はじめに
その日曜日、モメンタム教会で、リサはバプテスマ(洗礼)を受けようとしていました。彼女が水の中に入る前に、牧師はペテロの手紙第一3章を開いて、彼女が今から何をしようとしているのかを説明しました。バプテスマは美しい宗教的儀式ではありませんし、罪を洗い流してくれる霊的なシャワーでもありません。ペテロによれば、それは「正しい良心が神に対して誓約を立てること」(ペテロの手紙第一3:21)です。おそらく、人生において最も重要な誓約でしょう。それが何を表しているのかを理解するためには、まずイエス様が地上で、そして霊的な世界で何を成し遂げられたのかを理解する必要があります。この一節ずつたどっていく道のりの先に、聖書的なバプテスマの明確な定義が見えてきます。
メッセージの構成
1. イエス様が地上で成し遂げられたこと(18節)
- 「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が正しくない者たちのために死なれたのです。それは、私たちを神のみもとに導くためでした。」
- 罪とは、私たちの道徳的な不完全さです。私たちが行うすべての悪、口にするすべての悪、考えるすべての悪、そして、できたはずなのにしなかったすべての善のことです。
- 罪が私たちに残す汚れは消すことができません。良い行いという石鹸でも、悔い改めでも、敬虔な考えでも、それを消すことはできないのです。
- 神様の基準は完全さです。この基準の前では、誰かが私たちの代わりに代価を払うしか道はありません。
- それこそ、イエス様が愛によって成し遂げてくださったことです。「正しい方が正しくない者たちのために」。罪への罰は死でした。イエス様はあなたの代わりにその罰を受け、あなたを神様のもとに連れ戻してくださったのです。
2. 悪は関係を壊し、愛はそれを回復する
- 誰かに悪いことをすると、そこに距離が生まれます。少しずつ、やがて大きく、時には関係の断絶にまで至ります。それが、罪が私たちと神様との間で起こしていることなのです。
- 十字架の目的は、単に「道徳的な問題を解決する」ことではなく、壊れた関係を回復することです。「私たちを神のみもとに導くため」なのです。
- 神様は、あなたの自由意志を奪われません。神様は本物の愛の関係を望んでおられます。神様があなたを救うことを選び、あなたが神様を受け入れることを選ぶ、そういう関係です。
- イエス様が法廷であなたの罪にふさわしい罰をすでに払ってくださったのなら、あなたは自由な身として出てくることができます。神様との関係のために自由であり、今なお犯してしまう罪がもはやあなたを神様から引き離すことができないという意味で自由なのです。
- そして、死んだ人と関係を持つことはできませんから、イエス様は三日目によみがえられました。復活は、死でさえもあなたを神様から引き離すことができないことの証明なのです。
3. 救い主の苦しみに心を動かされよう
- 私たちはイエス様の死についてあまりにも語り慣れてしまい、時にはもう心が動かなくなってしまうことがあります。しかしペテロはこう言います。「キリストは私たちのために苦しまれた」と。
- イエス様は、楽な人生を送ってから十字架でつらい一瞬を過ごされたわけではありません。人間としての境遇のすべてを引き受けられたのです。
- 霊的な存在でありながら、空腹を覚え、渇きを覚え、ぶつかって痛みを感じ、疲れを感じる体を持たれました。
- 養父を失う悲しみ、身内から拒絶される痛み、平和のメッセージを伝えても石を投げられる苦しみ、絶えず誤解される辛さ、何も見返りを受けずに善を行う痛みを味わわれました。
- 血の汗を流すほどのストレス、そして鞭打ちと釘を経験されました。これは土壇場の英雄的な行為ではありません。あなたを救うためにささげられた33年もの人生そのものなのです。
4. イエス様が霊的な世界で成し遂げられたこと(19〜20節、22節)
- ペテロは次に、創世記の大洪水に話を戻します。当時、人間が全面的に堕落していたため、神様は地を水で覆われました。
- この堕落には、反逆した霊的な存在たちが一部関わっていたことが本文からうかがえます。神様は大洪水のときに彼らを「閉じ込められた」のです。
- よみがえられた後、イエス様は「獄にいる霊たちのところに行って宣言」されました(19節)。彼らに敗北を告げ知らされたのです。イエス様は人類の罪の代価を払われ、神様に喜ばれる新しい生き方を人類に教えるために来てくださいました。
- 22節は、イエス様が天に戻られ「神の右の座に着き、御使いたちと権威と力ある者たちを従えておられる」様子を描いています。これこそ、昇天が祝うことなのです。
- イエス様は苦しむ救い主としてではなく、栄光の王として、敗れた敵を従えて凱旋する将軍のように、主権を持つ主として天に帰られました。
- クリスチャンであるあなたへの良い知らせがあります。あなたはもう、他のどんなものにも従う必要はありません。罪深い欲望にも、生まれ持った性質にも、育った環境にも、心の傷にも、過去にも。どんな霊も、どんな先祖も、どんな呪いも、イエス様の前では一瞬たりとも立っていられないのです。
5. バプテスマ:救いの型であって、魔法のシャワーではない(20〜21節)
- ペテロは、いわゆる「予型論」を用いています。旧約聖書のある出来事(大洪水)が、新約聖書のある現実(バプテスマ)を前もって示しているのです。ノアとその家族は「水を通して救われ」ました。ペテロは、バプテスマも「今、あなたがたを救う」と言います。
- ただし注意が必要です。ペテロはまず、バプテスマを否定形で定義しています。それは「肉体の汚れを除き去ること」ではありません。心に刻まれた罪を取り除いてくれる霊的なシャワーではないのです。
- 水そのものに魔法の力はなく、儀式そのものにも魔法の力はありません。「その背後にある力は」と本文は明確に述べます。「イエス・キリストの復活」なのです。
