申命記32〜34章:神の御声を忘れず、聞いて、祝福を選び取れ

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はじめに

沖縄・久米島にある久米島希望が丘キリスト教会の木下千尋牧師は、申命記32〜34章をもって、木曜日の聖書の集会での申命記の学びを締めくくりました。夜の集会の冒頭、牧師は「モーセとは、さよならではなく、またね、です」と語りかけました。

申命記は、約束の地カナンに入る直前、新しい世代に向けて語られたモーセの最後の言葉をまとめた書です。牧師はこの連続講解を通して、そのテーマを三つの動詞で言い表してきました。神の御声を忘れないこと、聞くこと、そして祝福を選び取ることです。最後の三つの章は、その集大成にあたります。

32章にはモーセの歌、33章にはイスラエルの部族に向けた祝福、34章にはモーセの死の記録があります。これらを貫く糸は、あなたが神とともに歩む人生は、あなたが何を覚えているかにかかっている、ということです。

メッセージの流れ

1. 完全には倒れないための歌

  • 申命記31章19〜21節で、神はモーセにこの歌を書き記し、イスラエルの人々の口に授けるよう命じます。神はすでに、彼らが約束の地で満ち足りて肥え太ったとき、ほかの神々に向かうことを知っておられました。
  • ですからこの歌には二つの目的があります。一つは、31章の「強くあれ、雄々しくあれ」に応えて、民が確信をもって前に進めるよう励ますことです。もう一つは杖の役目で、つまずくことはあっても、神から離れてしまうほど倒れ込まないようにするためです。
  • 「失敗したとき、神に罪を犯したと気づいたとき、暗記しているこの歌を歌いなさい。そうすれば、あなたの心は神に向き直ります。」
  • 1〜3節は序文です。天と地、すべてのものが聞くよう呼びかけられています。雨と露が草を生かすように、この教えは受け取る人にとって祝福となり、力となります。
  • モーセは主の御名を宣言します。牧師によれば、この御名、ヤハウェは「わたしはあなたに必要なすべてである」と語っています。この御名が歌の中にあるというだけで、耳を傾ける価値があります。

2. 神は岩であり、そのみわざは完全

  • 「主は岩であって、そのみわざは完全く、その道はみな正しい」(申命記32:4)。私たちが信じる神も同じお方で、間違いを犯されません。
  • 目に入り、耳に入るあらゆることが、私たちを嵐のような状況に投げ込み、慌てさせることがあります。「まさにそのときこそ、神は完全なお方だと思い出すべきです。」
  • 岩は洪水から救います。その上に立つ人は流されず、その陰に身を寄せる人は嵐に吹き払われません。岩はまた、私たちの土台でもあります。
  • 神は真実なお方です。起こると言われたことは起こり、起こらないと言われたことは起こりません。

3. 神を忘れること、関係を壊す選択

  • 5〜6節は、民が主に対して堕落したふるまいをしたと責めています。ヘブライ語の動詞「シャハト」は、滅ぼす、台なしにするという意味です。
  • 不完全であることが問題なのではありません。私たちはみな不完全です。問題は、キリストにあって神を父と呼ぶ子どもである私たちが、そこから転がり落ち、まったく別のものになってしまうことです。
  • 「神を忘れるとは、今日たまたま神のことを思わなかった、ということだけではありません。」それは神との関係を腐らせ、台なしにすることであり、神の子にとって致命的な選択です。
  • イスラエルはいつその選択をしたのでしょうか。栄えたときです。「エシュルンは肥え太って、足でけった」(15節)。助けを叫び求めるとき、私たちは必死にすがりつきます。状況が落ち着くと、感謝はしても、神を求めなくなります。
  • 「すべてがうまくいき始めたときこそ、いちばん危険です。」自分の弱さを自覚しているとき、私たちはある意味で守られています。
  • 15節は、イスラエルを「エシュルン」、すなわち真っ直ぐな者、正しい者と呼んでいます(イザヤ書44:2も参照)。これは神の民の理想の姿で、神との関係において真っ直ぐで誠実であることです。イスラエルは何もないところから始まったのではありません。エシュルンであったのに、自分の選択によってそこから落ちてしまったのです。

4. 神があなたのためにしてくださったことを思い出す

  • 「いにしえの日を思い出せ」(7節)。恵みの記憶、神がしてくださったすべての良いことの記憶を失ってはなりません。
  • 民は主のわけ前です(9節)。私たちを手に入れるために、神はイエス・キリストを与えられました。キリストはご自分をむなしくして、死に至るまで、十字架の死に至るまで従順になられました(ピリピ2:8)。恥をもいとわず十字架を忍ばれたのは、私たちが救われる喜びのためでした(ヘブル12:2)。
  • 四十年の荒野の旅の間、神は民を「ひとみのように」守られました(10節)。私たちは反射的に自分の目を守ります。神も同じように、ご自分の民を守られます。わしがひなを翼に載せて運ぶように、民を背負われたのです。
  • イエス・キリストを信じる信仰によって、私たちもアブラハムの子孫に数えられます。民族としてのイスラエルになるわけではありませんが、神は同じように私たちを守り、背負ってくださいます。「私たちが今ここにいるのは、神が今日まで助け、導き、守り、養ってくださったからです。」
  • だからこそ、神との個人的な時間が大切です。「それは、今日はこの節からこの節まで、というようなやることリストではありません。」神が自分のためにしてくださったことを思い出す、深く個人的な交わりです。
  • 神を忘れていたと聖霊が示してくださったとき、私たちは互いに思い起こさせ合い、神のもとに立ち返る必要があります。

