はじめに
パウロがコリントに到着したとき(使徒18章)、彼は、商業と港、そして人目を引く街並みで知られる、豪奢な町に足を踏み入れました。残念ながら、住民たちの乱れた生活、偶像礼拝、異教の礼拝でも知られる町でした。すべてが未開拓で、すべてがこれからでした。使徒パウロはそこに腰を落ち着け、アクラとプリスキラのもとで天幕作りの仕事を手で行いながら、安息日ごとに会堂でユダヤ人とギリシア人に、イエスがキリストであることを説得していきました。
この記事の中でマキシム・ドエイ師の心を打つのは、パウロの戦略ではありません。それは、パウロの心の姿勢です。コリント第一9:18〜19で、使徒はこう書いています。「では、私の報酬とは何でしょうか。それは、福音を宣べ伝えるとき、それを無代価で提供し、福音のゆえに私が持っている権利を用いないことです。私はだれに対しても自由な者ですが、できるだけ多くの人を獲得するために、自分をすべての人の奴隷としました。」
みことばは、私たちがどのような立場で仕えるかよりも、どのように仕えるかを重んじるようにと勧めています。神の前で違いを生むのは、奉仕の重要度でも、その地位でもありません。心の姿勢なのです。そして、パウロにおいて、この姿勢は三つの基本的な軸を中心に成り立っています。
メッセージの構成
1. ともに仕えようとする心
- 「彼はアクラという名のユダヤ人を見つけた……その妻プリスキラとともに」(使徒18:2)。パウロはコリントに到着しますが、一人ではありません。神は、私たちを一人だけで仕えるようにと召してはおられないのです。
- みことばの中では、男性も女性も、ともに仕えています。単独で仕える例はごくわずかです。エレミヤでさえ、書記のバルクを伴っていました。
- モーセは、民を導く自分の力が試されていることに気づきました。神はアロンを用いてパロに語らせ、その後、七十人の長老を与えて、モーセとともにその重荷を負わせられました(民数記11:16)。神は、私たちが目の前のことに没頭しすぎて燃え尽きかけていることも、見抜いておられるのです。
- イエスご自身も、洗礼と荒野での誘惑のすぐ後に、弟子たちを選ばれました。ダビデも人々に囲まれていました。パウロも、宣教旅行の中で人々に囲まれていました。人は決して一人ではありません。私たちは一つのからだを形作っているのです。
- コリント第一12章はこれを思い起こさせます。「からだは一つの部分ではなく、多くの部分から成っています」(14節)、「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです」(26節)。
- あのロックダウンの間でさえ、天から見れば私たちはそれぞれの家の中で一人ひとりでしたが、からだが機能することをやめることはありませんでした。兄弟姉妹の交わり、とりなしの祈り、祈りのチェーン。神は、最初には想像もしなかったような方法で、私たちがともに仕えることを可能にしてくださったのです。
2. キリストのために全き心をささげ、キリストに栄光を帰する心
- 「パウロはみことばを語ることに専念し、イエスがキリストであることをユダヤ人たちにあかしした」(使徒18:5)。パウロは、豪奢な町の真ん中に、一人の職人のような姿でやって来ますが、神の御霊は、彼の奉仕を通して働いておられます。
- 御霊に迫られてみことばを語るとき、パウロは自分自身を丸ごとささげます。それは全面的な献身です。快適さは一切ありません。人間的に考えれば、「この町は君の格に合わない」と言いたくなるところです。それでも、全面的な献身なのです。
- 私たちの奉仕がどのようなものであれ、コリントであれ、ナントであれ、青年グループであれ、聖書研究会であれ、賛美の練習であれ、私たちの家族であれ、まだイエスのもとに来ていない隣人であれ、それは全面的な献身を求めます。
- 「最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実です」(ルカ16:10)。神が私たちに仕える心を与えてくださるとき、私たちは最も小さな細部に至るまで、すべてをささげなければなりません。それが、犠牲という概念であり、キリストへの熱心さなのです。
- キリストを中心に仕えるということは、キリストが大きくなるために、絶えず自分自身を小さくしていくことを意味します。「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません」(ヨハネ3:30、バプテスマのヨハネの言葉)。私たちがイエスに場所を明け渡せば明け渡すほど、神のための私たちの働きはより効果的なものとなります。
- 神のみことばに、その本来の場所を取り戻させなければなりません。十字架のメッセージを含まない、罪について教えない、キリストを中心としていない説教やメッセージが、どれほど多いことでしょうか。みことばの説教と教えにふさわしい場所を与えない、いかなる地域教会も、いかなるリバイバル運動も、弱さと非効率さに定められてしまいます。
- パウロはこう思い起こさせます。「神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び……力ある者をはずかしめるために、世の弱い者を選ばれました……それは、だれも神の前で誇ることのないようにするためです」(コリント第一1:27〜29)。
