はじめに
このメッセージは、2026年10月8日、日本の大阪オンヌリキリスト教会の早天礼拝で語られました。説教者は歴代誌第一を読み進め、21章1節から8節、ダビデがイスラエルの人口を数えさせる場面を取り上げます。
説教者はまず、簡単な問いかけから始めます。あなたの預金通帳にはいくら入っていますか。答えを求めているわけではありません。ただ、私たちは数字によって簡単に安心してしまう、ということに気づいてほしいのです。「銀行にはこれだけお金がある。礼拝にはこれだけ人が来ている。経験もこれだけある。成果もこれだけある。」数字は目に見えるので、安心の源になります。そして数字が下がると、不安がやって来ます。
ダビデもまた、数えたいと思いました。説教者はこの箇所から三つの教えを引き出し、主が今朝ひとりひとりに問いかけておられる一つの問いを示します。あなたは何に頼って安心しようとしていますか。
メッセージの流れ
1. 気になる一節:「ダビデはエルサレムにとどまっていた」
- 21章に入る前に、説教者は前日の箇所、歴代誌第一20章1節に戻ります。王たちが出陣するころ、ヨアブは軍勢を率いて出て行き、ラバを攻め囲みました。「ダビデはエルサレムにとどまっていた。」
- ダビデは王であり、自分が行かなくても兵士たちが戦って勝つと信頼できたのだと、説教者は認めます。エルサレムにとどまること自体は罪ではありませんでした。
- それでも、この一節を黙想するうちに、ある問いが浮かびました。ダビデはすでに、霊的な感覚の一部を失っていたのではないか。それまでの彼は、いつも神の民とともに真っ先に戦いに出る人でした。ところがここでは、彼らしくないダビデの姿があります。ヨアブが戦いに出て、彼は後ろに残っているのです。
- 彼はもう戦場の緊張の中に身を置いていません。警戒心がゆるみ、それとともに神への依存もゆるみます。自分の力を知りたい、測りたい、確かめたい、という思いが生まれます。
- 説教者は慎重です。20章1節を21章1節の直接の原因とすることはできません。しかし、今日の箇所を私たちへの警告として読むことはできます。
2. 信仰生活を脅かす危険
- 信仰生活で最も恐ろしいことは何でしょうか。ある日突然「もう神を信じない」と言って、一度に信仰を失うことが、第一ではありません。
- それは、こう思うことです。「これくらいなら大丈夫。これは神に頼らなくていい。自分の経験も、知識も、お金もある。自分で何とかできる。」
- そこから、霊的な緊張は少しずつ失われていきます。そして気づかないうちに、神に目を上げて信頼するのではなく、自分の経済力や力、人間関係、人的資源を見るようになってしまいます。
- 「今日のダビデの問題は、まさにここにありました」と説教者は語ります。
3. 第一の教え:警戒心がゆるむと、神ではなく自分の力を見る
- 1節ははっきりと語ります。「サタンはイスラエルに逆らって立ち、ダビデを誘ってイスラエルの人口を数えさせた。」これは単なる人口調査の問題ではありません。霊的な戦いなのです。
- この箇所を、ダビデがただ人数を知りたかっただけだと、表面的に読んではいけません。その背後には霊的な問いがあります。彼は何に信頼を置いているのか、ということです。
- ダビデは多くの勝利を経験してきました。ゴリアテとの戦い、ペリシテ人との戦い、数々の戦争です。彼は経験から知っていました。勝利は主から来ること、「この戦いは主の戦い」であること、そして勝利は人数によらないことを。
- しかし霊的な警戒心がゆるむと、神の偉大さを思うよりも、自分たちが何人いて、どれだけ力があるのかを確かめたくなります。「そこに大きな危険があります。」
- これは誰にでも起こり得ます。毎朝、早天礼拝で祈っていたのに、一日くらい休んでも大丈夫だと思う。熱心に聖書を読んでいたのに、みことばのない一日を過ごしても、何も欠けていないように感じる。礼拝を命のように大切にしていたのに、少しくらい休んでもいいと思う。
- 決断する前に祈り、神のみこころを求めていたのに、「これは分かっている。自分の経験で十分だ」と言い始める。一つひとつは小さなことに見えます。けれども霊的な感覚は鈍くなり、自分の知識や経験、力への依存が大きくなっていきます。「それは大きな勘違い、幻想です。」
- だから私たちは毎日主の前に出て、みことばに心を探っていただく必要があります。私は神を見ているだろうか。それとも、自分の持っているもの、数字で測れるものを見ているだろうか、と。
4. 第二の教え:数字が大きくなるほど、安心した気持ちになる
- 2節で、ダビデはヨアブと民の長たちに、ベエルシバからダンまでイスラエルの数を数えるよう命じます。「その数を知らせなさい」と。説教者はこの言葉に立ち止まります。ダビデは本当にその数を知る必要があったのでしょうか。
- ヨアブは何かがおかしいと感じ取ります。3節で、彼は思い切って王に語ります。「主がその民を百倍にも増してくださるように。[...] どうしてわが主はこのことを求められるのですか。」王の命令は絶対でしたから、この言葉には勇気が要った、と説教者は強調します。しかし命令は変わらず、人口調査は実行されます(4節)。
- なぜ私たちは数字を知りたいのでしょうか。それは目に見えて、安心させる力があるからです。大阪の教会にはこれだけの人がいる、これだけのお金がある、これだけの経験がある、これだけの成果がある。「信仰で最も大切なのは、あなたがどれだけ持っているかではなく、誰に信頼しているかです。」
