はじめに
2025年7月6日のこの主日、ラズニ・ウアタラ長老が語ります。彼は2017年からクラマール福音教会(アセンブリーズ・オブ・ゴッド)の長老を務め、それ以前はコートジボワールのヤムスクロ、続いてアングレ(アビジャン)で仕えた後、二十年あまり前にフランスに移り住みました。今回分かち合われるテーマは五つの言葉に集約されます。「イエスに目を留める」ということです。それを説き明かすために、彼はあなたをマタイの福音書14章へと導きます。イエスは五つのパンと二匹の魚で五千人を養われたばかりでした。その直後、イエスは弟子たちに舟に乗り、先に向こう岸へ渡るよう命じられます。そこで風が向かい風になります。ペテロはイエスが海の上を歩いておられるのを見て、自分も水の上に来るよう命じてほしいと願い、歩き出しますが、やがて沈みます。なぜでしょうか。ある瞬間、彼が目をそらしたからです。メッセージは明快です。試練の中であなたを立たせ続けるただ一つのものは、イエスに揺るがず据えられた眼差しなのです。
メッセージの構成
1. 大いなる奇跡の後、イエスはあなたに渡ることを命じられる
ラズニ長老は、この物語の冒頭の言葉を強調します。「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗らせ、自分より先に向こう岸へ行かせ」(マタイ14:22)。「強いて」という言葉は強い表現です。訳によっては「せき立てた」とも訳されます。なぜでしょうか。弟子たちは動きたくなかったからです。彼らは女性や子どもを数に入れずに五千人もの人が、五つのパンと二匹の魚で養われるのをちょうど目の当たりにしたばかりでした。彼らは驚嘆のただ中にいました。その奇跡の中にとどまっていたかったのです。
しかしイエスは彼らに強いられます。ここであなたに分かってほしいことがあります。勝利を経験したとき、大いなる奇跡から出てきたとき、神はあなたにそこに留まってほしいとは思っておられません。神はあなたに向こう岸へ渡るよう命じられます。渡ることへとあなたを召しておられるのです。祝福を過去形で語ってはいけません。
2. 奇跡の神は試練の神でもある
出発してまもなく、風が向かい風になります。ここでラズニ長老は、すべてを明確にする一言を語ります。奇跡の神と試練の神は、同じ神であるということです。あなたは奇跡だけを愛して試練を拒むことはできません。試練のない奇跡はないのです。
イスラエルの民がそのあかしです。神は乳と蜜の流れる地を約束されました。しかし約束と実現の間には、紅海があり、荒野があり、四十年にわたる旅がありました。あなたを連れ出す神は、あなたを通らせる神でもあるのです。
そして彼は強調します。試練のただ中にあっても教会を見捨ててはいけません。神も教会も、あなたが試練にどう反応するかについて責任を負ってはいません。「主よ、この試練のせいで、私は去ります」と言うことはできません。不平、落胆、そして見捨てることは、渡ることを学んでいない信仰のしるしなのです。
3. イエスはひとり退いて祈られる:あなたはどうだろうか
「群衆を解散させてから、祈るためにひとり山に登られた」(マタイ14:23)。ここでラズニ長老はゆっくりと語ります。100パーセント神であり、100パーセント人であられたイエスに、本当に祈りが必要だったのでしょうか。聖書はわざわざ時間を割いてそれを私たちに伝えています。しかも場所まで明記しています。「ひとり退いて」です。群衆の中ではありません。弟子たちの中でもありません。ひとりです。これはマタイ6章の響きです。「あなたは祈るとき、自分の奥まった部屋に入り、戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。」
イエスは大いなる奇跡を経験されたばかりです。しかし力を抜くのではなく、むしろそこでこそ、いっそう深く祈られます。あなたへの教訓はこうです。勝利の後こそ、気を緩めるときではなく、ひとり退くときなのです。戸を閉めなさい。父に祈りなさい。子どもたちやチームと過ごす時間を持つ前に、まず神とふたりだけの時間を持ちなさい。渡ることの備えは、そこでなされるのです。
4. イエスにしるしを求めることは、疑うことではない
