はじめに
このメッセージは、イギリス王室のある逸話から始まります。ヘンリー王子がウィリアムに続く次男として生まれたとき、チャールズ皇太子はおそらく冗談で、ダイアナにこう言ったといいます。「君は私に跡継ぎとスペアを与えてくれた。私の務めは終わった」。それから年月が過ぎ、ヘンリーは自らの回想録に「スペア」という題をつけました。その中で彼は、自分は影であり、支えであり、プランBであり、兄を守るために注目と打撃を引き受ける存在だった、そしてそのすべては人生の旅路の初めから決まっていた、と書いています。
東京・上野の森キリスト教会の説教者は、こうした傷がイエスの十字架の傷と重なり、祝福の通り道となるようにと祈ります。そしてヤコブに話をつなげます。古代の世界では、家族や序列の重みはなおさら大きなものでした。「ずる賢い者」と呼ばれた人の背後には、一つの物語があり、傷があります。
創世記を続けて読み進めているこのメッセージは、創世記28章10〜22節を取り上げます。ヤコブは兄の怒りから逃れます。夜、ひとり、石に頭を置いたまま、夢と約束を受けます。目を覚ますと彼は叫びます。「これは神の家である。これは天の門だ」。そして、その場所をベテルと名づけます。
メッセージの流れ
1. 生涯にわたって重くのしかかった名前
- イサクには双子の息子がいます。エサウは「毛深い者」、毛におおわれた者という意味です。ヤコブは「かかとをつかむ者」という意味で、兄のかかとをつかんで生まれてきたことに由来します(創世記25:25-26)。
- 外から見れば、ほほえましい場面で、ユーモアのある名前です。しかし、この名前は彼の人生を支配していきます。「かかとをつかむ」ことが、出し抜く、欺くという意味を帯びていったからです。
- エサウは活動的な狩人です。ヤコブは「穏やかな人」で、天幕のあたりで働いています(創世記25:27)。争いを好む人ではありません。説教者は、この控えめな態度の背後に、兄より目立つとすぐにずるい者というレッテルを貼られてきた少年の姿を思い描きます。
- レンズ豆の煮物の場面で、ヤコブは長子の権利を求めます。エサウはそれを軽んじ、ヤコブはその価値の大きさを知っています(創世記25:29-34)。
- イサクはエサウを好みます。説教者は、どちらかといえば受け身の人生を送ってきたこの父が、行動力のあるこの息子に、自分が生きたかった人生を重ねていたのではないかと考えます。一方、リベカはヤコブを理解し、いつも彼を助けます。
2. リベカの策略とエサウの怒り
- 年老いて目の見えないイサクは、ひそかにエサウを呼び、獲物を持ってくるように言います。祝福を与えるためです。リベカはそれをすべて聞いていました。彼女は、ヤコブが兄になりすます計画を立てます(創世記27章)。
- ヤコブはためらいます。見破られれば、祝福ではなくのろいを受けることになるからです。リベカは、そののろいは自分が引き受けると答えます。
- 計画は綿密です。子羊ではなく子やぎを用意し(説教者は、その強いにおいがおそらくエサウのにおいを思わせたのだろうと指摘します)、エサウの晴れ着を着せ、腕と首に毛皮をつけます。
- イサクは疑い、やがて納得します。「声はヤコブの声だが、手はエサウの手だ」。そして彼はヤコブを祝福します。それは、相続を受け渡す宣言でした(創世記27:22, 27-29)。
- エサウは激しく怒ります。「彼の名がヤコブというのは、正しいではないか。彼はこれで二度までわたしをおしのけた」(創世記27:36)。恨みは根を下ろし、父の死んだあとに弟を殺そうと決意するまでになります(創世記27:41)。
- リベカはそれを知り、新しい計画を立てます。ヤコブは母の親族のもとへ妻を探しに行き、兄の怒りがおさまるまでそこに身を隠すのです。
- 説教者によれば、策略はヤコブよりもむしろリベカのものかもしれません。そして次回語られる彼女の兄ラバンは、さらに巧みな策士です。欺きは、リベカの家系に受け継がれてきた負の連鎖のようです。
3. 自分を弁護できない者のうめき
- 家を追われたヤコブは、見知らぬ土地へと歩いていきます。自分に非があることは分かっています。どんな言い訳をしても、父を欺き、兄に与えられるはずの祝福を奪ったのです。蒔いたものを刈り取っているのだと言うこともできます。
- しかし説教者は、彼の気持ちも思い描きます。あれは母の計画だった。長子の権利は、盗んだのではなく、兄が手放したのだ。父は、その権利を軽んじた者を祝福しようとした。そして祝福をこっそり受けようとしたのはエサウのほうだ。
