試練の中で神があなたの心を形づくり、完全な喜びへと導かれるとき

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「主よ、なぜ試練があるのですか」これは、サミュエル・マブー牧師(ニース・アリアーヌ教会)がよく受ける質問であり、この説教のテーマを見つける前に、彼自身が主に問いかけた質問でもあります。その答えは申命記8章2〜4節に根ざしています。神ご自身が、なぜご自分の民に40年間荒野を歩ませたのかを説明しておられるのです。5つの明確な理由と、一つの約束があります。試練の中にあっても、神は真実であり続けてくださるということです。

あなたが今つらい時期を過ごしているなら、入院や、見捨てられた経験や、家族の中の苦しみを抱えているなら、このメッセージはあなたのためのものです。また、あなたが愛する誰かが荒野を歩んでいるのを見ているなら、それもまた同じです。ここには試練を避けるための処方箋はありません。けれども、なぜ父なる神が試練を許されるのか、そしてどのようにあなたに寄り添ってくださるのかを語る、父の声がここにあります。

このメッセージで学べること

  • なぜ神があなたの人生に荒野を許されるのか
  • 申命記8章から読み取れる5つの明確な理由
  • 神が許される試練と、自分の罪によって招いた試練の違い
  • すべてが失われたように見えても、神がどのように真実であり続けてくださるか
  • なぜ試練が「この上ない喜び」の材料になり得るのか

メッセージの構成

1. 荒野、あなたを裸にする場所

聖書の中で、荒野はほとんどいつも試練を意味します。水もなく、パンもなく、太陽から身を隠す場所もありません。前を見ても何もない。右を見ても何もない。左を見ても、後ろを見ても同じです。荒野とは、あなたが裸にされ、もう何も隠せなくなる時です。

あなたにとって試練とは、もしかすると入院の時期だったかもしれません。家族の中の複雑な出来事、見捨てられた経験、肉体の苦しみだったかもしれません。あなたは身を守る岩を探していたのに、何もなかった。まさにそのとき(もう何も残っていないとき)、あなたは主に目を上げるのです。そして、人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出るすべての言葉によって生きるのだと気づきます(申命記8章3節)。

神は時に、あなたを荒野へと導かれます。あなたの快適さ、安心、支えを取り除かれるのです。恐れが戻ってくる。それは、あなたが深みにはまり込む前に、あなたを立ち返らせるためです。

「あなたの神、主がこの40年の間、荒野の道をあなたに歩ませられたことを、すべて心に留めなさい。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心にあるもの、すなわちあなたが主の命令を守るかどうかを知るためであった。」(申命記8章2節)

2. 第一の理由:あなたを苦しめるため

「苦しめる」という言葉は、この箇所に二度出てきます。誰もこの言葉を好みません。誰も屈辱を求めたりはしません。けれども、それを行われるのが主であるとき、それはあなたの内に良いものを生み出します。この動詞の本来の意味は、「形づくる」「こねる」、つまり神の御手の中であなたをしなやかにするということです。

神によって苦しめられるとは、神に依存する者になることです。自分の意志を、肉の思いを手放すことです。「父よ、わたしの願いではなく、あなたの御心のままに」。聖書は、神が高ぶる者に立ち向かわれると語ります。あなたは神に対して強がることはできません。頑固でいることはできません。なぜなら神は、あなたを砕いてでも謙遜へと導かれることができるからです。謙遜がなければ、あなたは神を見ることも、神のものとなることもできません。

そして、その苦しみの中に新しい糧があります。マナです。あなたが知らなかった霊的な糧です。病院にある独特の食事のように、あまりおいしくはなくても、それにしかないものがあります。主は、あなたの試練に合わせて調整されたマナを与えてくださいます。主のモットーはこうです。「特別な時には、特別な恵みがある」。

3. 第二の理由:あなたを試みるため

試みるとは、良くないものを取り除き、清め、純粋にすることです。このヘブライ語は「検査を受けさせる」「確認する」という意味を持っています。神は喜んであなたを検査に通し、あなたが今どこにいるかを見られます。信仰において、聖化において、献身において。神はあなたを、この世や肉的なものから引き抜いて、ご自分の内に根づかせようとしておられるのです。

4. 第三の理由:あなたの心にあるものを明らかにするため

神のことに関して、あなたの本当の動機は何でしょうか。私たちのうち、どれだけの人が、試練の後に主のもとに来た(あるいは主のもとに帰った)でしょうか。荒野の埃を味わった後に。もう望みのない、あの枯れた骨の谷の底にまで落ちた後に。そのときこそ、あなたは主に向かって叫び、ひざまずくのです。