弟子たちはイエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い込みます。よく考えてみれば不思議なことです。天と地の主が水の上を歩かれるのを見て、何が「驚くべきこと」なのでしょうか。海を創られた方が、その上を歩けるのは当然のはずです。それでも弟子たちは、イエスが誰であるかをまだ理解していませんでした。パンの奇跡の後も、彼らは「あなたは神の子です」とひれ伏したわけではありませんでした。それにはまだ何章分もの時間が必要でした。
そこでペテロは言います。「主よ、あなたでしたら、私に命じて、水の上を渡ってあなたのところに行かせてください」(マタイ14:28)。ラズニ長老はここで、広まっているある考えを正します。試練の中でイエスにしるしを求めることは、疑うことではありません。それは、語っているのが本当にイエスご自身であって、敵ではないことを確かめようとすることなのです。全人類の中で、水の上を歩いた者は他にひとりもいません。ペテロは自分ひとりで試そうとはしません。命じることのできる方の命令を待つのです。そしてイエスの「来なさい」という一言だけを頼りに、ペテロは舟から出ます。
5. ペテロは目をそらしたときに沈んだ
ペテロは歩きます。一晩中、向かい風の中で舟を漕ぎ続けたプロの漁師が、今、水の上を歩いています。イエスが「来なさい」と言われたからです。風は相変わらず強く吹いています。しかしペテロがイエスに目を留めている間は、その風が見えません。彼は進みます。
しかしある瞬間、彼は周りを見回し始めます。風が見えます。波が見えます。そしてイエスが見えなくなります。彼は沈みます。ラズニ長老は力強く語ります。「ペテロが沈んだのは、イエスが支えるのをやめたからではない。ペテロが沈んだのは、目をそらしたからだ。」神があなたを召しておられることから目をそらすなら、あなたはその召しの中で沈んでしまいます。
そして説教者は、すべてを変えるひとことを付け加えます。イエスに向かって目を「上げる」だけでは十分ではなく、イエスに目を「据え続ける」必要があるということです。危機のときだけ開かれる眼差しではなく、長く保たれる眼差しです。勝利を保証するのは、この据え続ける眼差しなのです。
6. あなたの目が何を見ているかに注意しなさい
ここでラズニ長老は大切な補足を挟みます。聖書において、目は決して中立ではありません。箴言3:7はこう言います。「自分の目には知恵ある者としないで、主を恐れ、悪から遠ざかれ。」別の訳では「自分を知恵ある者だと思うな」とも訳されます。あなたの見方があなたの考え方を決定づけ、あなたの考え方があなたの人生を決定づけるのです。
エデンの園以来、敵はあなたが見るものを変えようとしてきました。禁じられた実について、別の見方を提示したのです。もしあなたの目が悪魔によって養われるなら、あなたは神が見ておられるのとは違うものを見ることになります。神が悪と呼ぶものを、あなたは善と呼んでしまうでしょう。だからこそ、目を据えるべきなのは、波にでも、妥協にでも、この世が差し出すものにでもなく、イエスなのです。
7. 目を据えて建て上げる:教会への招き
ラズニ長老は最後に、彼を迎えている教会と、この言葉を聞いているあなたに向けて、預言的な招きをもって締めくくります。彼はネヘミヤを引き合いに出します。ネヘミヤは、嵐や困難のただ中で、主に目を据えながらエルサレムの城壁を建て上げました。主の上に建て上げようとする教会は、嵐に直面するでしょう。難しい状況が起こるでしょう。しかしイエスに目を据えて建て上げるなら、勝利と摂理がもたらされます。
そして彼はあなたに警告します。妥協を受け入れてしまったところ、ある状況を切り抜けるために人の好意を求めてしまったところがあるなら、そこで立ち止まりなさい。神は妥協を望まれません。取り繕いを望まれません。神はあなたを召し、ご自分で摂理をもたらしてくださいます。人に頼ることをやめなさい。主に頼りなさい。立ち返りなさい。悔い改めなさい。そしてあなたの目を、本来あるべき場所、すなわちイエスの上に戻しなさい。
覚えておきたいこと
- 大いなる奇跡の後、イエスはあなたに渡ることを命じられる。祝福を過去形で語らず、向こう岸へ渡りなさい。
