はじめに
救いは失われることがあるのか? これは簡単な問いではなく、神学者たちの間でも意見が分かれるテーマです。けれども、今朝あなたが自分に問いかけるべき、最も大切な問いかもしれません。なぜなら、救いは小さなテーマではないからです。救いとは、神とともにある永遠のいのちの約束であり、あなたが決して望まなかった永遠の火から、あなたを引き離してくださる贈り物です。
ルネ・ウアンジ牧師は、ある場面から説教を始めます。旅先で、韓国系のあるセクトから来た自称クリスチャンたちと出会ったというのです。彼らは「一度救われたら、永遠に救われている」と主張し、イエスの言葉を根拠にします。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従って来る。わたしは、彼らに永遠のいのちを与える。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはない。」たしかにその通りです。どんな権威も、闇の力も、人間も、あなたからこの救いを奪い取ることはできません。しかし、あなた自身についてはどうでしょうか。もしあなたが罪にとどまり続け、神の声から離れていくなら、人の子が再び来られるとき、あなたのうちに信仰を見出されるでしょうか。
今朝は、神のことばだけを土台にして見ていきます。他の何ものでもなく。
アウトライン
1. 救いとは、神とともにある永遠のいのちの約束である
神は私たちに多くの約束を与えてくださいました。癒し、守り、祝福。これらは地上にいる間、物質的に私たちを助けてくれます。しかし最も大きな約束は、救いの約束です。救いとは、私たちの神とともにある永遠のいのちです。ハレルヤ!
気をつけてください。もしあなたが永遠に神とともにいないなら、あなたは永遠に別の誰かとともにいることになります。そしてその「別の誰か」とは、聖書が語る永遠の火のことです。イエスはマタイ25章でこう言われました。「のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意されている永遠の火にはいれ。」神とともにある永遠のいのちがあります。そして、神から離れた、火の中での永遠のいのちもあります。これが二つの選択肢です。
救いは二つのことによって得られます。神の恵みと、イエス・キリストへの信仰です。「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われたのです。それは、あなたがた自身から出たのではなく、神の賜物です」(エペソ2章8節)。そしてローマ6章23節はこう付け加えます。「罪から来る報酬は死です。しかし神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」誰もこの恵みに値する者はいません。あなたはそれを受けるために何の努力もしていません。神のほうから、あなたのもとに来て、この贈り物を差し出してくださったのです。そして今朝ここにいるあなたが、アメリカ人であろうと、アフリカ人であろうと、ヨーロッパ人であろうと、この贈り物はあなたのためのものです。
2. 神は、ご自分の側で、この贈り物をあなたのうちに保とうと最善を尽くしておられる
何が救いを失わせる原因になり得るかを語る前に、まず安心する必要があります。私たちには素晴らしい神、愛の神がいて、あなたに与えてくださったこれほど大きな贈り物を保つために、あらゆる手を尽くしてくださっています。
「だれが神に選ばれた人々を訴えるのですか。神はその人々を義と認めてくださるのです。だれが有罪を宣告するのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座にあって、私たちのためにとりなしていてくださるのです。だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。艱難ですか。苦しみですか。迫害ですか。飢えですか。裸ですか。危険ですか。剣ですか」(ローマ8章33〜35節)。あなたをキリストの愛から引き離せるものは何もありません。何もです。あなた自身の意志を除いては。
イエスは父の右の座にあって、昼も夜もあなたのためにとりなしていてくださいます。あなたに仕事が与えられるようにとだけ祈っておられるのではありません。あなたが癒やされるようにとだけ祈っておられるのでもありません。ご自分が地上に戻って来られるとき、あなたのうちに信仰を見出されるようにと、とりなしておられるのです。羊飼いが羊を見守るように、夜も昼も、たとえ武器がなくても狼に飛びかかる覚悟であなたを見守っておられます。神は、ご自分の側では、なすべきことをなしてくださいました。しかし、あなたにもなすべき分が残されています。そして、そこにこそ目を開かなければなりません。