試練は、あなたに立場を決めさせます。もう二つの椅子の間に座っていることはできません。片足を世に、片足を教会に置くことはできません。片足を罪に、片足を聖化に置くことはできません。日曜日には一番いい服を着て、少し香水をつけて、それ以外の日はすっかり罪に生きているクリスチャンが、どれだけいるでしょうか。サミュエル・マブー牧師は謙遜にこう語ります。自分も長年、そうだったのだと。

これは、神がアブラハムに一人息子を献げるよう求められたときに、その心の中で試された事柄と同じです。「あなたの心にあるものは何か」。受け取ることは簡単です。主が取り戻されるものをお返しすることのほうが難しい。けれども、試練の中でこそ、あなたは神との関係が本当にどうなっているかを知ることができます。試練の中ほど、霊的に成長できる時はありません。

「試練を求めて祈ってはいけません。それは危険です。けれども、こう祈りなさい。『主よ、この試練の中で、私が学ぶのを助けてください。あなたが私に何を学ばせたいのか、私の人生から何を取り除きたいのかを、見分けさせてください』と。」

5. 第四の理由:あなたが主の命令を守るかどうかを見るため

約束の地がまだ見えなくても、神の言葉に従うこと。人生に何の改善も見えなくても。第一の戒め、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神を愛しなさい」が、あなたの心の中で本当かどうかを知るためです。

試練を通らなければ、それを知ることはできません。あなたが本当に神を求めているかどうかが見えるのは、そこです。忍耐には努力が必要です。パウロは「競走を走り抜く」と語ります。本当のクリスチャンとは、疲れたときも、あきらめたくなったときも、他の人たちに追い抜かれ始めても、なお踏みとどまる人のことです。霊的な限界は、試練の中で発見されるものです。

6. 第五の理由:最も大切なものが霊的なものであると教えるため

私たちの体は絶えず私たちを地上に、肉的なものへと引き戻します。体は天を受け継ぐことがないので、下ばかり見るのも道理です。けれども、あなたの魂は永遠です。この箇所はこう語ります。「それはあなたに、人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出るすべての言葉によって生きることを教えるためであった」と。

ここでのパンは、肉的なもの、地上のもの、一時的なものを表しています。霊的な世界は、物質的な世界と同じくらい現実であり、それ以上に大切で、それ以上に長続きするものです。あなたが触れられるものはすべて過ぎ去ります。しかし霊的な世界は永遠です。

ですから、神を第一にしてください。日曜日の朝を、あなたの予定表の一番先に置いてください。それは、あなたの時間の十分の一です。私たちはよくお金の十分の一について語りますが、あなたの時間、あなたの賛美、あなたの言葉にも十分の一があります。地上のものから心を離し、天のものに結びつけてください。儀式としてではなく、自然に、あなたの家で、家族と共に、体を折って主の前にひざまずいてください。あなたの家族をひざまずかせ、こう宣言してください。「あなたこそ、私たちの家族の神です」と。

7. 試練の中でも、神は真実であられる

申命記8章4節は心を打ちます。「あなたの着物は40年の間、あなたの身につけていても古くならず、あなたの足は腫れなかった」。40年もの間、日々新たにされる奇跡です。40年もつ衣。歩き続けても腫れない足。

神は毎朝マナを備えられます。うずらを備えられます。昼は雲の柱を、夜は火の柱を備えて、ご自分の民を導かれます。時に、あなたは荒野の中でこう思うかもしれません。「あの柱を見失ってしまった」と。そのときは、こう戻ってください。「主よ、あの柱を私に示してください。あなたに従いたいのです。あなたは私の導き手、私の主人です」と。

「あなたがたが経験した試練で、人間として耐えられないようなものはなかったのです。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、脱出の道も備えてくださいます。」(コリント人への第一の手紙10章13節)

あなたの力を超える試練はありません。神は荒野を生き抜くための備えも与えてくださいます。そこから抜け出す道を用意してくださるのです。今朝、あなたの試練が何であるか、私にはわかりません。一人一人に、それぞれの試練があります。けれども、どんな試練であっても、神はあなたの試練の中で十分に足りるお方です。

8. 大切な問い:あなたはそこで学ぶために試練の中にいるのか、それとも不従順のためか

試練が敵から来るとは限りません。時にそれは神が許されたものです。しかし、あなたが自分自身の罪によって試練の中に入ってしまった場合(ニネベに行くことを拒んだヨナのように)、あなたが自分に問うべき唯一の問いは「神は私に何を学ばせようとしているのか」ではなく、「私はどこで悔い改めるべきか」です。

魚の腹の中で、ヨナは主に祈りました。すると、すぐに魚は彼を吐き出しました。神を動かすものは悔い改めです。「わたしは天に対しても、あなたに対しても罪を犯しました」と、放蕩息子は言いました。そのとき、主は来られ、赦し、助けてくださいます。人間としての結果を引き受けなければならないこともあるかもしれませんが、主は物事を回復させる助けをしてくださいます。