- 奇跡の神と試練の神は同じ神である。風が向かい風になっても教会を見捨ててはならない。
- 勝利の後こそイエスに倣いなさい。ひとり退き、戸を閉め、隠れたところで父に祈りなさい。
- イエスにしるしを求めることは疑うことではない。「来なさい」という命令を待ち、それから舟を出なさい。
- ペテロが沈んだのはイエスが手を離したからではない。目をそらしたからである。
- 危機のときにイエスへ目を上げるだけでは十分でない。イエスに目を据え続けなければならない。
- あなたの目が見るものが、あなたのあり方を決定づける。敵があなたの状況について差し出す見方を拒みなさい。
- 妥協の中で建て上げることは、摂理を失うことである。人にではなく神に頼りなさい。
個人への適用
- 最近経験したどの「大いなる奇跡」の後、神は今日、そこに留まるのではなく渡ることをあなたに求めておられるだろうか。どこで舟に乗ることをためらっているだろうか。
- 今、あなたの人生にはどんな向かい風が吹いているだろうか。あなたは不平で、あるいは教会を見捨てることで反応しているだろうか、それとも祈りと据えられた眼差しで反応しているだろうか。
- 今週のどの時間に、イエスのように具体的に「ひとり退く」だろうか。戸を閉め、電話を切り、ひとりで祈るのはいつだろうか。
- 長く抱えてきた決断に踏み出す前に、イエスに求めるべき「命じて、私を来させてください」というものはないだろうか。
- ここ数日、あなたの目は何に向けられていただろうか。波、人々の意見、ある妥協だろうか。イエスをそこに据え直すために、あなたの視界から取り除くべきものは何だろうか。
引用された聖句
- マタイ14:22-31・イエスが弟子たちに渡ることを命じ、海の上を歩かれ、ペテロが歩いた後に沈む。
- ヘブル4:14-16・偉大な大祭司、恵みの御座。(礼拝の冒頭で朗読された箇所)
- エペソ2章・私たちは敵であったが、十字架によって神の子どもとされた。(冒頭で朗読された箇所)
- マタイ6:6・「あなたの奥まった部屋に入り、戸を閉めて、あなたの父に祈りなさい。」
- 箴言3:7・「自分の目には知恵ある者としないで、主を恐れ、悪から遠ざかれ。」
- ヨブ33:15・「神は夢によって、夜の幻によって語られる。」
- 使徒2:17-18・「わたしはわたしの霊をすべての人に注ぐ……あなたがたの老人は夢を見る。」
- ヘブル12:1-2・「信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(このテーマに自然と重なる箇所)
よくある質問
イエスにしるしを求めることは、疑うことなのでしょうか。
いいえ、とラズニ長老は答えます。ペテロが「主よ、あなたでしたら、私に来るよう命じてください」と言うとき、彼はイエスを試しているのではなく、語っているのが本当にイエスであって敵ではないことを確かめようとしているのです。彼は自分ひとりで動き出すのではなく、命令を待ちます。試練の中で、あるいは決断の前にイエスに確認を求めることは、思い上がりによって行動することを拒む信仰の表れなのです。
イエスに召されたのに、なぜペテロは沈んでしまったのでしょうか。
彼が目をそらしたからです。その瞬間に風が強くなったわけではありません。ペテロが歩いていたときからすでに強かったのです。変わったのはペテロの眼差しでした。イエスに目を据えている間は、水の上に立ち続けることができました。周りの波を見た瞬間、彼は沈みました。メッセージは明快です。神の召しの中では、あなたを召された方に目を留め続けている限り、あなたは立ち続けることができるのです。
イエスに「揺るがず目を据え続ける」とはどういう意味でしょうか。
ラズニ長老は二つのことを区別しています。イエスに目を「上げる」こと(多くの場合は危機のときの一時的な動き)と、イエスに目を「据え続ける」こと(時間を通して保たれる姿勢)です。勝利を保証するのは、沈みかけたときにイエスを呼ぶことではなく、嵐の前も、嵐の最中も、嵐の後も、常にイエスに目を向け続けていることです。教会が建て上げられ、困難が訪れるときに教会を立ち続けさせるのは、この眼差しなのです。
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