5. 義とあわれみ、いつでも立ち返ることができる

  • 19〜25節は、のろいを選ぶ民に臨む災いを描いています。すべてがうまくいかなくなったとき、イスラエルはこの歌を思い出し、「私たちは神を忘れていたのではないか」と問い直すことができます。
  • 神はこれから起こることを告げるとき、警告と、そこに至らないようにとの勧め、そして万一そうなったときの救いの道筋を、あわせて与えてくださいます。「いのちを選びなさい」と神は言われます。私たちが生きている限り、選択の余地は残されています。神の恵みによって、どこからでもやり直すことができます。
  • 26〜27節で、神は敵が「われわれの手が勝ったのだ」と言わないように、民を滅ぼし尽くされません。しかし、しぶしぶ民を守っておられるのでもありません。神においては、悪を罰する義と、回復させたいと願うあわれみが、ともにあります。「私たちには難しいことですが、神のうちでは両方が同時に成り立っています。」
  • 「彼らの神々、彼らが避け所とした岩は、どこにいるのか」(37節)。偶像は誰も守りません。そして神は宣言されます。「見よ、わたしはそれである」。殺し、生かし、傷つけ、いやすお方です(39節)。
  • 神との関係が傷ついたとき、道は二つあります。すべてを台なしのままにして「もう自分は終わりだ」と言うか、神のあわれみを思い出して、もう一度神にすがりつくかです。「この地上で、私たちはこれを繰り返すしかありません。」
  • 「失敗は普通のことです。」けれども、そこにとどまってよい理由にはなりません。そこにい続けるのは危険です。そのたびに神の助けを求め、神のそばにとどまることがどれほど良いかを味わい、成熟へと進んでいきます。
  • 43節は、諸国民に喜ぶよう呼びかけています。神の真実と義とあわれみはイスラエルだけのものではなく、すべての民がそれを歌うよう招かれています。
  • 「これはあなたがたにとって、むなしい言葉ではなく、あなたがたのいのちである」(47節)。神の御名を知り、信じ、思い巡らすことが、私たちのいのちです。神がどなたであるか、何をしてくださったかを思い出し、神が備えてくださった祝福を選び取ることなのです。

6. 祝福は、神を王とすることの上にある

  • 33章2〜5節は土台を据えます。神は「もろもろの民を愛される」。イスラエルだけではなく、恵みによって私たちをご自分の手の中に集めてくださいました。「エシュルンのうちに王があった」。神の民とは、日々の生活の中で神を王とする民のことです。
  • しもべの役目は、王の言葉に従うことです。モーセは部族を無条件で祝福しているのではありません。祝福は、神が王であり、その御声に聞き従うことを前提としています。
  • 「祝福してください」は悪い祈りではありません。けれども、従わず、聖霊が示してくださることを悔い改めず、手放すべきものを手放さないなら、「その祈りはとても弱いものです」。
  • 神は私たちを豊かに祝福したいと願っておられます。神の前に正しいとは、行いが完全であるという意味ではありません。私たちの罪は、イエス・キリストの名によって赦されています。歩くと足が汚れるように、私たちもイエスに足を洗っていただく必要があります。イエスが弟子たちの足を洗われたように(ヨハネ13:1〜10)、そのたびに赦しを受けていることを認めるのです。
  • いくつかの祝福を挙げると、ルベンは数が少なくても、神との関係にとどまる限り生きるように。ユダがひとりで戦うときは、神が助けてくださるように。ベニヤミンは「主に愛される者」として、主のそばで安らかに住みます。ヨセフは、エフライムとマナセとともに、豊かな実りを受けます。アシェルは足を油にひたし、その力が生涯続くように、と祝されています。
  • レビについては、ウリムとトンミムは、神に「はい」か「いいえ」で答えられる問いをするために用いられました。「今日では、そのようなものはもうありません。」イエス・キリストの名によって、私たちは大胆に恵みの御座に近づくことができます(ヘブル4:16)。レビの熱心さは、金の子牛の事件(出エジプト記32:26〜29)や、バアル・ペオルでのピネハス(民数記25章)を思い出させますが、そのまま私たちの家族に当てはめるべきではありません。
  • ひとつの部族が欠けています。シメオンです。聖書はその理由を記していません。シメオンはエジプトを出たとき約5万9千人で、第三位の規模でしたが、二度目の人口調査では2万2千人となり、最も小さな部族になりました。おそらくバアル・ペオルでの罪のためでしょう。やがてユダの領地の中に吸収されました。「神を選ばないことは恐ろしいことです。これは私たちへの警告でもあります。」
  • 「イスラエルよ、あなたはさいわいである。主に救われた民、あなたに等しい者はだれか」(29節)。神との関係を余すところなく味わったなら、私たちはもうこの世の生き方には戻れないでしょう。それほどすばらしいのです。一部を味わっただけでも、どんな試練をも乗り越える力になります。
  • 「私たちは、この世でもっとも幸せな人たちです。そのことに気づいていますか。」足りないものはあるかもしれません。お金や健康などです。それでも、イエス・キリストを信じる信仰によって義とされた私たちは、神を父と呼ぶ親しい関係をいただいています。

