イエス、いのちの門であり良い羊飼い

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序論

ヨハネ10章で、イエスは生まれつきの盲人を癒やされた直後、9章から始まった会話を続けられます。この奇跡を目撃した宗教指導者たちは、なおも不信仰にとどまることを選びました。イエスは彼らに、そしてイエスを取り囲むすべての人々に、この驚くべき言葉を語られます。「わたしは門である」、「わたしは良い羊飼いである」と。

聖書の言葉は、決して唐突に語られたものではありません。そこには文脈があり、著者があり、宛先があります。一つの節だけを切り取って、自分の望む意味に引き寄せることは危険です。詩篇14篇の半分だけを取り出せば、「神はいない」と読めてしまいますが、節全体はこう言っています。「愚か者は心の中で、神はいない、と言う。」文脈がすべてを変えるのです。ヨハネ10章はヨハネ9章の直接の続きです。ですから説教者は、イエスに心を閉ざした宗教的なまなざしと、心を開かれたあの盲人の姿を心に留めながら、この章を読むよう私たちを招いています。

この説教は、三つの段階からなる道をあなたに示します。羊飼いと羊の囲いのたとえに耳を傾けること、この門であり羊飼いである方が誰であるかを理解すること、そして最後に、あなた自身がその声を聞き分けているかどうかを自問することです。

説教の構成

1.羊飼いと羊の囲いのたとえ(ヨハネ10:1〜6)

イエスは、ユダヤ人の聴衆であれば誰でも理解できるイメージから語り始められます。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。」(ヨハネ10:1〜5)真の羊飼いは門を通って入ります。門番は彼のために門を開けます。羊たちはその声を聞き分けます。羊飼いは羊たち一頭一頭を名前で呼び、牧草地へと連れ出します。

当時、複数の羊飼いたちは夜の間、自分たちの群れを一つの囲いの中に一緒に入れていました。門番が見張りをしていました。朝になると、それぞれの羊飼いが自分の羊を迎えに来て、門番に挨拶をし、自分の羊を一頭ずつ呼びました。たとえ複数の羊が同じ名前を持っていても、羊たちが間違えることはありませんでした。それぞれが、自分の主人の声の響きを聞き分けていたからです。見知らぬ者からは、羊たちは逃げていきました。

イエスはここでいったん語るのをやめられます。聞いていた人々は理解できません。6節ははっきりとこう言っています。「イエスは彼らにこのたとえを話されたが、彼らは、イエスが何を話しておられるのか分からなかった。」それも当然です。イエスのたとえ話は、いつも物事を分かりやすくするためのものではありません。むしろ多くの場合、「それはどういう意味だろうか」という問いを引き起こすためのものです。肩をすくめて立ち去る者は、それ以上先には進みません。しかし、説明を求めて戻って来る者は、光を受け取るのです。

2.「わたしは門である」(ヨハネ10:7〜10)

7節から10節で、イエスはこう説明されます。「わたしは羊の門です。……わたしを通って入る者は誰でも救われます。その人は、入ったり出たりして、牧草を見つけます。」(ヨハネ10:7〜10)

その門とは、イエスご自身です。イエス・キリストを通してでなければ、羊たちに近づくことも、神の群れに入ることもできません。それに反すると主張して、壁を乗り越えて入ろうとする者は誰でも、盗人です。イエスより前に、あるいはイエスと並んで、イエスなしに魂の導き手を自任してきた者たち、当時の宗教指導者たちを含めて、彼らは民を神との関係から切り離してしまいます。彼らは、自分でも気づかないままに、盗み、殺し、滅ぼしているのです。

それとは逆に、イエスを通って入る者は救われます。その人は平安のうちに出入りします。その人は牧草を見つけます。牧草とは、あなたに必要なすべてのものです。もちろん物質的に必要なものも含まれますが、何よりも霊的に必要なもの、すなわち愛、忍耐、親切、赦す力、信仰における忍耐です。出て行くことは、また戻って来ることをも意味します。羊の囲いに入るとは、安全と、守りと、休息を見出すことです。

そして10節の結びは決定的です。「わたしが来たのは、羊がいのちを得るため、しかも豊かに得るためです。」盗人は盗み、殺し、滅ぼそうとします。しかしイエスは、あなたがいのちを持ち、それを保つことができるようにと願っておられます。イエスは、ただいのちを与えるだけでなく、それを保つ力をも与えてくださるのです。

3.「わたしは良い羊飼いである」(ヨハネ10:11〜15)

