はじめに
棕櫚の主日、イエスは世にご自分を現すため、エルサレムへ上ることを決意されます。十字架まであとわずか五日というときに、受難を前にして、いわば栄光のひとときとも言える出来事を経験されるのです。それは短く、そして曖昧な瞬間でした。群衆は「ホサナ」と叫びながらも、多くの人はイエスが本当は誰であるのか、まだ理解していなかったのです。
ヨハネ12章12節から50節で、使徒ヨハネはイエスの二つの大きな説教をまとめています。最初の説教はイエスご自身のアイデンティティと使命について語り、二つ目の説教は全人類に向けた最後の呼びかけです。あなたも私も、その人類の一員です。この記事では、テキストの流れを三つの部分に分けてたどります。エルサレム入城とそれが引き起こした対照的な反応、イエスがご自分の使命について語られた説教、そして最後に、あなたが答えなければならない究極の呼びかけです。
メッセージの構成
1. エルサレム入城と群衆の対照的な反応
- イエスはろばに乗ることでゼカリヤ書の預言を成就されます。それは戦争ではなく、平和をもたらすために来られたということです。
- 群衆の一部はキリストを拒みます。パリサイ人たちは真っ向から憎み、また別の人々はイエスを信じてはいても、人の目を恐れてそれを言い表せませんでした。
- もう一方の人々は勝利のしるしである棕櫚の枝を振ってイエスを迎えますが、その多くは間違った動機、つまり政治的な解放者を期待してのことでした。
- 弟子たちでさえ、その日に何が起きていたのかを理解したのは、復活の後になってからでした。
2. 最初の大きな説教:イエスのアイデンティティと使命
- イエスはご自分を「人の子」と呼ばれます。この称号は、ダニエル書7章が示すようにイエスの神性を表すと同時に、私たちと連帯するための完全な人性をも表しています。
- イエスはご自分が「上げられる」と告げられます。地上的な意味では十字架のことであり、天的な意味では復活のことです。
- 群衆の前で、イエスは迫り来る死への動揺を包み隠さず語られます。イエスは完全に人であり、その恐れは本物でした。しかしすぐに、「わたしがこの時のために来たのはこのためです」と言い直されます。
- 父なる神は天から声をもって答えられます。バプテスマのときや山上の変貌のときと同じようにです。イエスは群衆に「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためです」と言われます。
- 実を結ぶために死ぬ一粒の麦、それは地に埋もれるイエスであり、その実とはあなたのことなのです。
3. 二つ目の大きな説教:最後の呼びかけ
- しばらく身を隠された後、イエスは最後にもう一度姿を現し、究極の呼びかけを発せられます。
- イエスは世を裁くためではなく、救うために来られました。終わりの日に裁くのはイエスご自身ではなく、イエスの言葉を拒んだこと、そのことが裁くのです。
- ボールはあなたの側にあります。イエスは一人ひとりを、自分自身の責任へと立ち返らせられます。
- 父なる神の命令とは、永遠のいのちのことです。神は、あなたがいのちを選ぶことを望んでおられます。
心に留めておきたいポイント
- イエスはあなたを裁くために来られたのではありません。ろばに乗り、へりくだって、平和のうちにあなたを救うために来られたのです。
- 中立の立場というものはありません。人の前でイエスを言い表さないことは、すでにイエスに反対する立場を取っていることになるのです。しかし、もしペテロのようにイエスを否んでしまったとしても、イエスはあなたを赦してくださいます。
- 信仰は奇跡そのものにではなく、その奇跡を行われる方に根ざすものです。多くの人はラザロの復活を目にしながらも、信じませんでした。
- 十字架には強い引きつける力があります。「わたしが地から上げられるとき、すべての人をわたしのもとに引き寄せます」とある通りです。
- 終わりの日にあなたを裁くのは人間の意見ではなく、神の言葉です。そして今日、この言葉はあなたをいのちへと招いているのです。
あなた自身への問いかけ
- 今日、あなたにとってイエスとはどなたなのか、はっきりと言い表すことができますか?
- 家族や同僚、友人の前で、イエスのことを恥ずかしく思ってしまうことはありませんか。最後に黙ってしまったのは、何が原因でしたか?
- あなたの信仰は、神があなたの人生になしてくださったこと(奇跡や祝福)に根ざしていますか、それともキリストご自身に根ざしていますか?
- あなたがどうしても赦せずにいる人はいませんか。その人を今日、イエスに委ねることができますか?
- もし今朝イエスが「わたしはあなたに会いに来た」と言われたとしたら、あなたは今週、具体的にどう答えますか?
引用聖句
- ヨハネ 12:12-50(口語訳)
- ゼカリヤ 9:9(口語訳)、へりくだった王がろばに乗って来られること
- イザヤ 53:1(口語訳)、「だれがわれわれの聞いたことを信じたか」
- イザヤ 6章(口語訳)、栄光の幻
- マタイ 13:13-15(口語訳)、閉ざされた心
よくある質問
なぜイエスは馬ではなくろばに乗ってエルサレムに入られたのですか?
1世紀において、馬は戦争と軍事的威厳の象徴となる動物でした。イエスはろばを選ぶことで、ゼカリヤ書9章9節の預言を成就させ、人類に戦争を仕掛けて裁くためではなく、平和をもたらして救うために来られたことを示されました。それは王の中の王が示された謙遜のしるしなのです。
実を結ぶために死ぬ一粒の麦とは、どういう意味ですか?
地に埋もれる一粒の麦は、イエスの死と埋葬を表しています。そして、その麦が結ぶ実とは、私たちのことです。イエスの死と復活によって救われる、数え切れないほど多くの人々のことなのです。私たちには何の功績もありません。それは神の愛による純粋な賜物です。
神が不信仰な者たちの心を鈍らせたと言えるのは、なぜですか?
マタイの福音書の並行箇所には、まず人間自身が目を閉じ、耳を塞いだことが記されています。神はそのような者たちを、その状態のままにしておかれるのです。ブレーズ・パスカルが語ったように、神は信じたい者には十分な光を、信じたくない者には十分な闇を置かれました。それでも、責任は人間の側に残されているのです。
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