はじめに
2026年1月18日の日曜日、教会役員であり共同体の会長でもあるナルシス・イポテさんが、ヨハネによる福音書に記された七つの「しるし」の最初のものを、集まった皆さんと共に開いてくださいました。彼はまず微笑みながらこう切り出します。「誰もが知っているこの箇所について、いったい何をお話しできるでしょうか」。カナの婚礼、ヨハネ2章1-11節、イエス様が行われた最初の奇跡です。あまりに語り尽くされてきたために、時に当たり前のように聞き流されてしまうこの物語。けれども彼はこう続けます。「この箇所は、イエス様が本当は誰なのかを、驚くほど鮮やかに示してくれるのです」。
この最初の奇跡は、説教から始まるのでも、劇的な癒やしから始まるのでもありません。招きから、欠乏から、そして単純な従順から始まります。だからこそ、二千年以上たった今日のあなたにも、この物語は関わってくるのです。ヨハネ2章が問いかけているのは、まず「イエス様はどうやってそれをなさったのか」ではなく、「イエス様は本当は誰なのか」、そして「あなたの人生と、あなたの教会に、イエス様は何をなさろうとしているのか」なのです。
ナルシス・イポテさんがこの箇所から浮かび上がらせるのは、何かが足りなくなったときに、あなたが神様をどう待ち望むかを描き直す、七つのとても具体的な動きです。
メッセージの構成
1. イエス様は招かれた方 ― ご自分から押しかけたりはなさらない
- 「イエス様も、弟子たちと共に婚礼に招かれていた」。説教者はここを強調します。イエス様はご自分から押しかけたりはなさいません。招かれざる客として現れる姿は見られません。他の招待客と同じように、呼ばれたからそこにいらっしゃるのです。
- イエス様と花婿花嫁との関係はどのようなものだったのでしょうか。親戚、友人、それとも霊的なつながりでしょうか。ナルシス・イポテさんは言います、それはどちらでもよいのです、と。大切なのは、イエス様が喜びの時、共同体の暮らしの時、お祝いの席に招かれているということです。
- 心に留めておいてください。イエス様は危機のときにだけ招かれる方ではありません。ごく普通の暮らし、日々の生活、ありふれた祝いの時にも招かれる方なのです。婚礼は悲しみの時ではなく、喜びの時です。そしてイエス様には、そこに居場所があるのです。
- 説教者はここから、教会にとって、そしてあなた自身の人生にとって、力強い適用を引き出します。「教会はキリストなしでも機能してしまうことがあります。クリスチャンの人生も、キリストなしで回ってしまうことがあります。けれども、そのどちらも、キリストなしには神の栄光を現すことはできないのです」。正直に見つめてみてください。あなたの人生のどの部分が、うまく回っているように見えて、実はイエス様抜きで動いているでしょうか。
- 「主よ、中心にいてください」。この最初のしるしが呼び覚ます祈りは、これです。そして、ひとつのシンプルな招きによって、あなたも兄弟姉妹、友人、家族をキリストを知る歩みへと招くことができるのです。
2. 「ぶどう酒がありません」 ― あなたの欠乏を認めなさい
- 「ぶどう酒がなくなってきた」。説教者は言います、この文化圏では、婚礼でぶどう酒が足りなくなることは深刻な、ほとんど恥に近い事態だったのです。宴の準備をした人々は前もって用意していました。けれども、もう残っていません。彼らの計画は破綻したのです。
- マリアはここで、とても大切なことをします。パニックに陥ることもなく、誰かを責めることもなく、この状況をそのままイエス様のもとに持って行きます。「ぶどう酒がありません」。たった一言で十分でした。これは解決策ではなく、ただの事実の報告です。
- ここでのぶどう酒は喜びを表しています。そしてナルシス・イポテさんはこれを、あなたの人生に直接当てはめます。喜びが尽きてしまう時、恵みが薄れていくように感じる時、人手も、物資も、内なる力も、その限界に達してしまう時があるものです。物事が思い描いていた通りには進まないこともあるのです。
- 「もしかすると今朝、私の人生にはもうぶどう酒がないかもしれません。喜ぶ理由がもう見当たらないかもしれません。疲れ果ててしまい、あの力も、あの恵みも、あの喜びも、もう感じられない時があるのです」。説教者は、マリアがしたように、神様の前で正直な事実確認をするようにと、あなたを招きます。
