はじめに
9月24日(木)、大阪オンヌリキリスト教会の早天礼拝で、歴代誌第一 14章1〜17節から黙想が語られました。ダビデはイスラエルの王として堅く立てられ、ヒラムは彼の家を建てるための資材を送ってきます。そのあと、ペリシテ人が二度にわたってダビデに攻め上ります。
この箇所を貫いているのは、一つの動詞です。ダビデは神に「問う」のです。すべてが順調なときにも問い、最初の戦いの前にも問い、同じ敵に勝ったばかりの二度目の戦いの前にも、もう一度問いました。
説教者は、ここから「神に伺って勝利する人」の三つの特徴を引き出します。あなたは大切な決断を前にしたとき、まず誰に相談しますか。
メッセージの流れ
1. 最初の問いかけ:あなたは誰に相談しますか
- いつものように、説教者は一つの問いから始めます。大きな決断をするとき、あなたは誰に相談しますか。仕事なら上司や経験豊かな同僚、家庭なら配偶者や信頼できる友人、教会の奉仕なら牧師や信仰の先輩でしょう。
- それらにはどれも価値があります。けれども、いちばん大切な問いを忘れてはなりません。「主よ、あなたはどう思われますか。わたしに何を望んでおられますか」。
- 困難のなかでは、私たちは自然に祈ります。病気、お金の心配、人との対立など、自分の力を超えることが私たちを「主よ、助けてください」と叫ばせます。
- ところが、すべてが順調なとき、仕事がうまくいき、家庭が安定しているときには、こう考えてしまいます。「経験もあるし、前にも通った道だから大丈夫」。そして、祈る前に動いてしまいます。
- ダビデはどうだったでしょうか。王として堅く立てられ、生活が整い始めたそのときにも、そして一つ一つの戦いにおいても、神のみこころを求めることをやめませんでした。
2. 順調なときにこそ、神に伺う(1〜2節)
- ツロの王ヒラムがダビデに使者を送り、家を建てるための香柏を贈ります。外国の王がダビデを認め、王国の土台が据えられていきます。長い試練を経て、ダビデにようやく祝福の時が訪れたのです。
- 2節は、ダビデは「主が自分を堅く立ててイスラエルの王とされたこと」を悟った、と語ります。ダビデは、王位を自分の能力や努力だけの実りとは見ませんでした。立ててくださったのは神であると認めたのです。
- 自分の努力を否定したり、経験を生かすことをやめたりする、という話ではありません。ただ、そのすべての背後には神の恵みがあります。それを忘れれば高ぶりに至り、思い出せば私たちは謙遜になります。
- 霊的な祝福、物質的な祝福、健康、家庭、仕事、教会で奉仕する機会。振り返れば、私たちはこう言えるでしょう。「ここまで導いてくださったのは主です。神の恵みによって、今の私があります」。
- しかし、祝福のあとには、もう一つ大切なことがあります。祝福されているからこそ、いっそう神に伺わなければならないのです。王として堅く立てられたダビデは、もう問う必要はないとは考えませんでした。これから来る戦いのために、神の前にひざまずきました。
- 忙しいから祈りが減るのではなく、忙しいからこそ神との交わりを保つのです。教会の働きが広がるときには「主よ、この大切な時期に、私は何をすべきでしょうか」。家庭が安定しているときには「主よ、この家庭をどう導けばよいでしょうか」。
- 神が与えてくださる祝福は、神から離れる理由ではありません。むしろ、神にいっそう近づく理由です。
3. 過去の勝利に頼らず、戦いのたびに神に伺う(8〜12節)
- ダビデが油を注がれて全イスラエルの王になったと聞くと、ペリシテ人はみな上ってきて彼を捜します。祝福されても、戦いがなくなるわけではありません。むしろ、新しい段階に入るときには、新しい戦いが待っていることが少なくありません。
- 私たちも同じです。新しい奉仕を始めるとき、信仰が一段成長したとき、神のために決断をしたとき、すべてが順調に進むとは限りません。祝福はひとりでに続くものではなく、霊的な戦いの危険は確かに存在します。
