聖書 — 口語訳 (1955)
詩篇 27
概要
詩篇27篇は、信頼と願いを一つにしたダビデの詩篇です。主はわが光、わが救い、私はだれも恐れない、という確信から始まります。続いて、神の家に住みたいというダビデの願いが語られ、見捨てられることを恐れる、より弱々しい祈りへと移ります。結びは、主を待ち望めという励ましです。この詩篇は、答えを待つ間、恐れに立ち向かうためによく読まれます。
表題はこの詩篇をダビデの作としていますが、状況は記していません。注解者は、ダビデがサウルから逃げていた年月や、アブサロムの反乱を思い浮かべることが多く、古いギリシア語訳(七十人訳)は、油を注がれる前に書いたとまで付け加えています。本文自体は、どちらとも決めていません。この詩篇には二つの顔があります。輝くような信頼(1節から6節)と、より弱々しい願い(7節から14節)です。二つの祈りが合わさったと見る人もいれば、確かさから叫びへと、自分を否定せずに進む信仰の普通の道のりと見る人もいます。信頼の詩篇に分類されます。ユダヤの伝承では、新年に先立つ一か月の間、毎日読まれます。今日、多くのクリスチャンが、恐れに立ち向かうために、また病のときや孤独のとき、答えが遅れているときに、この詩篇を祈っています。
この章の4つの区分
1主はわたしの光、わたしの救だ、わたしはだれを恐れよう。主はわたしの命のとりでだ。わたしはだれをおじ恐れよう。
2わたしのあだ、わたしの敵である悪を行う者どもが 、襲ってきて、わたしをそしり、わたしを攻めるとき、彼らはつまずき倒れるであろう。
3たとい軍勢が陣営を張って、わたしを攻めても、わたしの心は恐れない。たといいくさが起って、わたしを攻めても、なおわたしはみずから頼むところがある。
4わたしは一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを。
5それは主が悩みの日に、その仮屋のうちにわたしを潜ませ、その幕屋の奥にわたしを隠し、岩の上にわたしを高く置かれるからである。
6今わたしのこうべはわたしをめぐる敵の上に 高くあげられる。それゆえ、わたしは主の幕屋で 喜びの声をあげて、いけにえをささげ、歌って、主をほめたたえるであろう。
7主よ、わたしが声をあげて呼ばわるとき、聞いて、わたしをあわれみ、わたしに答えてください。
8あなたは仰せられました、「わが顔をたずね求めよ」と。あなたにむかって、わたしの心は言います、「主よ、わたしはみ顔をたずね求めます」と。
9み顔をわたしに隠さないでください。怒ってあなたのしもべを退けないでください。あなたはわたしの助けです。わが救の神よ、わたしを追い出し、わたしを捨てないでください。
10たとい父母がわたしを捨てても、主がわたしを迎えられるでしょう。
11主よ、あなたの道をわたしに教え、わたしのあだのゆえに、わたしを平らかな道に導いてください。
12わたしのあだの望むがままに、わたしを引き渡さないでください。偽りのあかしをする者がわたしに逆らって起り、暴言を吐くからです。
13わたしは信じます、生ける者の地でわたしは主の恵みを見ることを。
14主を待ち望め、強く、かつ雄々しくあれ。主を待ち望め。
詩篇27篇を節ごとに読む
1節光、救い、いのちの砦:恐れに答える信頼
ダビデは、自分を脅かすものを語る前に、神が自分にとってどなたであるかを語ります。主は光です。すべてが暗くなるときにも、危険と落胆の中で、はっきり見えるようにしてくださる方です。主は救いです。救い出してくださる方です。主は命のとりでです。守りの固い場所を思わせる言葉でもあります。続く二つの問い、だれを恐れよう、だれをおじ恐れよう、は大言壮語ではありません。神がどなたであるかから出てくる結論です。光にも、救いにも、命にも、「わたしの」という言葉がついていることに注目してください。ダビデの信頼は個人的です。イエスはこの絵を取り上げて、ご自身を世の光として示されました(ヨハネによる福音書8章12節)。恐れが大きな声で語るとき、この節は、まず神を見ることから始めるよう教えてくれます。
2-3節敵と戦いを前にした、現実的な信頼