- 信仰は、誇らしげな宣言から始まるのではありません。ひとつのシンプルで率直な言葉から始まります。「主よ、もうぶどう酒がありません」。
3. 「わたしの時はまだ来ていません」 ― 神様の時を受け入れなさい
- イエス様の答えは意外なものでした。「わたしの時はまだ来ていません」。説教者はこう言い表します。「神様の時は、人間の切迫感によって決められるものではないのです」。
- そして彼は、あなたが今朝感じているかもしれないことを、あえて言葉にします。神様の沈黙です。「その沈黙を聞くとき、祈るとき、神様に向かって叫ぶとき、私が耳にするのは沈黙なのです」。待つことは、信仰の歩みの一部なのです。
- 彼が投げかける問いは鋭いものです。祈り始めてもう十年になるとき、五年、二年、あるいはたった一分のとき、神様が常に最善の時に働かれると、どうやって受け入れられるでしょうか。ぶどう酒がなく、聞こえてくるのはただ「わたしの時はまだ来ていません」という言葉だけのとき、どうやって崩れずにいられるでしょうか。
- マリアはパニックになりません。交渉を始めることもしません。宴は彼女の周りで続いており、宴会係はまだ何が起ころうとしているのか知りません。この終わりなく思える待ち時間の中で、「教会は神様のリズムに信頼することを学ばなければならない」のです。
- 「状況がどれほど切迫していても、神様は必ず最善の時に働かれます」。それこそが、説教者の言う、真の信仰の証しなのです。
4. 「その方が言われる通りにしてください」 ― すべてを理解できなくても従いなさい
- イエス様の答えを受けて、マリアは自分の息子に命令を下したりはしません。解決策を提案することもありません。彼女は僕たちの方を向き、ひとつの重要な指示を口にします。「あの方が言われる通りにしてください」。
- そして彼女は身を引きます。物語の中で、彼女の声はもう聞こえてきません。ナルシス・イポテさんはこの身振りを強調します。マリアは采配を自分の手に取ろうとせず、すべてをイエス様に、そして単純な従順に委ねるのです。
- これは、あなたに、そして教会に向けられた、まっすぐな呼びかけです。「どうすれば従順にとどまれるでしょうか。どうすれば落胆せずにいられるでしょうか。この待ち時間の中で、どうすれば遠ざかってしまわずにいられるでしょうか」。欠乏から奇跡までにどれだけの時が流れたのか、聖書の記述は明かしていません。けれども、その間にあって大切なのは、ただひとつの態度、すなわち従うことなのです。
- 「生きた教会とは、すべてを知っている教会、多くのものを持っている教会、あらゆることを分かっている教会のことではありません。それは、誠実に従う教会のことなのです」。それは、答えを先に理解した教会ではなく、待ち望む時にあってもなお主に結びついたままでいる教会なのです。
5. 六つの水がめ ― 神様は日常のものをお使いになる
- イエス様は六つの石の水がめに目を留められます。ユダヤ人が清めの儀式のために使っていたもの、手や足を洗うためのものです。何も特別なものではありません。ありふれた、目立たない用途、「何の重要性もない、何の価値もないと思われるようなもの」です。
- そしてイエス様が用いられるのは、まさにそれなのです。「この水がめに水をいっぱい入れなさい」。彼らは縁まで水を満たします。説教者はここから、あなたの人生にも通じるひとつのイメージを引き出します。「神様はしばしば、シンプルなもの、ありふれたもの、平凡なものをお用いになります」。
- 彼は率直に自分自身のことを語ります。「たとえば、主が用いてくださっているのは、この私です。私は取るに足らない者です。ごく普通の、ありふれた人間です。主は御心のままに私をお用いになります」。あなたもそうなのです。「神様は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みをお与えになります」。
- ナルシス・イポテさんはひとつの落とし穴に注意を促します。私たちの教会は時に物事を複雑にしすぎて、「何か分からないものにたどり着こう」として壮大なことをしようとしてしまいます。けれども主が必要としておられるのは、ただシンプルなものなのです。