3. 偽りの教えのために信仰を捨てるなら、救いを失うことがある
「御霊は、後の時代に、ある人々が惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われて、信仰から離れると、はっきり言っておられます」(テモテ第一4章1節)。この「ある人々」とは、未信者のことではありません。信仰から離れるには、まずそれを持っていなければならないからです。つまり、クリスチャンのことなのです。
悪魔は光の御使いを装います。偽りの教えは決して大げさな形では現れません。巧妙なのです。あなたの知っているイエスに少し似たイエスの話、あなたの知っている救いに少し似た救いの話をされるでしょう。しかし根底では、キリストが十字架で死なれたことを否定し、彼が神の子であることを否定するのです。また、神がそのことばの中で決して約束しておられないような見世物も約束されるでしょう。クリスチャンは見世物によって生きるのではありません。神のことばによって生きるのです。
アロンの子、ナダブとアビフを思い出してください。「主の御前に、主が命じられたのではない異なった火をささげた。すると、火が主の御前から出て彼らを焼き尽くし」ました(レビ10章1〜2節)。彼らの意図は悪くなかったかもしれません。しかし彼らは神の命令の中にいませんでした。神の家に異なった火を持ち込まないでください。あなたが何を聞いているかに気をつけてください。
4. 聖め(聖化)をおろそかにするなら、救いを失うことがある
「すべての人との平和を追い求めなさい。また、聖くなければ、だれも主を見ることができないのですから、聖くなることを追い求めなさい。だれも神の恵みから落ちないように、また、苦い根が生え出て人を悩ませ、それによって多くの人が汚されることのないように気をつけなさい」(ヘブル12章14〜15節)。
聖くなるとは、完璧になることではありません。誰も完璧ではないのです。それは「分かたれる」ことです。あなたはこの世に属していません。神の御霊があなたのうちに住んでおられるので、考え方も、呼吸の仕方も、行動の仕方も違ってきます。もしあなたが分かたれた生き方をせず、神のことばに従って考えず、神のことばに従って行動しないなら、あなたは主を見ることができません。これは「祈るときだけ主を見る」という話ではなく、永遠に主とともにとどまるかどうかの話です。
そしてこの箇所には、もう一つの危険があります。苦い根です。教会に混乱を、陰謀を、分裂を招く話をまき散らすことを得意とするクリスチャンがいます。なぜあなたは、ある兄弟をある兄弟にけしかけるために、執事に、あるいは牧師に対して兄弟姉妹にそんな話をするのですか。苦い根は伝染します。神はつぶやきも咎められます。あなたのことばが祝福と励ましで味付けされていますように。もしそれができないなら、神の御前に静かに立ちなさい。しかし、あなたの心に苦い根が住み着かないようにしなさい。さもないと、あなたは神を見ることができません。
「私たちはどうしてのがれることができましょうか」(ヘブル2章3節参照)。キリストがむちで打たれ、血を流されたのは、無駄のためではありませんでした。
5. 正しい良心を捨てるなら、救いを失うことがある
使徒パウロはテモテにこう書いています。「信仰と正しい良心を保って、その戦いを立派に戦いなさい。ある人々はこの良心を捨てたため、信仰の破船に会いました」(テモテ第一1章18〜19節)。破船に会う、とは信仰を失うということです。
まだ主を知らないとき、あなたの良心はあなたの育ちや教育から来ています。それだけでは善悪を見分けるのに十分ではありません。イエスを受け入れると、聖霊があなたの良心を助け、はっきり見えるようにしてくださいます。だからこそ、あなたが罪を犯すとき、牧師にがみがみ言われる必要はありません。聖霊があなたに語りかけてくださるからです。あなたは、それが良くないと言う夫や、隣人や、兄弟に抵抗するかもしれません。しかし心の奥では、あなたは分かっているのです。
具体的な例を挙げましょう。職場で、みんながずるをして成功している。あなたは正しさの道を歩み、平凡な評価しか受けず、昇進も来ない。学校では、他の子たちがカンニングで17点(20点満点)を取っているのに、あなたはまじめに勉強して11点か12点しか取れない。あなたの良心は少しずつ蝕まれ始め、ある日、あなたも彼らと同じことをしてしまう。そこから、あなたは破船に会い始めるのです。神のことばに従って歩みましょう。神は必ず正義を行われます。来週ではないかもしれません。定年退職の前でさえないかもしれません。それでも神は正義を行われます。ルカ18章の不正な裁判官の前に立ったやもめのように。彼女は人に向かって叫んだのではなく、神に向かって叫びました。ずるをして17点を取るのと、11点でも神と平安のうちにあるのと、どちらがいいでしょうか。