7. モーセの死、そして、より偉大な預言者の到来

  • メリバで、モーセは岩に向かって語るはずでした。しかし民に腹を立て、杖で岩を二度打ち、神が怒っておられないのに怒っておられるかのように示してしまいました(申命記32:51、民数記20:7〜12)。そのため約束の地には入れませんでしたが、神はネボ山から遠くにその地を見せてくださいました。神の義と、同時に神の恵み深さを示しています。
  • 牧師はこれを象徴的なものとして受け取っています。モーセは律法を表します。律法の行いによって約束の地に入ることはできません。律法は肉を死なせることができず、たった一度の違反で祝福を受ける資格を失うからです。とはいえ、モーセと神との実際の関係は恵みに基づいていました。
  • モーセは120歳で亡くなりました。目はかすまず、気力も衰えていませんでした(34:7)。「すごいことです。私の目はもう見えにくくなってきました。老眼です。」
  • ユダ書9節は、大天使ミカエルが悪魔とモーセの遺体について論じ合ったことに触れています。神の民をめぐる霊的な戦いは今も続いています。神は民がエシュルンのままでいられるよう守り、悪魔は民が堕落するよう誘惑します。「私たちは神を信頼し続ける必要があります。」
  • 知恵の霊に満ちたヨシュアが後を継ぎ、民を約束の地に導き入れます。その名はイエスと同じで、「神は救い」という意味です。行いによってではなく、恵みにより、信仰によって救われることの象徴です。
  • 「イスラエルには、モーセのような預言者は、再び起らなかった」(34:10)。モーセ自身が、自分のような預言者が現れると告げていました(申命記18:15)。新約聖書は、それをイエス・キリストのことだと見ています。モーセと同じように、イエスはご自身の行いと言葉によって、神がどなたであるかを示されました。
  • 「イエス・キリストの言葉を忘れず、イエス・キリストを忘れず、その御声を聞き、イエスが約束された祝福を選び続けること。私たちに残されているのは、それだけです。」

この記事のポイント

  • モーセの歌は、倒れる日のために与えられました。神がどなたかを思い出すとき、心は神のもとに引き戻されます。
  • 神を忘れることは、神との関係を台なしにすることです。その危険は、とくにすべてがうまくいっているときに潜んでいます。
  • 神においては、義とあわれみがともにあります。生きている限り、何度でも神のもとに立ち返ることができます。
  • 祝福は魔法の言葉ではありません。神が王であり、その御声に聞き従う生き方の上にあります。
  • モーセは民を約束の地に導き入れませんでしたが、イエスと同じ名をもつヨシュアが導き入れました。私たちは恵みによって入るのです。

自分への問いかけ

  1. 「すべてがうまくいっていた」あなたの人生のどの時期に、神を求めなくなりましたか。
  2. 倒れる日のために、どんな「歌」、どんな言葉、神の真実についてのどんな思い出を心にとめておけますか。
  3. 神との時間は、やることリストのようになっていませんか。それとも、神がしてくださったことを思い出す交わりになっていますか。
  4. 従うことや何かを手放すことを拒んでいる分野で、神に祝福を求めてはいませんか。
  5. イエス・キリストにあって救われたので、自分が世界でもっとも幸せな人たちの一人だと気づいていますか。

引用された聖句

よくある質問

なぜモーセは申命記32章でイスラエルに歌を与えたのですか。

申命記31章19〜21節によれば、神は民が約束の地に落ち着いたのち、ご自分から離れていくことをすでに知っておられました。木下千尋牧師は、この歌が完全には倒れないための杖の役目を果たすと説明します。イスラエルが失敗したとき、この歌を歌って神がどなたかを思い出すなら、その心はふたたび神に向き直るのです。

申命記32章で、神を忘れるとはどういう意味ですか。

牧師によれば、神を忘れるとは、単なる物忘れではありません。神との関係を腐らせ、台なしにすることであり、神の子にとって致命的な選択です。イスラエルは栄えていたときにそれを行いました。すべてがうまくいき始めたときにこそ、危険はもっとも大きくなります。

モーセの祝福に、なぜシメオン族は出てこないのですか。

聖書は理由を記していません。木下千尋牧師は、シメオン族が二度の人口調査の間に約5万9千人から約2万2千人に減ったことに触れ、おそらくバアル・ペオルでの罪のためだろうと述べます。この部族はやがてユダの領地に吸収されました。牧師はここに、神を選ばないことは恐ろしいことだという警告を見ています。

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