続いてイエスはこう言われます。「わたしは良い羊飼いです。良い羊飼いは羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11〜15)雇い人は、羊が自分のものではないため、狼を見ると逃げてしまいます。しかし真の羊飼いはそうではありません。羊飼いは自分の羊を知っています。羊たちも羊飼いを知っています。そして羊飼いは羊たちのためにいのちを捨てるのです。

地域によっては、羊の囲いに実際の門がないところもありました。羊飼いは夜になると、その入り口に自ら横たわりました。羊飼いの体そのものが門となったのです。もし狼が来れば、まず最初にその羊飼いと対決しなければなりませんでした。だからこそイエスは、「わたしは門である」と「わたしは良い羊飼いである」の両方を語ることができるのです。イエスは、守る者であると同時に、あなたが通って入る通路でもあられるのです。

イエスはあなたを名前で知っておられます。あなた自身がまだ理解していない自分の弱さや、心の中の陰の部分さえも知っておられます。そしてイエスは、あなたをそのように知り尽くした上で、十字架へと向かわれたのです。いつの日か、あなたがイエスの御前に立つとき、イエスはあなたの名前を呼んでくださいます。何千頭もの羊の中から自分の羊を見分ける羊飼いのようにです。

4.ただ一つの群れ、ただ一人の羊飼い(ヨハネ10:16〜18)

「わたしには、この囲いに属さないほかの羊もいます。わたしは、その羊たちも導かなければなりません。彼らもわたしの声を聞き分けます。そして、一つの群れ、一人の羊飼いとなります。」(ヨハネ10:16〜18)

イエスがまず語っておられる羊の囲いとは、ユダヤの民のことです。ほかの羊とは、諸国の民のことです。神のご計画は民族に限定されたものではありません。それは、その声を聞くすべての人を包み込みます。キリストにあって、ユダヤ人と異邦人を隔てる壁は取り除かれます。男であれ女であれ、若者であれ老人であれ、どんな時代であれ、キリストにあっては、もはや隔ての壁は存在しないのです。

そしてイエスは、前代未聞のことを宣言されます。「誰もわたしからいのちを取り去るのではありません。わたしが自分からそれを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。」イエスの死は、受け身の敗北ではありません。それは権威ある行為です。「誰がイエスを殺したのか」という歴史的な問いは、何世紀にもわたるユダヤ人迫害の口実に使われてきましたが、それは空しい問いです。誰もイエスからいのちを奪ったのではありません。イエスは、父への従順から、ご自分の意志でそれを差し出されたのです。十字架の上で、イエスはこう言われました。「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」これは贈り物です。そしてイエスの復活とは、ご自分が差し出されたいのちを、再び得られるというまさにその同じ権威の現れなのです。

あなたの魂のために、ほかの誰もこのようなことはできません。どんな偶像も、あなたが憧れるどんな人物も、どんな人間的な英雄も、あなたの永遠のいのちの代価を払う力を持っていません。しかしイエスは、それをなさったのです。

5.聞いていた人々の間に生じた分裂(ヨハネ10:19〜21)

19節から21節で、ユダヤ人たちは意見が分かれます。ある者たちは言います。「あの人は悪霊につかれて気が狂っている。なぜあの人の言うことを聞くのか。」ほかの者たちはこう答えます。「それは悪霊につかれた者の言葉ではない。悪霊が盲人の目を開けることができるだろうか。」(ヨハネ10:19〜21)

信じることを拒む者たちは、追い詰められています。奇跡という明白な証拠を前にして、彼らはイエスを退けるための理由を作り出さなければなりません。そこで彼らは、イエスが悪霊につかれていると非難します。これは、生き方を変えたくない者にとっての、最後の逃げ道です。それとは逆に、事実を正面から見つめようとする者たちは、神が働いておられることを認めます。信仰は、聞くことから始まるのです(ローマ10:17)。

6.「わたしの羊はわたしの声を聞く」(ヨハネ10:22〜30)

場面は変わります。舞台はエルサレム、冬、神殿の清めを記念する宮きよめの祭り(現在のハヌカ)の最中です。ユダヤ人たちはイエスを取り囲み、詰め寄ります。「いつまで私たちの心を疑いのうちに置いておくのですか。あなたがキリストなら、はっきりとおっしゃってください。」(ヨハネ10:22〜30)

イエスはこう答えられます。すでにあなたがたに言ったとおり、わたしの父の名によって行うわざが、わたしについて証ししています。「あなたがたが信じないのは、あなたがたがわたしの羊ではないからです。わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従って来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、誰もわたしの手から彼らを奪い去ることはありません。」

