はじめに
この人生には、重く感じる問いがたくさんあります。どの学校を選ぶか、どんな仕事に就くか、誰と結婚するか、どこに住むか、老後をどう備えるか。そのひとつひとつが、あなたの心にのしかかります。しかし、そのすべてを上回る問いが一つだけ存在します。それは、あなたの現在だけでなく、あなたの永遠に関わる問いだからです。その問いとは、こうです。あなたの信仰、あなたの救いは、本物でしょうか。
これはまさに、ヨハネ8:31〜36の箇所を貫いている問いです。イエスは、ご自分が世の光であると語られたばかりでした。「もしあなたがたが、わたしがそれであることを信じないなら、あなたがたは自分の罪の中で死ぬ」(ヨハネ8:24)と警告されています。そして30節は、「これらのことを話しておられると、多くの人がイエスを信じた」と告げています。一見すると、良い知らせです。しかし、その数節後、同じイエスが同じ人々にこう言われます。「あなたがたはわたしを殺そうとしている」(37節)、「あなたがたの父は悪魔である」(44節)、「あなたがたが聞かないのは、あなたがたが神から出た者ではないからである」(47節)。
何が起きたのでしょうか。彼らは信じたと告白していましたが、その信仰は本物ではありませんでした。そして聖書は、この点について何度も私たちに警告しています。イエスはすでにマタイ7:21〜23でこう語っておられました。多くの者が「主よ、主よ」と言い、預言をし、悪霊を追い出し、御名によって奇跡を行ったと言うでしょう。しかし、イエスはこう答えられます。「わたしはあなたがたを全く知らない。わたしから離れて行きなさい。」
イエスを「主よ、主よ」と呼ぶ人々は、無関心な人々ではありません。彼らは、自分が救われていると思い込んでいる人々です。聖書を知り、教会に通い、奉仕をしている人々です。今日でも、多くの人がイエスを告白し、聖書の教えに賛同し、御名によって働いていますが、本当の意味で信仰を持っている人は少ないのです。では、どうすれば分かるのでしょうか。最後の日にではなく、今この時から、あなたの信仰が本当に神から来たものであると、どうすれば確信できるのでしょうか。
この箇所は、真の信仰の二つのしるしを示しています。すべての真の弟子に神が求めておられる二つのしるしです。それを一緒に見ていきましょう。
この記事の構成
1. 真の信仰は、主の御言葉にとどまる
2. 真の信仰は、罪の奴隷状態から解放されている
3. ユダヤ人たちの高慢な反応と、救い主の忍耐
1. 真の信仰は、主の御言葉にとどまる
31節で、イエスは、たった今ご自分を信じたと言った人々に語りかけ、こう言われます。「もしあなたがたが、わたしのことばの中にとどまっているなら、あなたがたは本当にわたしの弟子です。」
ここで、重みを持つ二つの言葉があります。まず、とどまるという動詞です。これは、その場に残り続けるもの、去っていかないもの、そこに住み続けるものを表しています。真の弟子とは、イエスのそばで一時を過ごすだけの人、その教えに一時的に心を動かされるだけの人、都合がよいときだけ従う人ではありません。真の弟子は、イエスからも、その御言葉からも離れていきません。この御言葉に自分を治めさせます。それを自分の住まいとします。時が良くても悪くても、御言葉が甘くても厳しくても、その人は御言葉を求め、その前にへりくだり、喜んでそれに従い、それを愛します。注解者レオン・モリスがまとめているように、「イエスに表面的な関心を寄せることは簡単だ。本当に問われているのは、とどまり続けることだ」。
次に、もう一点に注目してください。イエスは「もしあなたがたがわたしのことばの中にとどまっているなら、あなたがたはわたしの弟子になるでしょう」とは言われません。「あなたがたは本当にわたしの弟子です」と言われるのです。御言葉に従うことは、救いをもたらすものではありません。救いはいつも、恵みにより、ただイエス・キリストへの信仰によってのみもたらされます。エペソ2:8〜9にはこうあります。「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われたのです。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることのないためです。」