3. 隣人に向けられた心
- 「私は、すべての人の奴隷となりました」(コリント第一9:19)。隣人への愛なしに奉仕に身を投じることは、愚かなことであり、自らを滅ぼす行為です。
- これは、パウロがコリントの人々に語った中心的な教えの一つです。賜物を受けていた彼らに対して、パウロは、愛のない賜物は何の価値もないことを思い起こさせます。「愛は決して絶えることがありません。預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれます……しかし、愛はいつまでも絶えることがありません」(コリント第一13:8)。
- 私たちは、主の命令「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」を、どう実践しているでしょうか。パウロはコリントの人々を愛していました。手紙の中では厳しい言葉を用いることもあり、彼らを戒めもしましたが、それは愛をもってのことでした。
- パウロは、自分がどこから来たかを知っていました。殺意と血に飢えていたパリサイ人であり、最も厳格な宗教的セクトの出身であった彼に、ある日ダマスコへの道で、イエスは愛とあわれみのまなざしを注いでくださったのです。
- 「これは、私たちの救い主である神の御前で良いことであり、喜ばれることです。神はすべての人が救われて、真理の知識に達することを望んでおられます」(テモテ第一2:3〜4)。
- イエスは取税人や身持ちの悪い人々と食事をともにされましたが、罪を容認されたことは一度もありません。それでも彼らを愛されました。パウロもコリントの人々の罪を容認したわけではありませんが、コリントにとどまり、コリントの人々を愛しました。私たちも、時にジャングルのような労働の世界に身を置きながら、世の考え方に飲み込まれるのではなく、隣人を愛さなければなりません。
覚えておきたいポイント
- 神の前では、奉仕の重要度も地位も問題ではありません。大切なのは、心の姿勢です。
- 一人で仕えることはできません。神は、私たちを一つのからだとして、ともに苦しみ、ともに喜ぶようにと召してくださいました。
- キリストのための全き心は、最も小さな細部にまでささげられます。小さなことにおける忠実さが、大きなことにおける忠実さへの道を開くのです。
- みことばと十字架のメッセージに中心的な場所を与えなくなった教会や奉仕は、どれも弱さに定められてしまいます。
- 仕えるときに隣人を愛することは、付け足しの選択肢ではありません。愛のない奉仕は、ただの愚行にすぎないのです。
個人への適用
- 今日、私はどのような心の姿勢で、イエスのために、自分の教会のために、兄弟姉妹のために、自分を差し出しているだろうか。
- 私は一人で仕えようとしていないだろうか、それとも、神が自分のかたわらに置いてくださる兄弟姉妹たちを、彼らが持っていて私が持っていない賜物とともに受け入れているだろうか。
- 私の奉仕の、どの「小さな細部」において、神は今、快適さを求めることなく全面的な献身をするようにと私を招いておられるだろうか。
- 私は、みことばと十字架を、自分の人生の中で、自分が聞くものの中で、自分が伝えるものの中で、中心的な場所に置き続けているだろうか。
- 私の周りに、評判や生き方によって私が判断してしまった人々がいて、神が、イエスがダマスコへの道でパウロを愛されたように、あわれみの愛をもって愛するようにと私に勧めておられる人はいないだろうか。
引用聖句
- 使徒18:1〜5
- コリント第一9:18〜19
- 使徒20:34〜35
- 民数記11:16〜17
- コリント第一12:14、26
- コリント第一13:8
- コリント第一1:27〜29
- ヨハネ3:30
- ルカ16:10
- テモテ第一2:3〜4
よくある質問
パウロが示す「仕えるための心」とは、どのようなものですか。
それは、他の人々とともに仕えることを受け入れ、キリストの栄光のためにキリストを中心とし続け、愛をもって隣人に向けられている心です。この三つの姿勢は、コリントにおけるパウロの働き(使徒18章)と、コリント第一9:18〜19における彼の教えの中に浮かび上がっています。
なぜ、たった一人で神に仕えることはできないのですか。
それは、神が私たちを一つのからだとして召してくださったからです。パウロはコリントに到着すると、アクラとプリスキラに加わりました。モーセは、民の重荷を負うために七十人の長老を与えられました。イエスご自身も、弟子たちに囲まれていました。一人で仕えようとすることは、燃え尽きと道を誤ることにつながります。
仕えるときに、自分が評価できない人々をどう愛せばよいのですか。
主があなたをどこから捜し出してくださったかを思い出すことによってです。パウロは、コリントの人々の乱れた生活にもかかわらず彼らを愛しました。それは、教会を迫害していた自分をイエスがダマスコへの道でご自分から見出してくださったことを知っていたからです。主はすべての人が救われることを望んでおられます(テモテ第一2:4)。あなたの奉仕を導くべきなのは、まさにこの愛なのです。
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