はじめに
このメッセージで、福岡の油山シャローム教会の牧師である横田法路師は、木曜日の祈祷会の新しいシリーズを始めます。毎週、教会でともに使徒行伝を読み進めていきます。使徒行伝1章1-8節で、メッセージの題は「待ち望む教会」の一言に尽きます。
今年は、この教会にとって一つの節目の年です。新しい会堂が与えられたばかりだからです。訪れる人々は会堂の美しさや、窓から見える景色に感嘆します。牧師もそれを喜びますが、すぐに、大切なのは建物ではなく、その中にあるものだと語ります。
この箇所の中心として牧師が取り上げるのは、「待ちなさい」という、一言に要約されるイエスの命令です。よみがえられた主は、弟子たちが伝えたくてたまらなかったはずなのに、なぜ待つように言われたのでしょうか。そして、この「待つ」ことは、なぜ今日の教会にも関わっているのでしょうか。
メッセージの流れ
1. 新しい会堂、しかし教会とは信じる人々のこと
- 「教会とは建物のことではありません。」イエスを信じる人々の集まりであり、そこにいる一人ひとりのことです。そして、イエスは今もこの教会を通して、世界の中で働いておられます。
- この教会は、どのように神の栄光を現していくのでしょうか。それを知るために、牧師は初代教会の時代をもう一度読み直すことを勧めます。
- 「教会は問題のない世界ではありません。」困難は、外からは迫害として、内からは分裂としてやってきます。そのたびに教会は混乱の時を通り、それを乗り越え、宣教が前進していきました。
- 福音は、エルサレムからユダヤ、サマリヤ、そして当時の世界の中心であったローマへと進んでいきます。使徒行伝は、その前進の記録であり、その福音はやがて日本にまで届きました。
- この書を読み返すことは慰めになります。今日の戦いや壁は、決して新しいものではないからです。また、そうしたときに教会が何を選んだのか、そしてそれ以上に、聖霊がどのように教会を導き、形づくり、備え、用いられたのかも教えてくれます。
2. 聖霊、使徒行伝に隠れた主人公
- 前の日曜日、教会はこのみ言葉を受け取りました。「権勢によらず、能力によらず、わが霊によるのである」(ゼカリヤ書4章6節)。牧師にとって、これは信仰生活の鍵であり、大きな山を平地に変える鍵です。
- ペテロやパウロたちは、自らの失敗や痛みを伴う経験を通して、これを学びました。
- 「人間はすぐに自分の力に頼ろうとします。」私たちには大した力はないのに、わずかな経験やわずかな能力にしがみつきます。それがなくなると、不安や恐れがやってきます。
- この書は「聖霊行伝」と呼ばれることもあります。前面に立つのはペテロやパウロですが、隠れた主人公は聖霊です。聖霊が導き、力を与え、困難のただ中で宣教を前に進めてくださるのです。
- 韓国のある教会は、「使徒行伝29章」の教会となることをビジョンとしています。この書は28章で終わりますが、その物語は今日の教会の中で続いています。使徒行伝を過去の物語として読むだけでは足りません。聖霊は今も、あなたの人生と教会の中で、同じように働いておられるからです。
- 日本の宣教には壁があります。「しかし、聖霊が働かれるなら、その壁は崩れます。」牧師は、自分の教会がそれを信じ、さらにそれを見ることを期待してほしいと願っています。
3. イエスは生きておられる、信仰の土台
- テオピロに宛てた「前の書」(使徒行伝1章1節)は、ルカによる福音書です。二つの書は同じ著者によるもので、上巻と下巻のようなものです。福音書はイエスの働きを記し、使徒行伝は教会がどのように始まったかを記しています。
- つまり、イエスの働きは福音書で終わったのではありません。教会を通して、私たちを通して続いているのです。
- イエスは苦しみを受けた後、四十日にわたって、多くの確かな証拠をもって、生きておられる姿を現されました(使徒行伝1章3節)。一か月以上というのは、短い時間ではありません。この四十日間のメッセージは、一言に尽きます。イエスは生きておられる。何度も示されたのは、それが本質的に大切だからです。
- キリスト者でない多くの人も、イエスが偉大な人物であったことは認めています。牧師は、キリスト教を根本から批判したことで知られるニーチェが、それでもイエスの生き方を愛していたと語ったことを紹介します。苦しむ人や弱い人に寄り添い、自分を苦しめる者を赦し、権力による抑圧に抵抗された生き方です。
- では、キリスト教信仰との違いはどこにあるのでしょうか。「イエスは過去の人物ではありません。」十字架で死なれましたが、よみがえり、今も生きておられます。これが信仰の土台です。
- イエスは生きておられるので、今も私たちに語りかけ、導き、守り、支えてくださいます。「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも、変ることがない」(ヘブル人への手紙13章8節)。これが私たちの喜びと希望の源です。
4. たった一つの命令、「待ちなさい」
- イエスは弟子たちに、エルサレムを離れず、父が約束されたものを待つように命じられます。彼らは聖霊によってバプテスマを受けるからです(使徒行伝1章4-5節)。一言で言えば、「待ちなさい」ということです。
- 父の約束とは、聖霊が来られることです。
- イエスは時や時期を教えるのではなく、力を約束されます。「あなたがたは力を受けて、……わたしの証人となるであろう」(使徒行伝1章8節)。証人になるとは、イエス・キリストについて証しできる人になることです。