しかし、恵みによって生まれる真の信仰は、いつもこの実を結びます。すなわち、御言葉の中にとどまり続けるという実です。次の節はこう続けます。「私たちは神の作品であって、良い行いをするために、キリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、あらかじめ良い行いを用意しておられました」(エペソ2:10)。イエスは「わたしのことばにとどまれば救われる」とは言われません。「もしあなたが本当に救われているなら、あなたはわたしのことばの中にとどまるようになる」と言われるのです。
「行い」という言葉を聞いて、律法主義だと叫ぶ人もいます。「いや、一度告白したら、それで終わりだ。行いはもう救いとは関係ない。」これは半分しか正しくありません。どんな行いも救いをもたらすことはできません。しかし、恵みによる救いは、その同じ恵みによって、その人を変え、その人の内に必然的に良い行いを生み出すのです。恵みは罪から救うだけでなく、人を新しく造り変え、主の喜びのために生きるよう促すのです。
これは孤立した考えではありません。ヨハネは、自分の書いた文書全体を通してこれを繰り返しています。ヨハネ14:21。「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。」ヨハネ14:23〜24。「もしだれかがわたしを愛するなら、その人はわたしのことばを守ります……わたしを愛さない者は、わたしのことばを守りません。」そして、彼の第一の手紙、ヨハネ第一2:3〜5。「もし私たちが神の命令を守るなら、それによって私たちが神を知っていることが分かります。『私は神を知っている』と言いながら、その命令を守らない者は偽り者であり、真理はその人のうちにありません。しかし、神のみことばを守る人には、神の愛が確かに全うされているのです。」
これは、真の弟子が完璧に御言葉を守るという意味ではありません。あなたも経験から知っているとおりです。罪との戦い、誘惑との闘い、肉に従うべきでなかったのに従ってしまった瞬間、大きな失敗。真の弟子はそのすべてを知っています。しかし、そうした戦いの中にあってさえ、その人は御言葉から離れません。御言葉が自分を戒め、痛みを与えるときでさえ、それを固く握りしめます。なぜでしょうか。心の奥底で主を愛しており、御言葉に結びついていることこそが、その人の宝だからです。これは、イエスがヨハネ14:15で宣言されていることです。「もしあなたがたがわたしを愛するなら、わたしの戒めを守るはずです。」
マタイ13:18〜23の種蒔きのたとえを思い出してください。イエスはそこで、御言葉という種が落ちる四つの土地について描いておられます。第一の道端は、聞くことを拒む人々です。第二の岩地は、喜んで御言葉を受け入れるものの、根を持たない人々です。御言葉のゆえに苦難や迫害が来ると、すぐに倒れてしまいます。第三のいばらは、世の心づかいと富の惑わしによって御言葉が窒息させられる人々です。最後の良い地は、聞いて、悟って、実を結ぶ人々です。
第二と第三のカテゴリーに似た人々は、初めは真の弟子のように見えます。しかし、とどまり続けません。真の弟子は、とどまり続けるのです。主に従うことに大きな代償が伴うときも、誘惑が襲ってくるときも、たとえ倒れても、悔い改め、立ち返り、続けていきます。自分を捕らえてくださった方に、離れることなく結びつき続けるのです。
あなたは、周りの誰かを見ながら、こう自問したことがあるかもしれません。あの人はイエスに従っていると言っていた、自分はクリスチャンだと言っていた、それなのに今は何も残っていない、いったい何が起こったのだろう、と。私たちは人の心を見ることはできません。しかし、御言葉は少なくともこう告げています。「かつてクリスチャンだった」という状態は存在しません。その人がとどまり続ける真の弟子であるか、あるいは、初めから本当の弟子ではなかったか、そのどちらかなのです。
2. 真の信仰は、罪の奴隷状態から解放されている
二つ目のしるしは、32節から36節にあります。イエスは続けて言われます。「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
この「真理」とは誰のことでしょうか。聖書はこれをいくつかの次元で語っています。父は真理です(詩篇31:5「まことの神、主よ」)。御言葉は真理です(詩篇119:160「あなたのみことばの全体は真理です」)。聖霊は「真理の御霊」です(ヨハネ15:26)。福音そのものが「真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音」です(エペソ1:13)。
