はじめに
前日、大阪オンヌリキリスト教会の早天礼拝では、ダビデの罪、イスラエルの人口調査(歴代誌上21章1~8節)についてのメッセージが語られました。10月9日(金)は、その続きの9節から17節です。民に下る罰と、主の使いの前でささげられたダビデの祈りが、オルナンの打ち場の近くで描かれます。
説教者は二つの言葉に目を留めます。一つは17節の「悪をおこなったのはわたしです」。もう一つは13節の「主のあわれみはきわめて大きい」です。この二つの間には、私たちにも関わる問いがあります。どの道も容易ではなく、どうすればよいのか分からなくなったとき、私たちはどうすればよいのでしょうか。
説教者の答えは、一つの確信に集約されます。神は罪を罰する正しい神であり、同時に深くあわれみ深い神です。何が起きても、あなたは神のみ手の中にいます。
メッセージの流れ
1. 背景:歴代誌の記者が隠さなかった罪
- 17章で神がダビデと結ばれた契約、すなわち彼の王国を永遠に堅く立てるという約束は、おそらく歴代誌上でもっとも重要な箇所です。続く18章から20章では、その祝福が具体的に実現していく様子が描かれます。ダビデは周辺の国々に対して勝利を重ねていきます。
- しかし勝利を重ねるうちに、ダビデは次第に高ぶり、神を忘れていきます。霊的な見張りがゆるんでいったのです。そのときに、人口調査という大きな罪を犯してしまいます。
- 歴代誌の記者は、一般にエズラだと考えられています。彼はダビデをとても好意的に描いており、バテ・シェバの事件にまで触れていません。それでも、人口調査の罪ははっきりと記しています。なぜでしょうか。この出来事が、のちに神殿が建てられる場所を定めることにつながるからです。
- 「人が罪を犯したときでさえ、神はそれを御計画の中で大きなことに変えることができます。それが神です。」これは、バビロン捕囚から帰還した民に、記者が伝えたかったメッセージです。
- この箇所は二つに分かれます。9節から13節(神が示された三つの災いとダビデの答え)と、14節から17節(さばきとダビデのとりなしの祈り)です。
2. 赦された罪と、その結果
- 前の箇所の終わりで、ダビデは心の底から悔い改めて祈りました。それなのに、10節と11節で、神は預言者ガドを通して厳しいさばきを告げられます。
- では、神は赦してくださらなかったのでしょうか。いいえ、ダビデが悔い改めたとき、神は彼の罪を赦されました。けれども、赦された罪であっても、負わなければならない結果が残ることがあります。
- 説教者は、飲酒運転で捕まった人を例に挙げました。その人が神に正直に罪を告白し、心から悔い改めるなら、どんな罪であっても神は赦してくださいます。しかしそれでも、罰金や数年の懲役といった刑罰は受けなければなりません。
- 12節で神は三つの選択肢を示されます。三年間の飢饉、三か月間敵の剣を逃れ続けること、あるいは三日間、主の剣と疫病が国を襲うことです。
- 三年、三か月、三日。期間が短くなるほど、激しさは増していきます。どの選択肢も軽くはなく、容易でもありません。
3. 「主のみ手に陥らせてください」
- 13節にこうあります。「わたしは非常な苦境にある。わたしを主の手に陥らせてください。主のあわれみはきわめて大きいのです。わたしを人の手に陥らせないでください。」
- ダビデはどの選択肢を選んだのでしょうか。はっきりとは述べていません。人の手に陥りたくないと願っていることから、少なくとも二つ目の、敵から逃げ続ける道は退けているように見えます。説教者は、韓国語の聖書でもこの節を確認し、同じ方向で読めると述べていました。
- しかし大切なのは別のところにあります。「主のみ手に陥らせてください」。ダビデはすべてを主にゆだねています。あなたのお心のままに、さばいてください、と。
- なぜでしょうか。主のあわれみに全面的に信頼しているからです。この節でいちばん大切なのは、三つのうちどれがよいかを見分けることではありません。ダビデが挙げた理由、「主のあわれみはきわめて大きい」ということです。これがこの箇所の中心にある確信です。
- 神は正しい方です。私たちが罪を犯すとき、神は厳しく罰し、私たちはそのさばきを受け入れなければなりません。しかし神は同時に、私たちを愛し、心にかけてくださるあわれみ深い神でもあります。だからダビデはこう言えたのです。たとえ厳しいさばきを受けるとしても、そこにあなたのあわれみがあるなら、喜んで受け入れます、と。
4. 神の正義とあわれみは共にある