- この前進は決して容易なものではありません。迫害、内部の分裂、あらゆる試練があります。それらを通り抜けるには、力が必要です。人間の権勢や能力による力ではなく、聖霊が与えてくださる、「上から来る力」です。
- ルカによる福音書24章49節も同じことを語っています。いと高き所から力を授けられるまで、都にとどまっていなさい。勉強したり、何かを積み上げたりして、「下から」自分の中に力を築くことではありません。必要なのは、上からの力を着せられることです。そのとき初めて、主の証人となることができます。
5. 出て行きたいのに、なぜ待つのか
- 弟子たちは、よみがえられたイエスに出会いました。牧師は彼らの喜びを思い描きます。「イエスは生きておられる。語っておられたとおりの方だった。」家族にも、親しい人にも、友人にも、早く伝えたくてたまらなかったことでしょう。
- それでもイエスは、待つように言われます。喜びは大切であり、出て行こうとする勢いも大切です。しかし、混乱や反対や疲れが来たときにも証人として歩み続けるためには、一時的な感情だけでは福音を伝えるのに足りません。
- 「待つとは、ただじっとしていることではありません。」待つとは、祈り、望むことです。聖霊に満たされることを求めることです。2章で聖霊が降り、すばらしいことが起こります。
6. 待つことは、教会の全生涯の姿勢
- ペンテコステに聖霊が来られた後、教会はもう待つ必要がないのでしょうか。牧師は、そうではないと答えます。イエスはなぜ、弟子たちをすぐに送り出さず、この待つ時間を備えられたのでしょうか。
- それは、待つことが聖霊の到来だけに結びついていたのではなく、教会の根本的な信仰の姿勢となるべきものだったからです。この期間は、それを身につけるための訓練でした。
- ペンテコステの後、この書は聖霊に満たされることを語ります。そして、それは何度も何度も受けるものです。「御霊に満たされなさい」(エペソ人への手紙5章18節)とは、満たされ続けなさいという意味です。一度経験すれば十分というものではありません。毎日満たされる必要があり、そのために毎日祈り、待つ必要があります。
- 待たなければ、自分の力で、自分の考えで、あるいは単なる習慣で動いてしまいます。祈って待つとき、神に頼る生き方が始まります。教会の女性たちも、ちょうど「神を待ち望む」というテーマで学びを続けています。牧師は、聖霊に頼ることと神を待ち望むことは「同じコインの表と裏」だと語ります。
- 牧師はこれを自分の教会に当てはめます。伝道集会が準備されており、それはとても良いことですが、神を待ち望まなければ、ただ「行事をこなしていく」ことになってしまいます。近づいている九州聖会も同じです。「毎年あるものだから」と思ってしまえば、大切なものを逃してしまいます。
- 「朝、あなたは神を待ち望んでいますか。」一日を、主を待ち望むことから始める。それが御霊によって歩むということです。聖会の前も、伝道集会の前も、日曜日の礼拝の前も、福音を伝えに出て行くたびに、まず神を待ち望み、上からの力を着せられ、それから出て行きます。そのとき、壁だと思っていたものに穴が開けられるのです。
心に留めたいポイント
- 教会は建物ではありません。信じる者たちの集まりであり、イエスは今もその教会を通して働いておられます。
- 使徒行伝に隠れた主人公は聖霊です。権勢によらず、能力によらず、神の霊によるのです。
- イエスは生きておられます。四十日間、何度もそれを示されました。これが信仰の土台です。
- 長く証人であり続けるには、その場限りの勢いでは足りません。上から来る力が必要です。
- 待つとは、ペンテコステの前だけでなく、毎日祈り、望むことです。それは教会全体の信仰の姿勢です。
個人の適用
- 困難が来たとき、あなたは思わず何に頼りますか。自分の経験、自分の能力、それとも聖霊でしょうか。
- 使徒行伝を過去の物語として読んでいますか。それとも、聖霊が今もあなたの教会の中でなさることの記録として読んでいますか。
- 今日、あなたの生活や周りの人々の中で、越えられないと感じる壁は何ですか。
- 奉仕や教会の活動の中で、「行事をこなしている」と感じることはありませんか。どこで、もう一度神を待ち望む時間を取り戻す必要がありますか。
- 明日の朝、主を待ち望むことから一日を始め、一日の終わりに主の前でそれを振り返るには、どうすればよいでしょうか。
引用された聖句
よくある質問
イエスはなぜ、証しをする前に弟子たちに待つよう言われたのですか。
弟子たちはよみがえられた主に出会い、そのことを語りたくてたまりませんでした。しかし、迫害や分裂や疲れのただ中で証人であり続けるには、その場限りの喜びや勢いでは足りません。彼らには上から来る力、すなわち聖霊の力が必要でした。横田法路師によれば、この待つ時間は訓練でもあり、その後も教会が持ち続けるべき信仰の姿勢を、教会の中に据えるものでした。
横田法路師によれば、使徒行伝1章でいう「待つ」とはどういう意味ですか。
待つとは、何もしないでいることではありません。希望をもって祈り、神を待ち望み、聖霊に満たされることを求めることです。牧師は、この待つことはペンテコステで終わるのではなく、聖霊に頼って生きることと、神を待ち望んで生きることは、同じコインの表と裏だと付け加えます。
「使徒行伝29章」という考え方とは何ですか。
使徒行伝は28章まであります。横田法路師は、「使徒行伝29章」の教会となることをビジョンとする韓国のある教会に触れます。物語は28章で閉じるのではなく、今日の教会の中で続いているのです。ですから、使徒行伝を単なる過去の物語として読むだけでは足りません。聖霊は今も同じように働いておられるからです。