しかし、このヨハネ8章の箇所において、真理とは特に、イエスご自身とその御言葉のことです。ヨハネ14:6。「わたしが道であり、真理であり、いのちです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに来ることはありません。」
そしてこの真理は、イエスが言われるとおり、人を「自由にする」のです。ここで使われている動詞は、文字どおり、ある支配から誰かを解放すること、奴隷という身分から連れ出すことを意味します。解放されうるということは、それ以前は捕らわれていたということです。イエスはこう言っておられます。わたしは真理であり、鎖につながれている者たちを解放する力を持っている、と。
何に鎖でつながれているのでしょうか。罪にです。34節。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行う者はみな、罪の奴隷です。」例外はありません。キリストの前には、私たちの誰もが罪の奴隷として生きていました。光よりも闇を愛し、真理よりも偽りを求めていました。
あなたがイエスを信じるとき、すべてが変わります。イエスは二つの面であなたを解放してくださいます。
第一に、罪の断罪から解放してくださいます。ローマ8:1。「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」その血によって、あなたの罪は赦され、あなたは義とされ、もはや裁きの日を恐れて震える必要はありません。
第二に、罪の力から解放してくださいます。ローマ6:6〜7。「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷とならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されているからです。」以前は、あなたは抗うすべもなく罪に従っていました。今、真理を知ったあなたは、罪から逃れることができます。今も時に倒れてしまいますが、あなたはもう罪を犯すことを強いられてはいません。主の助けによって、そこから離れることができるのです。
ローマ6:16〜18は、この喜びをこうまとめています。「神に感謝すべきです。……あなたがたは義の奴隷となったのです。」罪の奴隷であったあなたは、義の奴隷となったのです。
自由を取り違えないでください。イエスが与えてくださる自由は、「自分の好きなように、思うままにする」ことではありません。それでは、あなたを自分のためだけに生きさせようとする罪の奴隷状態と、ほとんど変わりません。真の自由とは、心の底から、主を愛するがゆえに、喜んで主に従うことのできる自由です。自分のために生きていたとき、あなたは自分が自由だと思い込んでいましたが、実際には罪責感、恐れ、決して満たされることのない空虚さを抱えていました。真理があなたを解放してくれたその日、主はあなたのうちに住まわれ、あなたは主の喜び、主の満足、主を喜ばせる楽しみを知ることになったのです。これこそ、キリストが与えてくださる自由です。
3. ユダヤ人たちの高慢な反応と、救い主の忍耐
ユダヤ人たちはイエスの言葉を聞き、こう反応します。33節。「私たちはアブラハムの子孫であり、今まで誰の奴隷になったこともありません。それなのに、どうしてあなたは『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」
歴史的に見れば、彼らはエジプト人の奴隷であった時代が四百年間あり、その後もアッシリア、バビロン、シリアに支配され、そしてこのときはローマに支配されていました。肉体的には、奴隷であった歴史が刻み込まれているのです。しかし霊的には、彼らは自分たちを自由だと見なしていました。アブラハムの子として、選ばれた者として、その血筋のゆえに自動的に神の御国を受け継ぐと信じていたのです。
イエスは34節で答えられます。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行う者はみな、罪の奴隷です。」自分たちの血筋に確固たる自信を持っていたこの宗教的な人々は、救い主を必要としているとは思っていませんでした。イエスの言葉は、彼らを砕くどころか、怒らせることになります。