9. 試練を「この上ない喜び」として見る

牧師はヤコブの手紙を引用します。

「わたしの兄弟たちよ、あなたがたが、いろいろな試練に会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生み出されると、あなたがたは知っているからです。その忍耐を十分に働かせなさい。それは、あなたがたが何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な人となるためです。」(ヤコブの手紙1章2〜4節)

注意してほしいのは、試練があるから喜ぶのではないということです。試練があなたの内に良いものを生み出すからこそ、喜ぶのです。忍耐です。成熟です。主を愛する者に約束されたいのちの冠です(ヤコブの手紙1章12節)。

あなたは自然と、霊的に緩んでいく傾向があります。冷めていく傾向があります。時に、小さな山場、小さな試練が、あなたを踏みとどまらせ、立ち続けさせてくれるのです。

10. 最終的な目標:約束の地

40年間、民の目標は荒野そのものではありませんでした。目標は約束の地でした。「谷や山に泉と湧き水が流れ出る、水の豊かな地」です。神は確かに、この地上で必要を満たしてくださいます。あなたを愛し、助けてくださいます。しかし、神の最大の目標は、あなたの永遠のいのちです。

私たちは即時性の中に生きています。アマゾンは24時間で配達してくれます。もう待つことができなくなっています。けれども神は永遠であり、時が味方についていることを知っておられます。あなたもまた、永遠の存在です。そのことを、どうか思い出してください。

「神を愛する者たち、すなわち、神のご計画に従って召された者たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、わたしたちは知っています。」(ローマ人への手紙8章28節)

あなたが神のご計画を理解していてもいなくても、この試練を通る理由がわかってもわからなくても、主に信頼してください。主はご存じです。

覚えておきたいポイント

  • 神が荒野を許されるのは、あなたを苦しめ、試み、心を明らかにし、従うことを教え、大切なものは霊的なものだと思い出させるためです。
  • 苦しみの中で、神はあなたに合わせたマナを与えてくださいます。特別な時には、特別な恵みがあります
  • 40年荒野を歩んでも、神が身につけさせてくださったものは古びません。神は日々真実であり続けてくださいます。
  • もしあなたが自分自身の罪によって試練の中にいるなら、唯一正しい答えは、ヨナのように悔い改めることです。
  • 試練そのものは喜びではありません。けれども試練は、この上ない喜びを生み出し(ヤコブの手紙1章2〜4節)、いのちの冠を備えてくれます。

個人的な適用

少し時間を取って神の前に立ち、正直に答えてみてください。

  • 今、あなたはどんな試練の中で荒野を歩んでいますか。神があなたにそこで何を学ばせたいのか、尋ねる準備はできていますか。
  • あなたがそこにいるのは従順のためですか、それとも不従順のためですか。どちらであるかによって、正しい答えは変わります。
  • 神はあなたが最終的に神だけに頼るように、どんな支えを取り除こうとしていますか。
  • 日曜日以外に、家で体を折って神の前にひざまずいたのは、いつが最後でしたか。
  • 今週、主のために取っておいた時間の十分の一はありますか。それとも、何か別のことに置き換えてしまいましたか。

引用された聖句

よくある質問

なぜ神はクリスチャンの人生に試練を許されるのですか。

申命記8章2〜3節は5つの理由を挙げています。あなたを苦しめるため、あなたを試みるため、あなたの心にあるものを明らかにするため、あなたが主の命令を守るかどうかを確かめるため、そして人はパンだけでなく神の口から出るすべての言葉によって生きることを思い出させるためです。試練は決して無意味なものではありません。あなたを形づくるために用いられるのです。

神が許された試練と、自分の罪が招いた試練を、どう見分ければよいですか。

自分にこう問いかけてください。「私がここにいるのは、神が私に何かを学ばせたいからか、それとも私が不従順だったからか」と。もし後者であるなら、最初にすべきことは「何を学ぶべきか」を問うことではなく、悔い改めることです。魚の腹の中のヨナのように、彼が祈った瞬間、魚は彼を吐き出しました。

ヤコブの手紙1章2節の「試練をこの上ない喜びと思いなさい」とは、どういう意味ですか。

試練そのもののゆえに喜ぶという意味ではありません。試練があなたの内に生み出すもの、すなわち忍耐、成熟、鍛えられた信仰のゆえに喜ぶのです。ヤコブは、忍耐強く耐え忍ぶ者にいのちの冠が約束されていると語っています。喜びは苦しみそのものの中にあるのではなく、それが生み出す実の中にあるのです。

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