- 説教者はギデオンの話(士師記7章)を思い起こします。神はギデオンに、三万二千人の兵は多すぎると言われ、三百人まで減らされました。人間的に見れば、三万二千人なら戦えますが、三百人では弱い立場です。けれども神は、勝利が彼ら自身の力によるのではないことを示そうとされたのです。
- 「問題は、数が多いことではありません。問題は、数が神よりも大きな安心の理由になってしまうことです。」
- 預金残高、人間関係、経験、知識、能力、健康、教会の出席者数。これらはすべて時とともに変わります。だから、それを土台にしてはいけません。主は決して変わらない方です。ただ主にだけ、信仰を築くのです。
5. 第三の教え:ダビデは自分の大きな罪を認め、主に立ち返る
- 7節と8節です。「神はこの事を悪とされたので、イスラエルを撃たれた。ダビデは神に言った、『わたしはこの事をして大いに罪を犯しました。しかし今、どうかしもべの罪を取り除いてください。わたしは非常に愚かなことをしました』。」
- 聖書は、イスラエルがどのように撃たれたのかを、正確には記していません。説教者は、大きな敗北か疫病を想像します。いずれにしても、それは神のさばきであり、痛みを伴う試練でした。そのときダビデは悔い改めます。
- 私たちも、神に打たれる経験をすることがあります。それは決してのろいではなく、愛のむちです。主は愛する者を訓練されます。私たちを憎んでおられるからではなく、愛しておられるからこそ、痛みを許されるのです。私たちがこう言えるように。「私は間違っていました。鈍くなっていました。あなたではなく、数字を見ていました。赦してください。」
- 「そこがダビデの素晴らしいところです。」彼の告白は、ちょっとした判断ミスをした人のものではありません。「大いに罪を犯しました」「非常に愚かなことをしました」と言うのです。
- ダビデが理解したのは、民を数えたということだけではありませんでした。その背後にあるもの、つまり神ではなく自分の力に寄りかかっていたことでした。説教者はさらに、ダビデの姦淫の罪も、この「大きな罪」という告白に重くのしかかっていたのだろうと付け加えます。ここに、心から出る悔い改めの本質が現れています。
- 悔い改めは日々の訓練です。「昨日悔い改めたから、今日は悔い改めなくていい、ということはありません。」
6. 「どれだけ」ではなく「誰があなたとともにいるか」
- 説教者はまとめます。主はみことばを通して、あなたが安心するために何を数えているのかを問われます。お金ですか。人間関係ですか。能力ですか。経験ですか。知識ですか。成果ですか。礼拝に集う人の数ですか。
- この箇所の問いは、「あなたはどれだけ持っていますか」ではなく、「あなたは誰を信頼していますか」です。
- 数字を見てはいけない、と言っているのではありません。見るべきです。現実を正確に捉え、困難を見極め、それを乗り越える方法を探し、計画を立てるのです。しかし、数字の前に、まず神を見なければなりません。
- 人数は変わり、お金は使えばなくなります。たとえ主が再び備えてくださるとしても。能力も健康も変わります。「しかし、主はどなたでしょうか。主は良い方です。決して変わらない唯一の方です。だから信頼するにふさわしいのです。」
- 今日一日のための説教者の祈りです。「主よ、私が持っているものにではなく、私とともにおられるあなたに信頼することを教えてください。」神ではなく数に頼るのではなく、数をも用いてくださる神に頼るのです。
心に留めたいこと
- 最大の危険は、一度に信仰を失うことではなく、神に頼らなくてもやっていけると思ってしまうことです。
- 霊的な警戒心がゆるむと、神の偉大さを思うよりも、自分の力を測りたくなります。
- 問題は数が多いことではなく、数を神よりも大きな安心の理由にしてしまうことです。
- 神が打たれるとき、それはのろいではなく、悔い改めへ導く愛の懲らしめです。
- 大切なのは、あなたが何を持っているかではなく、誰があなたとともにいるかです。
個人への問いかけ
- 今、安心するために何を数えていますか。預金口座、人間関係、経験、健康、成果でしょうか。
- 一日くらい減らしても変わらないと思って、手放しかけている霊的な習慣(朝の祈り、聖書通読、礼拝)はありませんか。
- 最近の決断のうち、祈らず、神のみこころも求めず、自分の経験だけで行動したものはありますか。
- 人生の数字を現実的に見つめながら、まず神を見るには、どうすればよいでしょうか。
- 今朝、ダビデのように「私は非常に愚かなことをしました」と告白するよう、聖霊が促しておられることはありませんか。
引用された聖句
よくある質問
歴代誌第一21章のダビデの人口調査は、なぜ罪だったのですか。
問題は、数が多いことではありません。説教者によれば、問題はその背後にあるものです。ダビデは自分にどれだけの兵がいるかを知りたがり、その心は神ではなく、その数に寄りかかっていました。聖書は、サタンが彼をそうするよう誘ったと明記しています。これは単なる人口調査ではなく、霊的な戦いなのです。
神を信頼するために、数字を見るのをやめるべきですか。
いいえ。説教者は、数字を見るべきだと語ります。現実を正確に捉え、困難を見極め、計画を立てるのです。しかし、もっと大切なことがあります。数字の前に神を見ることです。人数、お金、能力、健康は変わりますが、主は変わりません。
このメッセージによれば、信仰生活で最大の危険は何ですか。
大きな罪を犯すことや、突然信じなくなることが第一ではありません。神に頼らなくてもやっていけると思うことです。一日祈りを省く、みことばを読まなくなる、自分の経験だけで決める、といったことです。霊的な警戒心は少しずつ失われ、気づけば主ではなく自分の力を見るようになってしまいます。