愛されて愛する 愛は「感情」ではなく「本質」

読了時間 1分

はじめに

愛されるとは、本当はどういうことでしょうか。もしあなたが愛を、胸の高鳴りやバレンタインデーの小さなハートのように、行ったり来たりする感情だと考えているなら、なぜ神にとても愛されていると感じる時もあれば、神からとても遠く感じる時もあるのか、疑問に思ったことがあるかもしれません。問題は神ではありません。私たちが愛について語るときに使う「動詞」にあるのです。

最近、モメンタム・コミュニティで語られたメッセージも、まさにこの土台の話から始まりました。安定した家を建てるには堅固な土台が必要なように、人生も本当に揺るがないものの上に築く必要があります。ここでの「岩」となるのは、ちょっとした文法上の発見です。それは「持つ」という動詞と「ある」という動詞の違いです。この記事では、その違いを一緒にたどりながら、イエス・キリストという名の愛の顔を見出していきます。

記事の構成

  1. 小学校の文法から始まる、アイデンティティの話 「持つ」と「ある」
  2. 「神は愛です」感情ではなくアイデンティティとしての愛(ヨハネの手紙一4章7〜8節)
  3. 燃える柴の前で「わたしはある」という名の愛(出エジプト記3章、詩篇23篇)
  4. イエスの「わたしは〜である」ヨハネによる福音書に見る愛の顔
  5. イエスの胸に寄りかかった弟子(ヨハネの手紙一4章18節、ヨハネによる福音書15章13節)

1. 小学校の文法から始まる、アイデンティティの話 「持つ」と「ある」

小学校で動詞の活用を習った頃を思い出してみましょう。「持つ」という動詞なら、私は持つ、あなたは持つ、彼は持つ。「ある」という動詞なら、私はある、あなたはある、彼はある。何でもないことのように見えますが、この小さな活用の違いの中に、信仰を読み解く最も深い鍵の一つが隠されています。

「持つ」という動詞を使うとき、私たちは自分が所有しているもの、あるいは欲しいものについて話しています。一方「ある」という動詞を使うとき、私たちは自分が何者であるかについて話しています。つまり、自分のアイデンティティについて語っているのです。そして、愛について真剣に語るすべての話は、まさにこのアイデンティティから始まります。

なぜなら、愛を自分が「持っている」もの(感覚や感情、胸の高鳴りなど)として考えると、愛はもろいものになってしまうからです。感情はジェットコースターのように上がったり下がったりします。ある日は愛されていると感じても、次の日にはひとりぼっちだと感じることもあります。そして、神も同じように働くのだと、いつしか思い込んでしまいます。ある日は私たちを愛し、また別の日には忘れてしまうのだと。しかし、神はそのようには働きません。

2.「神は愛です」感情ではなくアイデンティティとしての愛(ヨハネの手紙一4章7〜8節)

使徒ヨハネはこう書いています。「愛する者たちよ、私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出るものであり、愛する者はみな神から生まれ、神を知っているからです。愛さない者は神を知りません。神は愛だからです」(ヨハネの手紙一4章7〜8節)。この言葉に少し立ち止まってみてください。ヨハネは「神は愛する」とは書いていません。「神は愛です」と書いているのです。この動詞の違いが、すべてを変えます。

もし神がただ「愛する」だけの方であれば、愛は神が持っている感覚にすぎず、あらゆる感覚と同じようにいつか途切れてしまうかもしれません。しかし、神が愛「である」なら、愛は神が持っているものではなく、神そのものです。それは神の本質であり、神のアイデンティティです。そして神は、ご自身であることをやめることはできません。

これは、あなたにとってもすべてを変えることです。神があなたを愛するのは、あなたが愛らしいからではありません。ふさわしいことをしたからでも、何か良いことをしたからでもありません。神があなたを愛するのは、神が愛「である」からです。それだけです。神のアイデンティティこそが、その愛情の保証なのです。昨日はバレンタインデーで、小さなハートや胸の高鳴り、歌にあふれていました。それらはどれも美しいものですが、もろいものでもあります。しかし神の愛は揺らぎません。なぜならそれは感覚にではなく、「存在」に基づいているからです。

3. 燃える柴の前で「わたしはある」という名の愛(出エジプト記3章、詩篇23篇)

この「ある」という動詞がどこへ導くのかを理解したいなら、燃える柴の場面に戻ってみましょう。モーセは神の前に立ち、自分には無理だと感じながらこう尋ねます。「民が、あなたを遣わした方の名は何かと尋ねたら、何と答えればよいのでしょうか」。それに対して神は、一見単純に見える言葉で答えます。「わたしは、わたしはある、という者である。イスラエルの人々にこう言いなさい。『わたしはある』という方が、わたしをあなたがたに遣わされた、と」(出エジプト記3章14節)。