それでも、イエスは彼らを見捨てません。35節と36節。「奴隷はいつまでも家にとどまるのではありませんが、息子はいつまでもとどまります。ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由な者となるのです。」当時、奴隷はいつまでも家に留まることはできませんでした。ある日突然売られてしまい、自分の居場所を失うこともあり得ました。その自由は、常に一時的なものでした。
これは、まさにこの人々の状況そのものでした。彼らは自分たちを息子だと思っていました。しかし実際には、まだ罪の奴隷だったのです。変わらなければ、彼らは永遠に神から引き離されることになります。そしてイエスは、深い憐れみをもって、彼らにこう告げられます。子、すなわちわたしだけが、あなたがたを本当に自由にすることができる、と。これが、あなたの救い主の忍耐と愛なのです。
心に留めておきたいこと
- あなたの人生における最も決定的な問いは、「どこに住むか」ではなく、「私の信仰は本物か」です。
- 信仰の告白は、本物である場合も、見せかけである場合もあります。偽りの弟子は離れていき、真の弟子はとどまり続けます。
- イエスの御言葉にとどまることは救いをもたらすものではありませんが、救われた者のしるしです。
- 真の自由とは、自分の欲するままに生きることではなく、ついに喜びをもって主に従えるようになることです。
- 子であるイエスだけが、本当の意味で人を自由にすることができます。その招きは、今日もなお開かれています。
個人的な適用
- 私は本当に、主の御言葉の中にとどまっているでしょうか、それとも都合の良いときだけそこを通り過ぎているでしょうか。
- 御言葉が私を戒め、心を騒がせるとき、私はいっそうそれにしがみつくでしょうか、それとも離れてしまうでしょうか。
- 私が罪を犯すとき、戦いや、責められる思い、悔い改めたいという願いを感じているでしょうか、それとも、罪の中にいても心が動じないでいるでしょうか。
- 私が「自由」と呼んでいるものは、自分の意志を行うことでしょうか、それとも喜びをもって主に従うことでしょうか。
- もし今日イエスが私に「わたしはあなたを全く知らない」と言われたなら、私は主のうちにとどまり続けている人生の証拠をもって、それに反論できるでしょうか。
引用された聖句
- ヨハネ8:31〜36・中心となる箇所
- ヨハネ8:24・「あなたがたは自分の罪の中で死ぬ」
- マタイ7:21〜23・「わたしはあなたがたを全く知らない」
- エペソ2:8〜10・恵みにより救われ、良い行いのために
- ヨハネ14:15〜24・キリストを愛するとは、その御言葉を守ること
- ヨハネ第一2:3〜5・神を知るとは、その命令を守ること
- マタイ13:18〜23・種蒔きのたとえ
- 詩篇32:3〜4・ダビデの確信
- 詩篇31:5、詩篇119:160、ヨハネ15:26、エペソ1:13・聖書における真理について
- ヨハネ14:6・「わたしが道であり、真理であり、いのちです」
- ローマ8:1・もはや断罪はない
- ローマ6:6〜18・罪から解放され、義の奴隷となる
よくある質問
自分の信仰が本物かどうか、どうすれば分かりますか。
ヨハネ8:31〜36によれば、二つのしるしがあります。あなたがイエスの御言葉の中にとどまっていること、それが自分を戒めるときでさえもです。そして、あなたが罪の支配から解放されていること、つまり、もう罪を犯さなくなるということではなく、それに屈することを強いられなくなり、倒れたときには責められる思いを感じるということです。
「かつてクリスチャンだった」という状態はあり得ますか。
御言葉によれば、あり得ません。「かつてクリスチャンだった」という身分は存在しません。その人はとどまり続け、それによって自分が真の弟子であることを証明するか、あるいは、そもそも真の弟子ではなかったか、そのどちらかです。根がそこになかったのです(マタイ13章20〜21節)。
イエスが約束する真の自由とは、具体的にどのようなものですか。
それは「自分のしたいことをする」ことではありません。罪の奴隷状態から解放され、ついに喜びをもって主に従うことができるようになることです。断罪は取り除かれ(ローマ8:1)、罪の力は打ち砕かれています(ローマ6:6〜7)。
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