自分に似せた神を作り上げることしかできません。イエスのうちにおいてのみ、私たちは、私たちを愛し救おうとしておられる父なる神を見出すのです。
3. イエスは、あなた自身を映し出す光
- キリストの光は世を照らすと同時に、あなた自身の姿を、神の前にあるがままの真実として映し出します。
- その真実は決して美しいものではありません。この光に照らされると、最も善良な人間でさえ、自分が罪人であることを発見するのです。
- 「光がこの世に来ているのに、人々は自分の行いが悪いために、光よりもやみの方を愛した」(ヨハネ3:19)。
- 8章は、この光がどのように対立を生み出すかを示しています。初めはパリサイ人たちが律法の細部にこだわり(「あなたは自分自身のことをあかししているのだから」)、最後には石を取ってイエスに投げつけようとします(ヨハネ8:59)。この光に照らされて自分の姿を知ることには、耐えがたいものがあるのです。
- 私たちの高慢は抵抗します。「とはいえ、自分はそこまで悪い人間ではない」と。聖書を読み、祈り、毎週日曜日に礼拝に行っていても、私たちの理性はしばしば、安易な言い訳を見つけ出すだけに終わってしまいます。
- あるいは、高慢が屈服して、9章の生まれつきの盲人のように告白することもできます。「わたしはただ一つのことを知っています。わたしは盲目であったが、今は見えるということです」(ヨハネ9:25)。イエスのうちに光を認めるとは、まず何よりも、自分自身の盲目さを認めることなのです。
4. イエスは、いのちへの道をあなたの前に示す光
- イエスは、あなたを盲目であるという恐ろしい現実のうちに放置なさいません。「わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、いのちの光を持つであろう」(ヨハネ8:12)。
- 光はやみを追い払い、私たちの前に一本の道を描き出します。たとえ周りのやみが深くても、たとえあなたの心にまだ多くの陰の部分が残っていても、その道はすでに示されています。
- ここには大切な違いがあります。「わたしは光である。わたしに従う者はいのちの光を持つ。」これは、あなたの前にある遠い光をただ追いかけるということではありません。むしろ、あなたのいのちの中に、あなたの存在の中に、あなたの心の中に入り込んでくる光であり、その陰の部分を照らし出し、あなたを造り変える光なのです。
- 使徒パウロはダマスコへの途上でこれを経験しました。キリストの光は彼を地に打ち倒し、目を見えなくし、彼を打ち砕きました。後にパウロはピリピの人々への手紙で、自分が誇りとしていたすべてのもの。自分の部族、割礼、非のうちどころのないパリサイ人としての立場。を、「わたしの主キリスト・イエスを知るという、この上もなくすぐれた知識のゆえに」損として見なすと書いています(ピリピ3:8)。
- パウロはもはや、律法によって得られる自分自身の義を持つ者としてではなく、キリストを信じる信仰による義を持つ者として見出されることを望みました(ピリピ3:9)。キリストの福音こそが、一方の宗教的な義務と、もう一方の自分で組み立てた理屈との間にある、唯一の道なのです。
覚えておきたいポイント
- イエスが「わたしは世の光である」と宣言されたのは仮庵の祭りの最中、荒野でイスラエルを導いた火の柱を思い起こして宮の中に松明が灯されていたときでした。
- イエスは、あなたが神を本当の姿で。あなたを愛し、あなたを救おうとしておられる父として。見ることができる唯一の光です。あなたが自分の姿に似せて作り上げた神ではありません。
- この光はまた、あなた自身をも映し出します。あなたが罪人であることを暴き出し、あなたの高慢を傷つけますが、それは人を自由にする真実なのです。
- どんな善い行いも、どんな宗教的な確信も、どんな世の理屈も、イエスだけがあなたの心の中でなしてくださることの代わりにはなりません。
- イエスに従うとは、遠くにある光を追いかけることではなく、その光をあなたの内に持ち、あなたの存在の中で、陰の部分を照らし、いのちへと導いていただくことです。
実践のための問いかけ
- 今日あなたが祈っている神は、イエスがあなたに示してくださる神ですか。それとも、あなた自身の理性や宗教心、善い行いから作り上げた神のイメージでしょうか。
- キリストの光があなたの人生を照らすとき、あなたの高慢はどこで「細部にこだわり」、抵抗し、自分を罪人と認めないための安易な言い訳を探そうとしているでしょうか。
- あなたは、生まれつきの盲人のように「わたしは盲目であったが、今は見える」と告白できますか。イエスに従い始めてから、具体的にどのような点であなたの目が開かれましたか。
- あなたの中に、まだキリストの光の前に差し出していない陰の部分。ある考え、ある習慣、ある傷。はありませんか。それを光の前に差し出すために、今週あなたは何をすべきでしょうか。
- パウロ(ピリピ3章)にならって、あなたがまだ「誇り」として持ち続けている地位・行い・宗教的な所属のうち、キリストを知るというこの上もなくすぐれた知識のゆえに損と見なすべきものは何でしょうか。
引用された聖書箇所
よくある質問
なぜイエスはこの瞬間に「わたしは世の光である」と宣言されたのですか。
それは、イエスが仮庵の祭りの最中に語っておられたからです。この祭りは荒野での40年間、民を夜に導いた火の柱、そして祭司たちが宮の燭台に毎晩大きな松明を灯していたことを思い起こす、一週間の祝祭でした。イエスはこの誰もが知るイメージを取り上げて、皆の前で「それはわたしである、預言されていた本当の光は」と語られたのです。イザヤ49:6もまた、神のしもべが「わたしの救いが地の果てにまで及ぶために、諸国民の光」となると預言していました。
イエスを通らずに、自分の理性や善い行いによって神を知ることはできますか。
ステファヌ・ギエははっきりとこう述べています。理性や善い行いは無意味ではありませんが、それらによって神やその救いを見出すことはできません。それらが見せてくれるのは、あなた自身に似せて作り上げた神。あなたの理屈が生み出した神、あなたの努力によって仕えられることを求める神。にすぎません。イエスだけが、あなたを愛し、恵みによって救おうとしておられる父としての、ありのままの神を明らかにしてくださいます。
なぜこの光を受け入れることは、それほど難しいのですか。
それは、この光があなたを罪人として明らかにするからです。ヨハネ3:19は「人々は自分の行いが悪いために、光よりもやみの方を愛した」と語ります。私たちの高慢は抵抗します。「とはいえ、自分はそこまで悪くはない」と。8章のパリサイ人たちに至っては、最後には石を取ってイエスに投げつけようとします(ヨハネ8:59)。しかし、高慢が屈服するとき、私たちは生まれつきの盲人のように告白することができます。「わたしは盲目であったが、今は見える。」そのとき、光はいのちへの道となるのです。
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