ダビデの信頼は、決して楽観的ではありません。悪を行う者たちが、獣のように肉を食らおうと襲ってくる姿を、彼は見ています。さらに最悪の場合まで思い描きます。軍勢が陣営を張って自分を攻める、いくさが起こる、と。そして、そのときでさえ、信頼を失わないと断言します。この確信は経験に支えられています。迫害する者たちがつまずき倒れるのを、彼はすでに見てきたのです。昨日神がなさったことが、明日への信仰を養います。詩篇は、危険が想像上のものだと言い張るのではなく、危険が最後の言葉を持つことはないと語ります。あなたにとっては、神があなたを守ってくださった具体的な出来事を思い出すことかもしれません。今日の脅威に、支配されずに立ち向かうためです。
4節ただ一つのこと:神のそばに住み、その麗しさを仰ぐ
危険のただ中なら、勝利を求める祈りが予想されます。けれどもダビデが願うのは別のことでした。切に望む、ただ一つのこと。生きているかぎり、主の家に住むことです。ダビデの時代には神殿はまだ建てられておらず、神の家とは、神が民のただ中に臨在される聖所、幕屋のことでした。ダビデはそこで、主のうるわしきを見たいと願います。この言葉は、主の美しさとやさしさをも表します。彼の最大の願いは、安らかであることではなく、神のそばにいることです。イエスはマルタに、必要なことはただ一つだと言われ、足もとに座って聞き入るマリヤのことを語られました(ルカによる福音書10章38節から42節)。この節は、あなたの心に問いかけます。今日、神に願えることがただ一つなら、それは何でしょうか。
5-6節幕屋に隠され、岩の上に高くあげられる
神の臨在が避け所になります。悩みの日に、神はダビデをその仮屋のうちに潜ませ、幕屋の奥に隠してくださいます。古代の東方では、天幕に迎え入れられた人は、主人の保護のもとに置かれました。続いて、岩の絵が来ます。高くて堅固な、攻めてくる者の手の届かない場所です。災いは否定されていません。悪い日は来ます。けれども、ダビデはそこで守られます。そしてすでに、救い出される前から、彼の頭は高くあげられています。彼は、喜びの声をあげていけにえをささげ、歌うと約束します。賛美が勝利を先取りしているのです。あなたにとってこれらの節は、神の臨在が現実からの逃避ではなく、すべてが揺れるときにあなたが立っていられる場所だと語っています。
7-10節御顔を隠さないでください、たとい父母が捨てても
7節で、調子が急に変わります。落ち着いた宣言が叫びになります。私の声を聞いてください、あわれんでください、答えてください。信仰はいつも同じ高さにあるわけではなく、詩篇もそれを隠しません。8節には対話があります。神が御顔を求めるよう招かれ、ダビデの心が答えます。「主よ、わたしはみ顔をたずね求めます」。祈りは、神の招きへの応答なのです。そして最も深い恐れが現れます。拒まれ、見捨てられること。たとい父母が私を捨てても、主が迎えてくださる、と彼は言います。子どもを家に迎え入れるようにです。この節を仮定として読む訳もあれば、実際の経験として読む訳もあります。どちらにしても、身近な人から拒まれた人に寄り添います。最も固いきずなが切れても、神の愛は揺るぎません(イザヤ書49章15節)。
11-12節偽りの証人が立つとき、あなたの道を教えてください
敵を前にして、ダビデは守りだけを求めているのではありません。教えを求めています。あなたの道を私に教え、平らかな道に導いてください。敵がわずかなつまずきを待ち構えていることを、彼は知っています。だからこそ、まっすぐに歩みたいのです。脅威は具体的です。偽りのあかしをする者が立ち、暴言を吐く者たちがいます。ダビデは、彼らの望むがままに自分を引き渡さないでほしいと神に願います。不当に責められると、同じ武器で言い返したくなる誘惑が強まります。この箇所は別の道を示しています。誠実さを保ち、一歩ごとに神に知恵を求め、弁護を神にゆだねることです。職場での対立、うわさ、不当な手続きを通っている人にとって、とても具体的な祈りです。
13-14節主の恵みを見ると信じ、主を待ち望む