- もうひとつ重要な指摘。僕たちは水がめを縁までいっぱいに満たしました。「部分的な従順は、完全な変革をもたらしません」。神様は、あなたが並外れた存在であることを期待しておられません。ただ、あなたが自分自身を余すことなく差し出すことを期待しておられるのです。
6. 水を宴会係に運ぶ ― 見る前に行動する信仰
- 「さあ、それをくんで宴会の世話役のところに持って行きなさい」。僕たちは水を、まさに水を、ぶどう酒が足りないという問題を抱えたまま、責任者のもとへと運びます。証拠もなく、保証もないままに。
- 説教者はここに、信仰そのものの定義を見出します。「信仰とは、見てから行動することではありません。行動してから見ることなのです」。彼らはリスクを取ります。目に見える証拠がないままに従います。
- 僕の立場に立って、この場面を想像してみてください。もうぶどう酒がないと言われていたのに、それを味わうことになる人のもとへ、水を運んで行くのです。この行為そのものが、すでに信仰の一歩です。あなたにとっても、解決策を見る前に一歩を踏み出すよう、神様が求められる瞬間があるのです。
- この従順こそ ― シンプルで、完全で、証拠のないままの従順こそが ― 変革が可能になる通り道なのです。
7. 水がぶどう酒に変わる ― イエス様は喜びを豊かに回復してくださる
- 「これは、イエスが行われた最初のしるし、最初の奇跡である」。宴会係はそれを味わい、このぶどう酒がどこから来たのか分からないまま、花婿を呼んでこう告げます。「普通は、まず良いぶどう酒を出し……けれどもあなたは、良いものを今まで取っておかれた」。
- ナルシス・イポテさんは、その豊かさをこそ強調します。「イエス様は最低限のことをなさる方ではありません。喜びを豊かに、あふれるほどに回復してくださるのです」。六つの水がめ、それぞれ80リットルから120リットル、合わせて600リットル以上もの、最上のぶどう酒です。キリストによって変えられたぶどう酒は、最初のものよりも良いものなのです。
- 「イエス様が働かれるとき、空だったものは満たされ、平凡だったものは特別なものへ、証しへと変わります。恥だったものが栄光へと変わるのです」。足を洗うために使われていた水がめが、喜びを注ぐ器へと変わるのです。
- けれども ― これこそがメッセージの核心です ― 「奇跡とは、ぶどう酒そのものではありません。奇跡とは、イエス様が現される啓示です。それはキリストの啓示なのです」。変化それ自体が要点なのではなく、その変化が、それを成し遂げてくださった方について何を語っているか、それこそが大切なのです。
- 今日のあなたにとって、こう言えるでしょう。「私の問題、私の苦しみ、私の苦しみが喜びへと変わること、それ自体が奇跡なのではありません。奇跡とは、神様の栄光が現されることです。奇跡とは、そのすべてを通して、私が神様の栄光を見ることなのです」。
心に留めておきたいポイント
- イエス様はご自分から押しかけたりはなさいません。招かれてこそ来てくださる方です。教会も人生も、イエス様なしで回ってしまうことはあります。けれども、イエス様なしには神の栄光を現すことはできません。
- 信仰は、正直な事実確認から始まります。「主よ、もうぶどう酒がありません」。欠乏を認めることは信仰の欠如ではなく、信仰の第一歩なのです。
- 神様の時は、人間の切迫感によって決められるものではありません。沈黙の中で、待つことは信頼を学ぶ学校となります。神様は必ず最善の時に働かれます。
- 「あの方が言われる通りにしてください」。生きた教会とは、すべてを知っている教会ではなく、誠実に従う教会です ― たとえ理解できていなくても。
- 神様は日常のものをお用いになります。足を洗うための水がめ、名もなき僕たち、そしてあなたのような普通の人。そして神様が期待されるのは、部分的にではなく、完全な従順です。縁までいっぱいに満たされた水がめのように。
- 奇跡とは、変化そのものではありません。それを貫くイエス様の啓示こそが奇跡です。あなたの奇跡を追い求めるのはやめて、神様の栄光を求めましょう。
個人への適用
- あなたの「招き」は今どうなっていますか。あなたの人生や奉仕の中に、機能してはいるけれども、イエス様が中心にいないという領域はありませんか。今日、それらを正直に主の前で言い表してみましょう。