- 10節で、ダビデは自分の判断だけで戦いに飛び込みませんでした。まず神の前に出て、こう問います。「ペリシテびとに向かって上るべきでしょうか。あなたは彼らをわたしの手にわたされるでしょうか」。これがダビデの信仰の際立った特徴です。
- ダビデは王であり、おそらく軍隊を持ち、何より長い戦いの経験がありました。それでも、王であることも経験も、神に伺うことを免除してはくれません。
- 神は答えられます。「上りなさい。わたしは彼らをあなたの手にわたそう」。ダビデは従い、バアル・ペラジムでペリシテ人を打ち破りました。
- 11節で、ダビデは「私の軍隊は強かった」とも「私の作戦が最善だった」とも言いません。「神は破り出る水のように、わたしの手で敵を破られた」と言います。この文の主語は神です。神に伺う人は、勝利のときにも栄光をすべて神に帰します。ダビデは用いられたことを喜びながらも、勝利の主は神ご自身であることを忘れませんでした。
4. 同じ敵、しかし違う方法(13〜15節)
- 13節で、ペリシテ人は同じ谷に戻ってきます。同じ敵、同じ場所、そしてすでに得た勝利。ダビデはこう考えることもできたでしょう。「作戦は分かっている。弱点も知っている。一度勝ったのだから、もう一度同じようにすればよい」。
- しかし14節にはこうあります。「ダビデが再び神に問うた」。説教者にとって、ここが今朝のメッセージの中心です。私たちは過去の成功に頼りがちです。「前にうまくいったから、今度もうまくいく」と。
- 経験は尊いものであり、生かすのは良いことです。けれども、昨日の勝利は、今日神に伺わない理由にはなりません。昨日いただいた恵みは昨日のものでした。今日もまた、私たちは神の恵みを必要としており、それを求めなければなりません。
- 私たちを取り巻く環境は変わり、状況も変わり、周りの人も変わります。神は変わりません。けれども、神が私たちに求められることは変わることがあります。
- 最初のとき、神は単に「上りなさい」と言われました。今回は、具体的な指示を与えられます。正面から上ってはならない、遠回りをして、木々の前から攻めなさい。そして、木の上に行進の音が聞こえたら戦いなさい。神がダビデの前に出て、ペリシテ人の軍勢を撃たれるからです。同じ神でありながら、違う方法でした。
- 大切なのは作戦の違いではなく、ダビデが問い続けたことです。私たちはどれほど、すべてを決めてしまったうえで祈っていることでしょう。「主よ、私はこうするつもりです。これでよろしいですか。私の計画を祝福し、成功させてください」。
- 神に喜ばれる真の祈りは、自分の計画の承認を求めるものではありません。神のみこころを求め、それを知ったなら、自分の考えも願いも計画も脇に置き、自分を捨てて、自分の歩みを神の歩みに合わせていくのです。
5. 神に従い、神に頼る:神が私たちの前で戦われる(15〜17節)
- 15節の終わりにはこうあります。「神があなたの前に出てペリシテびとの軍勢を撃たれる」。ダビデは具体的な指示を受けて戦いに出ますが、先に進んでおられるのは神です。ダビデは行動し、勝利を与えてくださるのは神です。
- 私たちは時に、神に信頼することと、何もしないことを混同します。「神が働いておられるのだから、私は何もしなくてよい」と。そうではありません。神は働かれますが、私たちの行動も求めておられます。
- 16節:「ダビデは神が命じられたようにして」。ダビデは神に伺っただけでなく、神から言われたことを実行しました。祈りと従順は一つです。
- 神に尋ねることは大切です。けれども、みこころを知ったあとで従わないなら、聞かなかったのと同じです。そのとき、祈りは実を結びません。
- 神が「進みなさい」と言われるなら、進まなければなりません。「止まって待ちなさい」と言われるなら、動いてはなりません。「戦い方を変えなさい」と言われるなら、「慣れたやり方のほうがいい」と習慣にしがみつかず、神が示される方法に従うのです。そのとき、神は勝利を与えてくださいます。