13節は、原文では言い終えられていない文で始まります。主の恵みを見ると信じていなかったなら、と言いかけて、先を続けません。もう一つの可能性が、口にできないほど暗いかのようです。口語訳は「わたしは信じます」と訳しています。ダビデは確信しています。生ける者の地、つまり死後だけでなく、この人生で主の恵みを見るのです。詩篇は、二度くり返される呼びかけで結ばれます。主を待ち望め。ヘブライ語の動詞は、待つことと望むことの両方を意味し、だれかに向かう待ち方を表します。その間に、強く、かつ雄々しくあれという励ましがあります。ダビデは自分に語りかけ、彼を通して私たちにも語りかけています。神を待つとは、受け身でいることではありません。答えが遅いときにも、神のまことに支えられて、踏みとどまることです。
詩篇27篇の祈り方
この詩篇を祈るとき
- 目覚めたときから、将来への恐れで胸が締めつけられるとき。
- 診断や返事、決定がなかなか来ないのを待っているとき。
- 家族や身近な人に拒まれ、見捨てられたと感じるとき。
- 不当に責められたり、あなたについてのうわさが広まったりしているとき。
- 面接、試験、引っ越しなど、気後れする節目を前にしたとき。
- 祈る気持ちを失い、もう一度神の臨在を求めたいとき。
詩篇27篇に基づく祈り
主よ、あなたは私の光、私の救、私の命のとりでです。それなら、私はだれを恐れるのでしょう。それでも、あなたがご存じのとおり、私は恐れています。今日私を不安にさせるもの、迫ってくる脅威も、思い描いている脅威も、あなたにゆだねます。あなたが私を守ってくださったときのことを思い出し、あなたのまことに寄りかかります。願うのはただ一つ、生きているかぎりあなたのそばにいて、あなたのうるわしさを仰ぎ、あなたを知ることです。悩みの日に私を幕屋の奥に隠し、岩の上に高く置いてください。私が呼ぶ声を聞き、あわれんでください。あなたが招かれるとおり、御顔を求めます。私から御顔を隠さないでください。たとえ愛する人たちが私を見捨てても、あなたは私を迎えてくださいます。あなたの道を教えてください。いわれなく責められるときも、私を平らかな道に守ってください。生ける者の地で、今、あなたの恵みを見ると信じます。落胆せずにあなたの答えを待つ力をください。主よ、私の心を強くしてください。私はあなたを待ち望みます。アーメン。
鍵となる聖句
主はわたしの光、わたしの救だ、わたしはだれを恐れよう。主はわたしの命のとりでだ。わたしはだれをおじ恐れよう。
ダビデは、神が自分にとって三つの存在であると語ります。光、救い、そしていのちの砦です。続く問い、だれを恐れよう、は、神がどのようなお方であるかから導かれる結論です。
わたしは一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを。
願えることはたくさんあっても、ダビデが求めるのはただ一つ、神の臨在の中に住み、その麗しさを仰ぎ見ることです。この願いが、彼の優先順位の秩序を決めています。
あなたは仰せられました、「わが顔をたずね求めよ」と。あなたにむかって、わたしの心は言います、「主よ、わたしはみ顔をたずね求めます」と。
神は御顔を求めよと招かれ、ダビデの心はそれに応えます。祈りは人から始まる行いだけではなく、神の呼びかけへの答えです。
このテーマで祈る
説教が語っていること
詩篇27篇についてよくある質問
詩篇27篇はどんな意味ですか
詩篇27篇は、神を光とし救いとする人は、敵を恐れる必要がないと語ります。ダビデは、神の臨在の中に住みたいという願いを表し、孤独を感じるときの祈りを続けます。最後は、神を忍耐して待ち望むようにという呼びかけで終わります。
主はわが光、わが救いとはどういう意味ですか
光は導きと明るさを思わせ、神が道を照らし、闇を払ってくださることを表します。救いは危険からの救出を表します。神がその両方であると語ることで、ダビデは、自分の安全が軍勢や地位の力ではなく、神ご自身にかかっていると宣言しています。
詩篇27篇は誰が書いたのですか
表題はダビデの作としています。詩篇は敵、軍勢、両親に見捨てられることを語りますが、特定の出来事は挙げていません。読者はしばしば、サウルから逃げ、命を神に頼っていた年月を思い浮かべます。
恐れに向き合うとき、詩篇27篇はどう祈ればよいですか
1節から始め、今の恐れを口にしながら、声に出して言い直してください。次に4節で神の臨在への願いを取り戻し、14節の、強くあれ、主を待ち望め、へと進みます。答えや結果、決断を待っているときのために、この詩篇を取っておいてください。
詩篇 27を引用している記事
口語訳(1955年)— パブリックドメイン。