神はモーセに何を伝えているのでしょうか。突き詰めれば、こう言っているのです。「わたしはここにいる。あなたと共にいる。あなたのためにいる。あなたがどこへ行こうとも、わたしはそこにいる」と。愛が感覚であることをやめてアイデンティティとなるとき、それは「共にいること」という形を取ります。愛とは、共にいることです。そこにいることです。

だからこそ詩篇23篇はこう言えるのです。「たとえ死の陰の谷を歩むとしても、私はわざわいを恐れません。あなたが私と共におられるからです」。「あなたが私に何かを感じているから」ではなく、「あなたが私と共におられるから」です。たとえあなたが自分にはふさわしくないと感じていても、あまりにひどいことをしてしまったと思っていても、神がはるか遠くにいるように感じられても、真実は「わたしはある」という方が、今もそこにおられるということです。その愛は勝ち取るものでも、ふさわしくなって得るものでもありません。ただ受け取るものなのです。

4. イエスの「わたしは〜である」ヨハネによる福音書に見る愛の顔

では、その愛はどんな形をしているのでしょうか。どんな色をしているのでしょうか。私たちはそれを赤いハートの形で思い描きますが、それは人間が作り出したイメージにすぎません。愛には顔と名前があります。それはイエス・キリストという名です。ヨハネははっきりとこう述べています。「神の愛が私たちに示されたのは、神が独り子を世に遣わし、その方によって私たちが生きるようにしてくださったことによってです」(ヨハネの手紙一4章9節)。神は私たちを愛していると「言う」だけでなく、それを実際に「示して」くださったのです。

ヨハネによる福音書の中で、イエスは小さくも壮大な言葉を繰り返し語ります。「わたしは〜である」。これは、神の愛へと開かれた七つの窓とも言える宣言です。

  • 「わたしはいのちのパンである」(ヨハネによる福音書6章35節)あなたの内には深い飢え渇きがあり、それを本当に満たせるのはイエスだけだからです。
  • 「わたしは世の光である」(ヨハネによる福音書8章12節)あなたが時に混乱し、道に迷うことがあっても、イエスの光があなたの歩みに明るさを取り戻してくれるからです。
  • 「わたしは門である」(ヨハネによる福音書10章9節)どこへ行けばよいのか分からないときも、イエスの内に本当の避け所と平安を見出せるからです。
  • 「わたしは良い羊飼いである」(ヨハネによる福音書10章11節)あなたはいたわられ、守られる必要があり、イエスがあなたの世話をしてくださるからです。
  • 「わたしはよみがえりであり、いのちである」(ヨハネによる福音書11章25節)あなたの内に消えてしまった夢があっても、イエスはそれをよみがえらせることができるからです。
  • 「わたしは道であり、真理であり、いのちである」(ヨハネによる福音書14章6節)イエスこそ導き手であり、正しい位置とはイエスの前ではなく、後ろに従うことだからです。
  • 「わたしはまことのぶどうの木である」(ヨハネによる福音書15章1節)あなたはその枝であり、イエスにとどまることによってのみ、愛という樹液があなたを通して流れ、他の人にまで届くからです。

これらの「わたしは〜である」がどのように織り合わさっているかに注目してください。それらはアイデンティティであると同時に愛でもあります。イエスは愛について説明するのではなく、ご自分の人格そのものによってそれを示してくださいます。神がイエスにおいてご自身を示されたように、あなたもまた世界にイエスを示すことができます。なぜなら、世界が必要としているのは、イエスのような愛に満ちた心を見ることだからです。

5. イエスの胸に寄りかかった弟子(ヨハネの手紙一4章18節、ヨハネによる福音書15章13節)

ヨハネは自分の福音書の中で、自らを「イエスが愛しておられた弟子」と表現しています。少し傲慢に聞こえるかもしれません。しかしそれは傲慢ではなく、一つの気づきなのです。ヨハネは誰よりも深く、自分がどれほど愛されているかを理解していました。そして今日のあなたにとって最も大切なのは、あなた自身がイエスをどれほど愛しているかを理解することではなく、イエスがあなたをどれほど愛しておられるかを理解することです。それ以外のことは、その後についてきます。

最後の晩餐の場面で、ヨハネは小さくもとても深い行動をとります。イエスの胸に頭をもたせかけるのです。なぜでしょうか。その夜、彼の魂は動揺していたからです。弟子たちは死や裏切り、見捨てられることについて聞かされたばかりでした。それは重苦しい夜でした。ヨハネは言葉を発する代わりに、ただその仕草だけで語ります。「わたしはここで、あなたの愛の中で休みたい。あなたの愛こそが、わたしに安心と平安を与えてくれるからです」と。