人間の側からすれば、自分がイエスの羊であるかどうかを、あらかじめ知ることはできません。それが分かるのは、信じるときです。その声に応答するその日に、神があなたを選んでおられたことを知るのです。何年もの間、頑なにイエスを拒み続け、人生の終わりにようやくイエスを受け入れる人もいます。そのとき私たちは理解します。神は、初めからその人の救いを望んでおられたのだと。神の選びとあなたの信仰の間には、何の矛盾もありません。両方とも、それぞれが百パーセント真実なのです。

7.日々イエスに従うこと

そこで、問いはあなた自身の問題になります。あなたはこの羊飼いに従っていますか。ルカ9:23でイエスはこう言われます。「誰でもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従いなさい。」

自分を捨てるとは、自分を憎むことではありません。それは、パウロが「肉」と呼ぶもの、すなわち生まれながらに神に従うことを拒む、あなたの中にある部分を脇に置くことです。「肉の思いは神に対して敵対するものです。それは神の律法に従わないからです。否、従うことができないのです。」(ローマ8:7)

あなたがこの体の中に生きている限り、肉はそこにあります。あなたは自分の意志の力でそれを取り除くことはできません。肉は肉を滅ぼすことができないのです。しかし「もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます」(ローマ8:13)。クリスチャンの日々の務めは、もっと頑張ることではありません。それは、御霊にこう願うことです。「助けてください。私の中にある、神を求めないものを死なせてください。」

それは能力の問題ではなく、願いの問題です。あなたはどれほどイエスに従いたいと願っていますか。どれほどイエスに助けてほしいと願っていますか。これは、イエスの愛を知れば知るほど大きくなっていきます。イエスの恵みを味わえば味わうほど、従うことは重荷でなくなっていきます。それは、好きなスポーツに似ています。外から見れば練習はきついものに見えますが、それを愛する人は時間を数えたりしません。神との関係が本物になるとき、神と共に歩むことはもう一つの余分な努力ではなく、自然と芽生えてくる願いになるのです。

そして助けは、多くの場合、あなたが実際に一歩を踏み出したその瞬間に訪れます。モーセは、杖を上げた後に海が開かれるのを見ました。契約の箱を担いだ祭司たちは、足を水に浸したその後になって、ヨルダン川が退くのを見ました(ヨシュア記3章)。まず一歩を踏み出す必要があります。そうすれば、神が働かれるのを目にすることになるのです。

心に留めたいポイント

  • イエスはです。救いにも、群れにも、父にも、イエスを通してでなければ到達できません。
  • イエスは良い羊飼いです。あなたを名前で知っており、あなたのためにいのちを捨ててくださいました。
  • イエスが来られたのは、あなたが単なる宗教的な延命ではなく、豊かないのちを持つためです。
  • 盗人とは、キリストを通さずに魂を導こうとする者たちのことです。
  • イエスに従うことは、何よりもまず功績を積むことではなく、受け取った愛と共に育っていく願いです。

自分への適用

  1. 私は今日、自分の人生の中でイエスの声を聞き分けているでしょうか。それはどんなことにおいてでしょうか。
  2. 伝統や、世間の意見や、文化的な偶像といった「ほかの声」が、イエスに代わって私を導こうとしていないでしょうか。
  3. 私は、イエスが私の名前を知った上で、私のためにいのちを捨ててくださったことを、本当に信じているでしょうか。
  4. 肉が従うことを拒み、もはや御霊にゆだねる勇気を失っている領域が、私にはないでしょうか。
  5. 海が開かれるのを見る前に、今週、神は私にどんな「最初の一歩」を求めておられるでしょうか。

引用聖句

FAQ

物事を明確にするためでないなら、イエスはなぜたとえ話を用いられるのでしょうか

イエスのたとえ話は、多くの場合、既成の答えを与えるためではなく、問いを引き起こすためのものです。それは、無関心のまま立ち去る者と、「説明してください」と言ってイエスのもとに戻って来る者とをふるい分けます。光を受け取るのは、このへりくだった姿勢なのです。

「門から入る」とは、具体的にどういう意味でしょうか

それは、イエス・キリストを通して神のもとに来ること、イエスがあなたのために死んでよみがえられたメシアであると信じること、そしてイエスに導かれるままになることを意味します。それ以外のどんな道、すなわち宗教、個人の道徳、代替的な霊性であっても、イエスが差し出しておられる救いを見失うことになります。

神が自分の羊を選ばれるのなら、私の決断にはどんな意味があるのでしょうか

この二つは一つに重なり合います。神の選びは完全であり、あなたの信仰による応答もまた完全です。あなたは「自分が選ばれているかどうか」をあらかじめ知ることはできません。それは、信じることによって発見するものです。あなたがイエスに「はい」と答えるその日、イエスがずっと前からあなたを備えていてくださったことを理解するのです。

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