- あなたには、神様に認められたり、天国に行ったりするためにふさわしくなろうとしてできることは何もありません。何もないのです。なぜなら、イエス様がすでにすべてを成し遂げてくださったからです。キリスト教とは、私たちが何もできないのに、それでも愛され、救われる宗教なのです。
6. 聖書的な定義:正しい良心の誓約
- 21節にある中心的な定義がこれです。バプテスマとは「正しい良心が神に対して誓約を立てること」です。
- 「誓約」という言葉には、宣誓や忠誠に近い重みがあります。王に忠誠を誓う騎士の行為、あるいは契約を結ぶ結婚のようなものです。
- バプテスマとは、一人の人間が、すべてを理解した上でイエス・キリストに従うことを誓う行為です。だからこそ、赤ちゃんや幼い子どもにはバプテスマを授けません。イエス様の主権を自分の人生に個人的に受け入れる、正しい良心が必要なのです。
- 結婚に似ていますが、それよりも強いものです。「死が二人を分かつまで」ではなく、「死でさえも私たちを引き離すことはできない」のです。
- 「正しい良心」とは、起きていることを理解しているという意味です。18節、19節、20節、22節でイエス様が成し遂げられたことを私は理解しています。私は自分が正しくないこと、救い主が必要であることを認め、他のあらゆる影響力を手放し、本当に私を愛してくださる方の手に主導権を委ねることを選ぶのです。
7. 水の中に入り、新しく生きるために上がってくる
- バプテスマは目に見えるしるしでもあります。水の中に沈むことは、イエス様の死を表します。そこに、象徴的に古い自分を置いていくのです。「その古い自分は水の底に残ります。」
- そして、引き上げられることは復活を表します。水から上がってきて、新しい人生を生きるのです。そこでは、もはや自分の意志や欲望ではなく、イエス様が望まれることが大切になります。
- バプテスマにおいて、私たちはイエス様に忠誠を誓います。教会にでも、牧師にでも、団体にでもありません。イエス様に対してです。
- そして、あなたがその誓約に忠実でいられないとき、失敗してしまうとき、イエス様はあなたを見放されません。そこにこそ、イエス様の愛の偉大さがあります。イエス様は、あなたが迷い込んだその場所まで探しに来て、連れ戻してくださるのです。
覚えておきたいポイント
- バプテスマを受けるには、イエス様が地上で(あなたの罪のために苦しまれ)、そして天で(反逆した霊的な力に勝利され)成し遂げられたことを理解している必要があります。
- バプテスマは罪を取り除く「霊的なシャワー」ではありません。救うのはイエス様の復活であって、水ではないのです。
- 聖書的な定義(ペテロの手紙第一3:21):「正しい良心が神に対して誓約を立てること」。それは宣誓であり、忠誠の誓いであり、結婚にたとえられますが、死よりも強いものです。
- 「正しい良心」を必要とするため、聖書的なバプテスマは、理解し選択できる人のためのものです。個人的な理解のない赤ちゃんや子どもにはバプテスマを授けません。
- 水の中に入ることは古い人生を残していくことであり、上がってくることは、よみがえられたキリストのために生きると誓い、あなたが倒れたときも見放さない神様の愛に信頼することです。
個人的な適用
- まだバプテスマを受けていないなら、今日、正しい良心をもってイエス様に誓約するこの一歩を踏み出すのを妨げているものは何でしょうか。
- すでに受けているなら、あの日あなたが誓ったことを覚えていますか。今、その「誓約」はどうなっていますか。
- あなたの人生には今も、まだイエス様の手に委ねられていない「影響力」や「主導権」がないでしょうか(恐れ、欲望、過去、他人の評価など)。
- 十字架について語るあなたの語り方は、どう変化してきましたか。それは冷めた当たり前のことになってしまったでしょうか、それとも、イエス様があなたのために苦しまれたことに、今も心を動かされているでしょうか。
- 今週、どんな具体的な行動が、神様に「もう一度あなたに忠誠を誓います。主導権を握るのはあなたです」と伝えることになるでしょうか。
引用された聖句
よくある質問
バプテスマは救われるために必要ですか。
ペテロは「バプテスマは今、あなたがたを救う」と書いていますが、すぐにこう付け加えています。それは肉体の汚れを取り除く儀式としてではない、と。救うのは、信仰によって受け取るイエス様の復活です。バプテスマは「正しい良心が神に対して誓約を立てること」です。信じる者がキリストとの契約を結ぶ、公の場での行為なのです。救われるためにバプテスマを受けるのではなく、すでに救われたからこそ、その誓約をしたいと願ってバプテスマを受けるのです。
なぜこの解釈では赤ちゃんにバプテスマを授けないのですか。
ペテロの手紙第一3:21が、バプテスマを「正しい良心が神に対して誓約を立てること」と定義しているからです。そこには個人的な理解が前提とされています。自分が正しくないことを知り、イエス様が自分のために何をしてくださったかを知り、自ら忠誠を誓うことを選ぶ、ということです。これは、まだ同意することのできない子どもの代わりに親が決められることではないのです。
19節の「獄にいる霊たち」とは誰のことですか。
ペテロは20節で、はっきりと大洪水の時代を指し示しています。本文からは、大洪水以前の堕落に関わった反逆する霊的な存在たちのことだと考えられます。神様はそれ以来、彼らを「拘束」してこられました。復活の後、イエス様は彼らに(彼らの救いではなく)ご自身の勝利を宣言されます。彼らは敗れ、イエス様は彼らが堕落させた人間たちのために代価を払われたのです。22節で強調されている根本的なメッセージは、あらゆる霊的な力が今やイエス様に従っている、ということです。
メモを取ったり質問したりするにはサインインしてください。