だからこそヨハネは後にこう記すのです。「愛には恐れがありません。完全な愛は恐れを締め出します」(ヨハネの手紙一4章18節)。イエスの胸に寄りかかるとき、恐れは消え去ります。なぜなら、あなたは恐れそのものよりも大きな愛の中で休んでいるからです。

その同じ夜、間もなく、一隊の兵士たち(およそ六百人)がたった一人の人を捕らえるためにやって来ます。イエスはどうされたでしょうか。一歩前に進み出て、誰を捜しているのかと尋ね、「わたしである」と答えると、彼らは皆、地に倒れます。「わたしはある」という力は、人を滅ぼすためではなく、ご自身を明け渡すために用いられます。それは完全な愛、自らを与える愛です。「友のために自分のいのちを捨てること、これよりも大きな愛はない」(ヨハネによる福音書15章13節)。

では、動詞の話に戻りましょう。私には愛が必要です。あなたにも愛が必要です。私たちは皆、愛を必要としています。しかし、これを覚えておいてください。私が愛を「持つ」ことができるのは、「わたしはある」という方が私の内に「ある」ときだけです。イエス・キリストが私の内におられるときにだけ、私は他の人に愛を示すことができます。あなたが与える愛は、あなた自身が作り出す資源では決してありません。それは、あなたが受け取る樹液なのです。

覚えておきたいポイント

  • 「持つ」という動詞は、あなたが所有しているものについて語ります。「ある」という動詞は、あなたが何者であるかについて語ります。神の愛は「ある」という動詞に属しています。
  • 「神は愛です」(ヨハネの手紙一4章8節)とは、愛が神のアイデンティティであって、移ろいやすい感情ではないことを意味します。
  • 燃える柴での「わたしはある」は、愛するとは共にいることを意味すると教えてくれます。あなたがどこへ行こうとも、神はそこにおられます。
  • ヨハネによる福音書に記された七つの「わたしは〜である」は、イエスというお方の内に、神の愛の顔を見せてくれます。
  • 「わたしはある」という方があなたの内にいなければ、与える愛を持つことはできません。あなたがささげる愛は、あなたが受け取った愛から生まれるのです。

自分への適用

  • あなたは神の愛を「持つ」という感覚で生きていますか、それとも「ある」という感覚で生きていますか。それをあまり「感じられない」とき、あなたはそこから何を結論づけていますか。
  • 自分は神の愛にふさわしくないと感じている領域はありますか。神があなたを愛するのは、あなたが良い人だからではなく、神が愛で「ある」からだと受け入れたなら、あなたの心はどのように変わるでしょうか。
  • イエスの七つの「わたしは〜である」のうち、パン、光、門、羊飼い、よみがえり、道、まことのぶどうの木のどれが、今日のあなたに最も語りかけていますか。それはなぜですか。
  • 最後の晩餐でのヨハネのように、今週あなたはどこでイエスの胸に頭をもたせかける必要がありますか。
  • あなたが受け取った愛という樹液を、注ぐことができる誰かがあなたの周りにいますか。今週、どんな具体的な行動でそれを実行できるでしょうか。

引用聖句

よくある質問

「神は愛する」ではなく「神は愛です」と言うことに、どんな違いがあるのですか。

もし神が「愛する」だけなら、愛は神の内にある感情であり、変化する可能性があります。しかし神が愛「である」なら、愛は神のアイデンティティであり、神はご自身であることをやめない限り、あなたを愛することをやめることができません。だからこそ、神の愛は勝ち取るものではなく、受け取るものなのです。

愛が「共にいること」であるとは、どういう意味ですか。

燃える柴の場面で、神はモーセに「わたしはある」という方としてご自身を示されました(出エジプト記3章14節)。神が約束されたのは感覚ではなく、ご自身の臨在、「わたしはあなたと共にいる」ということでした。詩篇23篇もまた「あなたが私と共におられる」と語っています。聖書的な意味で愛するとは、何かを感じることではなく、神があなたのためにそこにいてくださるように、相手のためにそこにいることなのです。

なぜ愛を理解するためにイエスに目を向けるのですか。

ヨハネが語るように、イエスにおいて神の愛が「示された」からです(ヨハネの手紙一4章9節)。愛はひとつの顔を持ったのです。ヨハネによる福音書の七つの「わたしは〜である」は、神があなたをどのように世話してくださるかを示し、十字架はその愛がどこまで及ぶかを示しています。「これよりも大きな愛はない」(ヨハネによる福音書15章13節)のです。

メモを取ったり質問したりするにはサインインしてください。

関連記事

説教の公開元 Efficient Church. 説教全体を見る のチャンネルで.

← ブログに戻る

愛されて愛する 愛は「感情」ではなく「本質」 | Efficient Church