- 事を収めるには、すべてを自分が背負わなければなりません。けれども、本当は誰かに自分の言い分を聞いてほしいのです。そこから、不公平だという思い、不条理な運命のような思いが生まれます。
- ずっと、名前のせいでずるい者と呼ばれてきました。「生まれたときに手でつかんでいたのは、自分で決めたことではなかったのに」。それを何年も聞かされ続ければ、神を恨みたくもなります。それはうめきです。
- 彼はアブラハムが出てきた地へと向かいます。そこは祝福の地ではありません。彼はひとり、約束から遠ざかっていきます。失われた祝福が自分の人生に刻まれ、もう戻れないのだと感じていたのでしょう。
4. 神は、あなたが言葉にできないことを聞いておられる
- 私たち人間は、誰が正しく誰が間違っているのかを知りたがります。非が双方にある場合でも、天秤がどちらに傾くのかを探します。そして裁きを下します。「自業自得だ」と。
- けれども、この世には、私たちの善悪の基準や因果の論理では解決できない状況があります。出口のない不公平感はうめきとなり、そのうめきはむなしく世にたまっていきます。
- 何もできないまま、絶望するほどにそのうめきとともにいること。それが人間の限界です。
- 私たちは、誰も自分のうめきを聞いてくれないと思います。しかし、礼拝の招詞でも思い起こされたように、神はイスラエルのうめきを聞かれました。
- 私たち自身が理解できないこと、言葉にできないことを、神はそのまま受け取ってくださいます。それを整え、私たちを守り、あがない、いつくしみのうちに迎えてくださいます。
5. 天からあなたのもとへ降りてくるはしご
- 道の途中で日が暮れます。野獣や、おそらくさそりのいる野外で眠らなければなりません。かたく冷たい石が枕です。絶望は決定的なものに思えます。疲れきったヤコブは深く眠り込み、夢を見ます(創世記28:11-12)。
- 地から天へとはしごが通じ、神の使いたちがその上を自由に上り下りしています。まず気づくべき点は、ヤコブがこの啓示を受けたのが、いちばん暗い夜のただ中だったということです。
- 二つ目の点です。説教者が読んだ訳では、階段は「地に向かって伸びて」います。天から始まり、地面へと降りてきているのです。人は天に届くはしごを立てることはできません。しかし、天から地へはしごが降りてくることはできます。そのとき、天と地は通じ合うことができます。
- 「お気づきのことでしょう」。これは、神が人となって地に来てくださり、私たちが神との関係を持てるようにしてくださった、イエス・キリストの姿です。
- さらに美しいのは、主が遠く、頂の上にとどまってはおられないことです。説教者が従った訳では、主はヤコブのすぐそば、この絶望した人のかたわらに立ち、人の目の高さで語りかけます。
6. 「わたしはあなたと共にいる」、インマヌエルの約束
- 説教者はこの声を思い描きます。澄んだ美しい声、力強く、栄光と威厳に満ちた声、そして愛に満ちた父のやさしい声。ヤコブはその中に慰めと平安を受け、深く心を揺さぶられます。それは、奪われていた慣れ親しんだものに再び出会ったときのようです。
- 神は、アブラハムとイサクに与えた約束を彼にもう一度告げます。この地、地のちりのように多い子孫、そしてその中で地のすべての民が祝福されること(創世記28:13-14)。ヤコブは、アブラハムの故郷に戻ることで、アブラハムの祝福を失うのだと思っていました。しかし、約束は変わっていません。
- 続いて、ヤコブひとりに向けた言葉が来ます。「わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは、あなたに語ったことを行うまでは、あなたを捨てない」(創世記28:15)。
- ヤコブは、祝福を失ったという恐れを、言葉もなくただうめいていただけでした。神はそれをご存じでした。彼自身よりもよく彼を理解し、彼がいちばん聞く必要のあったことを、まさにそのとおりに告げられました。わたしは最後まであなたを守る、と。
- これが、イエスの名であるインマヌエル、「神が私たちと共におられる」という意味です(マタイ1:23)。ヤコブが父の家に戻るのは、おじラバンのもとで長い年月を過ごしてからのことで、困難は続きます。しかし、彼はもうひとりではありません。
- 「決して私たちを見捨てず、守ってくださる神とともにあるとき、苦しみのただ中でも、揺るがない平安が与えられます」。
7. ベテル:神の家であり天の門であるイエス
- 空が明るくなり、涼しい風が吹き、ヤコブは目を覚まします。「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった。[...] これは神の家である。これは天の門だ」(創世記28:16-17)。