- 14節で、神は三つ目の災いを送られます。わずか三日のうちに、イスラエルの七万人が死にました。国中が涙と叫びで満ちました。
- その光景を前にしたダビデの痛みは、想像に難くありません。けれども忘れてはならないことがあります。ダビデ以上に、心を痛め、悲しんでおられたのは神ご自身でした。
- 神の正義とあわれみは相反するように見えますが、実は共にあります。説教者はたとえを用いました。ある少年が罪を犯して捕らえられ、その裁判を担当する裁判官が、実の父親だったという場面です。
- この父親は裁判官として、法に従い、一切妥協することなく息子に厳しい判決を言い渡します。しかし父親としては、息子が刑に苦しむ姿を見て、どれほど胸が引き裂かれることでしょう。この場面での神のお心は、まさにそれと同じです。
- 15節で、神はご覧になり、この災いを悔いて、滅ぼす御使いに言われます。「もう十分だ。今あなたの手を引きなさい。」13節で神のあわれみにゆだねたダビデの祈りは、むだではありませんでした。この決定は、ただ神のあわれみから出たものです。そのとき主の使いは、エブス人オルナンの打ち場のそばに立っていました。
5. 「罪を犯したのはわたしです」:ダビデの祈り
- 16節で、ダビデが目を上げると、主の使いが天と地の間に立っており、抜き身の剣を手にして、それをエルサレムに向けて差し伸べていました。ダビデと長老たちは粗布をまとい、地にひれ伏しました。
- 17節。「民を数えよと命じたのはわたしではありませんか。罪を犯し、悪をおこなったのはわたしです。しかし、これらの羊が何をしたのですか。わが神、主よ、どうか、み手をわたしと、わたしの父の家に向けてください。」
- これは告白の言葉であり、悔い改めの祈りです。ダビデは神と民の間に立ち、民に代わって祈っています。ここで彼は、仲介者の役割を果たしています。
- 心を打たれるのは、彼が自分の罪を全面的に認めていることです。だれにも責任を押しつけません。罰はわたしとわたしの家族に下してください、民は何も悪いことをしていません、と祈っています。
- 歴代誌は、バビロンから帰還した民のために書かれました。この場面は、彼らに悔い改めの祈りの模範を示していました。自分の罪を正直に見つめること、そしてそれを携えて神の前に出ること。さらに、国家と信仰生活の回復は、ダビデのような祈りから始まることを教えていたのです。
6. 第一のポイント:他人のせいにするのをやめる
- ダビデの告白、「悪をおこなったのはわたしです」は、心からのものです。人口調査の件では、ほかの人々には本当に何の責任もありませんでした。この祈りは当たり前だったと言えるかもしれません。それでも説教者は、この言葉が今日、私たち自身の口から出るようにと願っています。
- アダムは善悪の知識の木の実を食べたとき、エバのせいにしました。エバは蛇のせいにしました(創世記3章12~13節)。これこそ人間の姿ではないでしょうか。
- この教会では毎週木曜日に、子どもたちを迎えて「ダニエルクラス」を開いています。子どもたちはよくけんかをし、よくおもちゃを壊します。そんなとき、自分から先に謝る子はほとんどいません。「ぼくは悪くない、あの子がやったんだ」と言って、いつもほかの子のせいにします。
- 「これが人間の姿ではないでしょうか。」説教者は、今の自分の生活に、似たところがないかどうか問い直すようにと勧めています。
- こう祈ることを提案しています。「主よ、私は気づかないうちに、このごろ人のせいにしてはいないでしょうか。もしそうなら、示してください。」そして、もし神が罪を示してくださったなら、ダビデのように祈ります。「罪を犯したのはわたしです。悪をおこなったのはわたしです。」さらに、今日から何を変えるべきかを神に尋ねましょう。
7. 第二のポイント:主のあわれみはきわめて大きい
- ダビデのとりなしは、やがて来られる主イエスを指し示しています。しかしダビデは罪人であり、不完全な人でした。仲介者の役割を完全に果たすことはできず、七万人のイスラエルの人々が命を落としました。
- それに対してイエスは、神と人との間の唯一の完全な仲介者です。「神は唯一であり、神と人との間の仲保者も、人であるキリスト・イエスただひとりなのである」(テモテへの第一の手紙2章5節)。
- そこには決定的な違いがあります。ダビデは、自分の罪が招いたさばきから民を救おうとしました。一方イエスは罪のない方でした。それでも神のさばきをすべて身に負い、十字架で死なれました。「これは天と地ほどの違いです。」イエスは「すべての人のあがないとして、ご自身をささげられた」のです(テモテへの第一の手紙2章6節)。
