人間の野心、神の約束(列王記第一1章)

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人間の野心と神の約束:列王記第一1章の教訓

鍵となる聖句:「私は、イスラエルの神、主にかけて誓う。あなたの子ソロモンが私の後に王となり、私に代わって私の王座に着く。私は今日、そのとおりに行う」 列王記第一1:30(LSG)

はじめに

年老いて衰えた王。待ちきれずに自ら王を名乗る息子。土壇場で介入する預言者。列王記第一の最初の章は、一見遠い昔の継承争いを語っているように見えます。けれども、この物語はあなたに直接語りかけてきます。あなたの野心が神のみこころよりも先に立ってしまうとき、あなたはどうしますか。あなたの周りで、神を抜きにした計画が着々と進められているのを見るとき、あなたはどうしますか。そして何よりも、自分が年を取り、疲れ果て、以前のように反応できないと感じるとき、あなたはどうしますか。

この箇所は単なる歴史物語ではありません。一つの鏡です。ダビデはそこで年老いて弱った姿として現れ、アドニヤは自分の野心のままに行動し、ナタンとバテ・シェバは祈りをもって勇気を持って語り、そして一見沈黙しておられるように見える神は、最後まで約束を守り抜かれます。

1. アドニヤの野心:欲望が召命に取って代わるとき

アドニヤはダビデの三男です。兄であるアムノンとアブサロムはすでに死んでいました(サムエル記第二13章、18章)。アドニヤは単純にこう考えます。「今度は私の番だ。」聖書はこう記しています。「アドニヤは高ぶって、『私が王になる』と言った」(列王記第一1:5)。彼は戦車や騎兵を用意し、自分の前を走る五十人の者を備えます。いけにえを献げ、兄弟たちと王のしもべたちを招きます。すべてが整いました。ただ一つ欠けているものがあります。主のことばです。

6節には、多くを物語る一つの詳細が加えられています。「彼の父は、彼が生まれてこのかた、一度も彼を悲しませて、『どうしてこんなことをするのか』と言ったことがなかった。」アドニヤは容姿端麗で、一度も叱られたことがなく、アブサロムのすぐ後に生まれました。彼は、兄たちの過ちを見ながら育ちましたが、一度も訓戒を受けることがありませんでした。彼の野心は、神を恐れることによって形づくられたのではなく、あまりに寛容すぎる父親の沈黙によって育まれたのです。

この箇所を、19世紀末に北海道の学生たちに残された、ウィリアム・S・クラーク博士の有名な言葉「Boys, be ambitious」と比べてみると、興味深いことに気づきます。日本語において、「野心」ということばは好意的に受け止められます。それは、成功への願望、若さゆえの勢いを連想させます。けれども聖書における同じことばは、神のご計画よりも自分自身を優先させる心を描き出しています。問題は、計画を持つこと自体ではありません。問題は、その計画に誰が息を吹き込み、誰がそれに冠を授けるのか、ということです。

2. ナタンとバテ・シェバ:神は適切な時に人を起こされる

アドニヤが宴会を開いている間、神は物陰で働いておられます。預言者ナタンはバテ・シェバのもとへ行き、こう言います(11〜14節)。「あなたは、わたしたちの主君ダビデの知らないうちに、アドニヤが王になったことを聞かなかったのですか。さあ今、私があなたに助言をしましょう。」ナタンは不満を並べ立てることも、緊急会議を招集することもしません。彼は知恵と冷静さと勇気をもって行動します。

この瞬間は決定的です。神は壁に文字を書き記されるわけではありません。神は二人の忠実な人物を用いられます。語る勇気を持った預言者と、古い約束を思い起こさせるために王のもとへ入っていく勇気を持った母親です。多くの場合、神は私たちの危機に、劇的な奇跡をもって応えられるわけではありません。神は、兄弟姉妹を、長老を、ちょうどよい時に読まれた聖書のみことばを、理由も分からないまま電話をかけてくる友人を、私たちのそばに置いてくださいます。それが、神が約束を守られるやり方なのです。