- 家庭での戦い、職場での戦い、人間関係の対立、教会の働きにおける霊的な戦い。何を土台に決断すればよいのでしょうか。自分の経験、周りの助言、世の常識でしょうか。すべてを無視しなさいということではありません。それらは目安になりえます。しかし最後に基準となるのは、いつも主とそのみこころです。「主よ、進むべきでしょうか、待つべきでしょうか。私の考えでも私の計画でもなく、あなたのみこころがなりますように」。
- 神は今日、このように祈る人を求めておられます。神の指示に従って歩む人を通して、神は驚くべきわざを行われ、その祝福はその人にとどまらず、その人を通して多くの人へと広がっていきます。
6. 結び:毎日の真ん中で神に尋ねる
- ダビデは王として堅く立てられました。祝福されても、神に伺い続けました。攻撃されたときも伺いました。勝利のあと再び攻撃されたときも、もう一度伺い、新しい方法を示されて、それに従いました。神は彼の前に出て、勝利を与えられました。
- 私たちは、今日どんな問題に出会うかを知りません。けれども一つ確かなことがあります。主に伺い、みこころに従って歩むなら、主は力をもって私たちを導いてくださいます。すでに戦いの先頭に立っておられる主に、私たちは頼ることができます。
- 説教者は、一人ひとりに勧めます。大切な決断をするその瞬間に、心の中でこう祈りましょう。「主よ、あなたはどう思われますか。わたしに何を望んでおられますか。わたしの歩みを導いてください」。
- 昨日の勝利の上にあぐらをかかず、今日もう一度主に伺い、その声に従うこと。これが、神に伺って勝利する人の歩みです。
ポイントのまとめ
- ダビデは、自分を王として堅く立ててくださったのは主であると認めました。成功の背後にある神の恵みを思い出すことが、高ぶりから私たちを守ります。
- 神の祝福は、神から離れる理由ではなく、神にいっそう近づく理由です。順調なときこそ、そうです。
- 過去の勝利は、今日神に伺わなくてよい理由にはなりません。同じ敵、同じ場所でも、神は別の方法を示されることがあります。
- 真の祈りは、自分の計画の承認を求めるのではなく、神のみこころを求め、それに従うものです。
- 祈りと従順は一つです。ダビデは行動しましたが、先に進み、勝利を与えてくださったのは神です。
個人への適用
- 今、あなたの人生のどの分野がすべて順調ですか。そこでも神に伺っていますか。それとも、祈る前に動いていますか。
- 最近の成功のうち、主に自分の能力や努力のおかげだと思っているものは何ですか。ダビデのように「主が私を堅く立ててくださった」と言うと、何が変わるでしょうか。
- 「前にうまくいった方法」に頼って、今、神が何を望んでおられるかを尋ねていないことはありませんか。
- 祈るとき、あなたは神のみこころを求めていますか。それとも、すでに決めたことへの祝福を求めていますか。
- 神がすでにあなたに示されたのに、まだ実行していないことは何ですか。進むこと、待つこと、それともやり方を変えることでしょうか。
引用された聖句
よくある質問
なぜ、順調なときにも神に伺うのですか。
生活が順調だと、私たちは自分の経験に頼り、祈る前に動いてしまいます。ダビデは王として堅く立てられたあとも、神に伺い続けました。神の祝福は、神から離れる理由ではなく、神にいっそう近づく理由です。
なぜダビデは、同じペリシテ人との二度目の戦いでも神に伺ったのですか。
同じ敵、同じ場所、そしてごく最近の勝利。ダビデは同じ作戦をもう一度使うこともできました。それでも彼はもう一度伺い、今度は神から別の、具体的な方法が示されました(歴代誌上 14:14-15)。過去の勝利は、今日神に伺わなくてよい理由にはなりません。
神に信頼することは、何もしないことですか。
いいえ。ダビデは行動しました。神が命じられたとおりにしたのです(歴代誌上 14:16)。しかし、彼の前に出て勝利を与えてくださったのは神でした。祈りと従順は一つです。従順の伴わない祈りは、実を結びません。
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