- ダビデは、神があわれみに富んでおられることを知っていました。けれども、そのあわれみがどこまで深いのかは、まだ知りませんでした。それはまだ示されていなかったのです。
- 私たちはダビデほど偉大ではないかもしれません。けれども彼とは違い、私たちには十字架が示されています。罪と死の奴隷となって苦しんでいたこの私を救うために、イエスはご自身をいけにえとしてささげてくださいました。私たちは、ダビデよりもよく、神がどれほどあわれみ深い方かを知っているのです。
- 神があなたに、三つの災いから選ぶようにと求められることは、おそらくないでしょう。それでも、どれも容易ではない、あるいはどれも大きな危険を伴う三つの選択肢の前に立つことはあるかもしれません。病気、家族の悩み、仕事、お金、人間関係、教会での奉仕。自分で選んだわけでもなく、どう抜け出せばよいか分からない状況に、私たちはしばしば出会います。
- そんなときには、自分がだれのみ手の中にいるのかを思い出してください。私たちはまず、問題をどう解決するかを考えます。それも大切なことです。けれども、その前にこう祈りましょう。「私はなお神のみ手の中にいます。なぜこうなったのかは分かりません。けれども神は今も私をあわれみ、愛し、心にかけてくださっています。」
- 今日一日に何が起こるのか、だれにも分かりません。予定を思い浮かべると、不安を覚えるかもしれません。それでも確かなことが一つあります。あなたはいつでも、あわれみに富む主のみ手の中にいます。説教者はこう祈ることを勧めています。「主よ、何が起こるのか分かりません。けれども、あなたが私をあわれみ、愛してくださっていると信じます。今日、私はあなたに全き信頼をおきます。」
心に留めたいこと
- 神は告白された罪を赦してくださいます。しかし赦された罪にも、負うべき結果が残ることがあります。
- 神は正しい方であると同時に、あわれみ深い方です。自分の息子をさばかなければならず、その苦しみを見て心を痛める父親のようです。
- 「悪をおこなったのはわたしです」。回復は、人のせいにするのをやめるところから始まります。
- ダビデは、唯一の完全な仲介者であるイエスを指し示しています。罪のない方が、十字架で神のさばきをすべて負ってくださいました。
- 容易な出口が見えない状況にあっても、あなたは、あわれみのきわめて大きい神のみ手の中にいることを思い出してください。
個人への問いかけ
- このごろ、自分の責任を認める代わりに、だれかのせいにしている場面はありませんか。
- 自分が見ようとしていない罪を示してくださるよう、今日、神に願ってみませんか。そして、それをありのままに告白してみませんか。
- 神がすでに赦してくださった過ちの結果を、受け入れるのに苦労してはいませんか。
- 今日、どんな状況に容易な出口がないと感じていますか。それをどのように神のみ手にゆだねることができるでしょうか。
- この一日の始まりに、イエスの十字架は、あなたへの神のあわれみについて何を語っていますか。
引用した聖句
よくある質問
ダビデはすでに悔い改めたのに、なぜ神は罰するのですか。
このメッセージによれば、ダビデが悔い改めたとき、神は確かに彼の罪を赦されました。しかし赦された罪にも、負うべき結果が残ることがあります。説教者は、飲酒運転をした人にたとえました。神に罪を告白すれば神は赦してくださいますが、法律で定められた刑罰は受けなければなりません。
ダビデが「主のみ手に陥らせてください」と願ったのは、どういう意味ですか。
歴代誌上21章13節で、ダビデは三つの災いのどれを選ぶとははっきり述べていません。すべてを神にゆだね、お心のままにさばいてください、と願っています。大切なのは選択肢そのものではなく、彼が挙げた理由、「主のあわれみはきわめて大きい」ということです。ダビデは、主のあわれみに全面的に信頼しているのです。
ダビデのとりなしは、どのようにイエスを指し示していますか。
17節で、ダビデは神と民の間に立ち、民のために祈っています。しかしダビデは罪人であり、さばきを招いたのは彼自身で、七万人が命を落としました。それに対してイエスは、神と人との間の唯一の仲保者です(テモテへの第一の手紙2章5~6節)。罪のない方が、十字架で神のさばきをすべて負い、すべての人のあがないとしてご自身をささげられました。