6. 肉に従って歩むなら、救いを失うことがある
「肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のことです。前にも言ったように、今もあらかじめ言っておきます。このような行いをする者は神の国を相続できません」(ガラテヤ5章19〜21節)。
このリストはすべてを網羅しているわけではありません。あなたの小さな「お気に入りの罪」が名前として挙げられていないからといって、あなたが安全だということにはなりません。神は私たちに完璧であることを求めておられません。正しい人でも倒れることはあります。しかし神は、私たちが悔い改め、そして何よりもそこにとどまり続けないことを求めておられます。偶像礼拝にとどまり続け、憎しみにとどまり続け、争いにとどまり続けるクリスチャンは、救われるでしょうか。いいえ。
7. キリストにとどまらなくなるなら、救いを失うことがある
「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでもわたしにとどまっていないなら、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々はそれを集めて火に投げ入れ、焼いてしまいます」(ヨハネ15章5〜6節)。
木があり、枝があります。とどまる者たちがいて、切り取られて火に投げ入れられる者たちがいます。そしてこの聖書箇所は、ここで未信者について語っているのではありません。もはやキリストにとどまっていないクリスチャンについて語っているのです。
キリストにとどまるとは、そのことばを実践することです。その臨在にとどまることです。私の兄弟、私の姉妹よ、2026年が、あなたにとって教会でだけでなく、主との個人的な心と心の交わりの祈りの生活となりますように。神のことばで自分を養わない日が一日たりともありませんように。ただ一節読むだけでなく、あなたの心に神が語っておられることを聞くために、聖書を本当に読むのです。それだけではありません。兄弟姉妹に対するあなたの態度も、神の愛で満たされていなければなりません。聖書を暗唱できたとしても、愛がなければ、やかましいシンバルのようなものです。キリストにある人生は実践的な人生です。愛すること、耐え忍ぶこと、赦すこと、助けること、人のために祈ることです。
8. 試練に屈するなら、あるいは不従順にとどまり続けるなら、救いを失うことがある
「兄弟たち。あなたがたはだれも、生ける神から離れて行くような、不信仰の悪い心を持つことのないように気をつけなさい。かえって、罪に惑わされて、あなたがたのうちのだれも頑なにならないように、『きょう』という日のうちに、日々互いに励まし合いなさい……。私たちが、初めの確信を最後までしっかり持ち続けるなら、私たちはキリストにあずかる者となるのです」(ヘブル3章12〜14節)。
キリストにあずかる者であるとは、その仲間であること、何があってもいつもそのそばにいることです。あなたは試練を通ることになるでしょう。仕事を失ったからといって、愛する人を失ったからといって、信仰を失わなければならないわけではありません。忍耐しなさい。その確信をしっかりと持ち続けなさい。
そして、もう一つの致命的な誤りがあります。それは罪にとどまり続けることです。「神から生まれた者はみな、罪を犯し続けることはありません。神の種がその人のうちにとどまっているからです」(ヨハネ第一3章9節)。気をつけてください。この箇所は、クリスチャンが決して罪を犯さないと言っているのではありません。「罪を犯し続けない」、つまりそれを生き方や反射的な習慣にはしないと言っているのです。自分には罪がないと思い込んでいる人たちの本当の危険は、高ぶりです。彼らは悔い改めないのです。そして、もしあなたが悔い改めないなら、神はあなたを赦されません。
「実に、反逆の罪は占いの罪のようなもの、高慢は偶像とテラフィムのようなものだ。あなたが【主】のことばを退けたので、【主】もあなたを退けて、もはや王ではないとされた」(サムエル記第一15章23節)。サウルが退けられたのは、単に罪を犯したからではありません。自分の罪を認めることを拒んだから退けられたのです。悔い改めることなく罪にとどまり続けるとき、それはまるで別の神を礼拝しているかのようなことです。霊的に、これは極めて危険なことです。
覚えておきたいポイント
- 救いとは、神とともにある永遠のいのちの約束です。この贈り物は、恵みにより、イエス・キリストへの信仰によって受け取られます。
- 誰も、父の御手からあなたを奪い去ることはできません。サタンも、もろもろの権威も、人間も。あなたの救いを失わせることができる唯一の存在は、あなた自身です。