- 前の日に彼を絶望させた冷たくかたい石は、尊い石となります。彼はそれを記念碑として立て、その頭に油を注ぎ、聖別し、その場所をベテル、「神の家」と名づけます(創世記28:18-19)。
- 「神の家」という言葉は、イエスを思わせます。イエスは神の国を、遠い天ではなく、この世界にもたらすために来られました。この国は神の支配であり、同時に、神を「父」と呼ぶことのできる家族でもあります。
- イエスは言われました。「わたしは門である」(ヨハネ10:9)。天から降りてきたはしご、天と地を和解させ結びつける天の門は、あがない主イエスです。
- 困難に直面すると、私たちは解決を求めます。病気やけがのときは癒やしを、怒りに支配されたときにはときに復讐を、孤独なときには愛を、失敗のあとには成功を、自分を嫌っているときには良い人になることを。私たちはすべてがうまくいくことを望みます。答えを求めるのです。
- 「私たちが神を見ることを妨げているのは、もしかすると、まさに自分が思い描く答え、頭の中にある正しい解決なのかもしれません」。
- 拠り所を失い、「自業自得だ」という言いようのない絶望を味わうとき、心からうめきが立ちのぼります。そのとき初めて、私たちは、天のはしごが私たちの夜の中に立てられているのを見ます。それは光に満ち、やさしいものです。
- 解決を祈ってもかまいません。けれども、物事はこうならなければならないという固定観念が、やがてあなたを支配してしまうことがあります。それを手放すとき、期待していた答えよりも尊いものが見えてきます。天と地を結ぶ主インマヌエル、「神が私たちと共におられる」ということです。主とともにいるなら、困難のただ中でも、天の窓はいつも開かれています。
心に留めたいこと
- 「ずる賢いヤコブ」の背後には、レッテルのように背負わされた名前、傷ついた家族、そして祝福を失ったと思い込んでひとり旅立つ人がいます。
- 神は、あなたが言葉にできないうめきを聞いておられます。それをそのまま受け取り、あなた自身よりもよく理解してくださいます。
- ベテルのはしごは天から地へ降りてきます。私たちが神のもとへ登るのではなく、神のほうから来てくださるのです。それは、人となられた神、イエスを指し示しています。
- 「わたしはあなたと共にいる」という約束は、あらゆる試練を取り去るわけではありませんが、孤独を終わらせ、揺らぐことのない平安を与えます。
- 神を覆い隠すのは、ときに私たちが求める解決です。いちばん尊いのは正しい答えではなく、インマヌエル、私たちと共におられる神です。
個人への問いかけ
- あなたに貼られたレッテル、名前、役割で、今も自分の見方に重くのしかかっているものはありますか。
- 人にも神にも言えないまま、どんなうめきを抱えていますか。よい言葉を探さずに、そのまま神にゆだねることができますか。
- どんな状況で「自業自得だ」と思い、神はもう自分に届かないと考えてしまっていますか。
- あなたの困難について、あらかじめどんな解決を決めてしまっていますか。それを神にゆだね、まず神の臨在を求めるとしたら、何が変わるでしょうか。
- 今日のあなたの「冷たい石」はどこにありますか。それはどのようにして、「主はこの所におられる」と言える場所、ベテルになりうるでしょうか。
引用された聖句
よくある質問
創世記28章のヤコブのはしごは何を意味しますか。
説教者によれば、このはしごは天から始まり、地へと降りてきます。人は自分の力で神のところまで登ることはできませんが、神が人のもとへ降りてきて、関係を回復してくださいます。それは、私たちが神との交わりを持てるように人となられた神、イエス・キリストを表しています。
ヤコブはなぜこの場所をベテルと名づけたのですか。
ベテルは「神の家」という意味です。目を覚ましたヤコブは、自分が見捨てられたと思っていたその場所に、主がおられたことを悟ります。彼は枕にしていた石を立て、油を注ぎ、その場所をベテルと名づけます。説教者はそこに、神の国をもたらし、自らを門と呼ばれたイエスの姿を見ています。
見捨てられたと感じている人に、創世記28章は何を語りますか。
ヤコブはひとり、後ろめたさを抱え、祝福を失ったと思い込んで旅立ちます。その夜のただ中で、神は彼のそばに来て、「わたしはあなたと共にいて、あなたを守る」と約束されます。神は、言葉にできないうめきさえも聞いてくださり、その臨在は困難のただ中でも揺るがない平安を与えます。
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