- 今、あなたにはどんな「ぶどう酒」が足りていませんか。喜び、力、恵み、平安、明晰さ ― どれでしょうか。マリアがしたように、シンプルにこう言ってみる時間を取ってみてください。「主よ、もうぶどう酒がありません」。交渉もせず、説明もせずに。
- あなたは今、何について「わたしの時はまだ来ていません」という言葉を聞いていますか。いつからでしょうか。その沈黙を、自分自身で埋めようとせず、誰かに八つ当たりせず、心を頑なにすることもなく、耐え抜くことができますか。
- あなたがまだ結果が見えないという理由で、半分しか従っていないイエス様からの明確な指示はありませんか。その領域で「水がめを縁までいっぱいに満たす」とは、具体的にどういうことでしょうか。
- 説教者は、教会の責任者として、とても個人的な呼びかけでメッセージを締めくくりました。私たちは時に、物質的なものに価値を置きすぎてしまいます ―「この場所にあるあの椅子、あの場所にあるあの鍋」というように ― そして、すぐそばで苦しんでいる兄弟姉妹に、十分な価値を置けていないことがあります。あなたの周りにいる誰に、今週、本来の価値を取り戻してあげるべきでしょうか。
引用された聖句
- ヨハネ 2:1-11 ― カナの婚礼におけるイエス様の最初のしるし。
- ヨハネ 2:5 ― 「母は召使いたちに言った。『あの方が言われる通りにしてください』」。
- ヨハネ 2:11 ― 「イエスはこのようにして御自分の栄光を現された。それで弟子たちはイエスを信じた」。
- ローマ 16:11 ― 「ナルキソの家の人々によろしく」(説教者自身も同じ名を持つことから、メッセージの冒頭でこの箇所に触れています)。
- ヤコブ 4:6 ― 「神は高慢な者を退け、へりくだる者に恵みをお与えになる」。
よくある質問
ヨハネはなぜ「奇跡」ではなく「しるし」と語るのでしょうか。
ヨハネによる福音書では、それぞれの奇跡は、その業がどれほどすごいかではなく、それが何を指し示しているかのために語られているからです。聖書自身がこう記しています。「イエスはこのようにして御自分の栄光を現された。それで弟子たちはイエスを信じた」。説教者は何度もこの点に立ち返ります。「奇跡とは、ぶどう酒そのものではありません。奇跡とは、イエス様の啓示です」。ぶどう酒が変わるのは、私たちがキリストが誰であるかを見る必要があるからです。それはヨハネの七つのしるしすべてに当てはまり、今日、神様があなたの人生の中で行っておられる変化にも当てはまります。それらは、まずあなたを楽にするためにあるのではなく、あなたに神様の栄光を見せるためにあるのです。
「わたしの時はまだ来ていません」と聞こえてくるとき、どうすればよいのでしょうか。
従順にとどまり続けてください、とナルシス・イポテさんは言います ― そしてマリアを手本にしてください。彼女はパニックにならず、無理に事を進めようとせず、他のところへ行ったりもしません。僕たちに「あの方が言われる通りにしてください」と告げ、そして身を引きます。神様の沈黙は、神様の不在ではありません。それは神様のリズムなのです。「待つことは信仰の歩みの一部なのです」。まだぶどう酒が見えなくても、すでに求められていることを続け、水がめを満たし続けましょう。
「キリストを教会の中心に戻す」とは、具体的にはどういうことでしょうか。
共同体の会長でもある説教者は、メッセージの最後でこの点についてとても具体的に語ります。それは、椅子の置き場所や鍋の順番といった物質的なことに過度な重きを置くのをやめ、神様の目から見て本当に価値のあるもの ― あなたの兄弟の心、あなたの姉妹の人生、彼らが今通り抜けていること ― に目を向け直すということです。教会は、キリストなしでも、よく整った機械のように機能してしまうことがあります。けれども決してその栄光を現すことはできません。キリストを中心に戻すとは、招きのための場所、共に分かち合う欠乏のための場所、単純な従順のための場所を、もう一度作り直すことです。そして、本当に大切なのは、神様があなたのそばに置いてくださった人々なのだと、改めて気づくことなのです。
Église Protestante Évangélique de Paris Beaugrenelleの説教を見逃さない
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