- あなたは、惑わす教えのために信仰を捨てるなら、聖めをおろそかにするなら、苦い根が芽生えるのを放っておくなら、正しい良心を失うなら、肉に従って歩むなら、キリストにとどまらなくなるなら、試練に屈するなら、あるいは不従順にとどまり続けるなら、救いを失います。
- 神は完璧なクリスチャンを求めておられません。悔い改め、へりくだり、立ち返るクリスチャンを求めておられます。
- 「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し」てくださいます(ヨハネ第一1章9節)。神はあなたを断罪したいのではなく、あなたを立ち上がらせたいのです。
個人への適用
- 人の子が再び来られるとき、ご自分が蒔いてくださった信仰を、あなたのうちに見出されるでしょうか。あなたの今日という日々は、この贈り物を保っていますか、それとも浪費していますか。
- あなたが聞いているものを棚卸ししてみてください。ポッドキャスト、説教、SNSのアカウント。あなたが吸収しているものは、聖書全体の前に堂々と立てるものですか、それとも単にあなたの感情に迎合しているだけですか。
- あなたのうちに、苦い根や、つぶやきや、ある兄弟や姉妹や奉仕者に対して繰り返し語っている話はありませんか。もしあなたの口が、あなたの救いにとって重大なことだと知ったら、あなたはどうしますか。
- 「他の人たちはずるをして成功している」からと、あなたが誘惑を感じている場所はどこですか。職場、学校、申告、人間関係。長い間報われなくても、神に従う覚悟がありますか。
- 「私は正しく生きているのだから」と言い聞かせながら、何ヶ月も見過ごしていて、もはや悔い改めていない罪はありませんか。今日この瞬間、それを告白し、十字架のもとに置きたいと思いますか。
引用された聖句
- ルカ18章1〜8節 · やもめと不正な裁判官
- ヨハネ10章27〜28節 · わたしの羊はわたしの声を聞き分ける
- マタイ25章41節 · 悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火
- エペソ2章8〜9節 · 恵みにより、信仰によって救われる
- ローマ6章23節 · 罪から来る報酬と神の下さる賜物
- ローマ8章33〜35節 · 誰が私たちをキリストの愛から引き離すのか
- テモテ第一4章1節 · ある人々は信仰から離れる
- レビ10章1〜2節 · ナダブ、アビフと異なった火
- ヘブル12章14〜15節 · 聖めと苦い根
- ヘブル2章3節 · これほど大きな救いをないがしろにする
- テモテ第一1章18〜19節 · 正しい良心と信仰の破船
- ガラテヤ5章19〜21節 · 肉の行い
- ヨハネ15章5〜6節 · キリストにとどまる、または火に投げ入れられる
- ヘブル3章12〜14節 · 確信を最後まで持ち続ける
- ヨハネ第一3章9節 · 罪を犯し続けない
- サムエル記第一15章23節 · 不従順は偶像礼拝と同じくらい罪深い
- ヨハネ第一1章9節 · 告白するなら、神は真実で赦してくださる
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よくある質問
本当のクリスチャンでも救いを失うことがあるのですか?
いくつかの聖書箇所によれば、はい、クリスチャンでも救いを失うことがあります。神が見捨てるからでも、サタンのほうが強いからでもなく、その人自身が信仰を捨てたり、聖めをおろそかにしたり、悔い改めずに罪にとどまり続けたり、キリストにとどまらなくなったりすることを、自ら選んでしまうからです。誰も父の御手からあなたを奪い去ることはできませんが、あなた自身がそこから出ていくことを決めることはできるのです。
まだ罪を犯すということは、本当は救われていなかったということですか?
いいえ。誰も完璧ではなく、聖書も正しい人が倒れることを認めています。問題は「罪を犯すかどうか」ではなく、「罪を犯し続けるか、悔い改めずにそこにとどまるか」です。危険なのは倒れることではなく、倒れたままでいて、それを普通の生活だと呼んでしまうことです。罪を犯したと気づいたら、すぐに告白して立ち返りなさい。神は真実な方で、あなたを赦してくださいます。
ある教えが「偽りの教え」かどうか、どうすれば分かりますか?
偽りの教えは、ほとんどの場合、大げさな形では現れません。あなたが知っているイエスに少し似たイエスの話、あなたが知っている救いに少し似た救いの話をしますが、根底ではキリストが神の子であることや、十字架での死で十分であることを否定します。また、神が決して約束しておられない見世物めいたものを約束することもあります。基準となるのは孤立した一節ではなく、聖書全体です。パウロがすでに、聖書を超え出る教えは退けるべきだと言っていたように、それは今日も真実です。
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