3. ダビデの目覚め:弱さが真実に出会うとき

1章のダビデは、衰えた一人の人間です。聖書は二度にわたってそのことを繰り返しています(1節と15節)。彼は年老いており、体を温めてもらわなければならず、もはや自分の体の力によって治めることができません。これは単なる肉体的な弱さではありません。決断し、正し、人をまとめる力そのものが失われてしまっているのです。彼はもはや戦場の男でも、詩篇51篇の燃えるような悔い改めの人でもありません。

それでも、バテ・シェバがかつての約束を思い起こさせると、何かが再び灯ります。29〜30節。「王は誓って言った。『私をあらゆる苦難から救い出された主は生きておられる。私が、イスラエルの神、主にかけて、あなたの子ソロモンが私の後に王となると誓ったとおり、私は今日、そのとおりに行う。』」二つのことばがすべてを要約しています。「主は生きておられる。」ダビデは、たとえ自分自身が弱っていても、神は今も生きておられると告白することによって、無気力から抜け出すのです。

これは、疲れ切り、追い詰められ、霊的に消耗していると感じているあなたへの良い知らせです。あなたの弱さは、神の約束を無効にするものではありません。それはただ、あなたを唯一確かなものへと連れ戻すのです。神の真実さへと。テモテへの手紙第二2:13が言うとおりです。「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことがおできにならないからである。」

4. 王として立てられるソロモン:神は語られたことを成し遂げられる

続く箇所は、まるで反撃のように読めます。ダビデは、ソロモンを自分のらばに乗せ、祭司ツァドクによってギホンへ連れて行き、ツァドクとナタンによって厳かに油を注がせるよう命じます(32〜40節)。民は「ソロモン王、万歳」と叫びます。その歓声で地が揺れ動くほどでした。まだ食卓についていたアドニヤは、角笛の音を聞き、自分が敗れたことを悟ります。陰謀は一時間のうちに崩れ去りました。

48節。「イスラエルの神、主はほむべきかな。主は今日、私の王座に着く跡継ぎを与え、私にそれを見させてくださった。」ダビデは公にこう認めます。王冠は力ずくで奪い取られたものではなく、神によって与えられたものだ、と。神が親しい交わりの中で約束されたこと(サムエル記第二12:24〜25、ソロモンは「エディデヤ」、すなわち「主に愛される者」と呼ばれました)を、神は公然と成し遂げられたのです。

覚えておきたいポイント

  • 神に服さない野心は、どれほど見栄えよく装われていても、簒奪にほかなりません。
  • 子どもに一度も「どうしてそんなことをするのか」と言ったことのない父親は、将来の重い危機を用意していることになります。
  • 私たちが劇的なしるしを期待している場面で、神は普通の、勇気ある、祈る人々を用いられます。
  • 老いや霊的な疲れは、神の真実さを停止させるものではなく、むしろそれを明らかにするものです。
  • 神が密かに約束されたことは、その時が来れば、公に成し遂げられます。

自分への適用

  • 今日、あなたの人生の中で、神の御声よりも速く走ってしまっている野心があるとすれば、それはどこにあるでしょうか。
  • あなたの周りに、そのことばがあなたを不快にさせるために避けている「ナタン」のような存在はいませんか。
  • 最後に、御言葉の具体的な約束を神に思い起こしていただくよう、「あなたがそう言われたのですから、成し遂げてください」と祈ったのはいつのことでしょうか。
  • もしあなたが年を取り、疲れ果て、霊的に冷えていると感じているなら、今日声に出して告白できる、かつての約束は何でしょうか。

引用された聖句

よくある質問

アドニヤとは誰ですか。
アドニヤはダビデの三男で、アムノンとアブサロムの後に生まれました。ダビデの治世の終わりに、ソロモンが正式に指名される前に、自ら王を名乗ろうとしました(列王記第一1:5〜9)。

年上であるアドニヤではなく、なぜ神はソロモンを選ばれたのですか。
サムエル記第二7章とサムエル記第二12:24〜25が思い起こさせるように、神はすでにダビデに、ソロモンが跡継ぎとなることを約束しておられたからです。旧約聖書における継承は、単なる出生順ではなく、神の選びに従うものです。

1章のダビデのように、霊的に弱っていると感じるときはどうすればよいですか。
御言葉の具体的な約束に立ち返り、それを声に出して語り、自分の力ではなく神の真実さに寄りかかってください。神の真実さは、あなたのその時々の霊的な状態に左右されるものではありません。

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