神が増やされたものは、一人では背負えない

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はじめに

ヨルダン川のほとりに立つモーセのまなざしには、心を揺さぶるものがあります。彼がエジプトから導き出した民が、かつてないほど大きな群れとなって目の前にいます。そして彼は、今も語り継がれる一言を口にします。「私は、あなたがたを一人で背負うことができない。」これは弱さを取り繕った言い訳ではありません。神の御業を前にした、一人の誠実な人間の真実の言葉です。

9月14日の礼拝では、申命記が開かれました。読まれたのは申命記1章8〜18節マタイの福音書9章35〜38節です。この二つの箇所は、異なる角度から同じことを語っています。神が増やしてくださったものを、誰も一人で背負うことはできない、ということです。そこには働き手が必要であり、分かち合いが必要であり、選び取る勇気が必要なのです。

この記事は、その説教の流れをたどるものです。あなたが成長しつつある教会にいるなら、あなたが担っている責任が重く感じられ始めているなら、あるいは一人取り残されることを恐れて関わることをためらっているなら、この言葉はあなたのためのものです。主は、ご自分がなさる御業をあなたに背負わせようとしているのではありません。あなたにその一端を担ってほしいと招いておられるのです。

この記事の構成

1. 申命記:繰り返すことで心に刻む書

2. 思い起こす:神は増やし、約束を守られる

3. モーセの嘆き:成長が重荷になるとき

4. 責任を分かち合う:千人隊長、百人隊長、十人隊長

5. 差別せず、恐れず:教会に宿る神の御性質

6. 収穫は多い:主に働き手を送ってくださるよう祈る

1. 申命記:繰り返すことで心に刻む書

語り手はまず言葉の説明から始めましたが、これはじっくり味わう価値があります。「申命記」という言葉はギリシャ語に由来し、「第二の律法」あるいは「律法の繰り返し」を意味します。一方、ヘブライ語での書名は本文の最初の言葉、すなわち「言葉」をそのまま用いています。二つの角度から見た、一つの書。それは何度も語り直され、繰り返され、心に刻み込まれる「言葉」です。

この書全体を通して、まるでリフレインのように三つの動詞が繰り返し現れます。思い起こす、聞く、選ぶです。これらは飾りではありません。聖書全体を貫く中心的な概念、すなわち「契約」へとあなたを結びつけるものです。私たちが仕えているのは、契約を結んでくださる神です。かつてはイスラエルの民と、そして今日は御自分の教会と契約を結ばれます。あなたの新約聖書の冒頭に記された「聖書」という言葉自体も、実は「契約」を意味します。結婚指輪のように、それはあなたを結びつけるものです。もしあなたがキリストに従うという決断によってこの契約に入っているなら、それはあなた自身をも結びつけています。これは冷たく法的なものではなく、関係的なものなのです。

申命記は、イスラエルの民が現在に立ち向かえるように、過去を振り返らせます。それは良い成績を取るための歴史の授業ではありません。自分を武装させるための思い起こしです。神が昨日なさったことによって、今日励まされるためのものです。そしてそのすべては、約束の地に入るという大きな使命を見据えてのことでした。

2. 思い起こす:神は増やし、約束を守られる

申命記1章10節から取られています。「あなたがたの神、主はあなたがたを増やされ、見よ、あなたがたは今日、空の星のように多い。」これは語り手自身がずいぶん前、まだ最初に牧会していた教会にいたころに、強く心を打たれた一節でした。私たちの神がいのちを増やしてくださること、約束のとおりにご自分の民を増やしてくださることを、この言葉は教えてくれます。

ここでモーセは一つの事実を確認しています。かつて神はアブラハムとその家族から始められました。そして今、モーセの目の前には、この上なく大きな民がいます。ヘブル人への手紙は後に、この成就をさらに強調することになります。神は約束を守られます。語られたことを、必ず実行してくださるのです。

あなたに問われているのは、シンプルな問いです。あなたは今、主とどのような関係にいますか。主はあなたの人生の中で、すでに何をなさいましたか。そして、たとえこの二年間だけであっても、この教会の中で何をなさいましたか。ここで大切なのは、ただ「思い出す」ことだけではありません。感謝するために思い起こすことです。主のすべての恵みの前で、感謝をもって立つためです。

「神の恵みを数えよ」という古い賛美歌をご存じかもしれません。歌うのは簡単ですが、実際に数えることが必要です。書き留めることが必要です。私たちの頭の中は、毎日無数のことでいっぱいになっています。今日の午後、少しの時間を取って、神がなさったことを振り返ることは、感傷的な行為ではありません。あなたをもう一度立ち上がらせる訓練です。もしまだこの歩みを始めていないなら、今こそ選び取るときです。それが申命記のもう一つの動詞、「選ぶ」です。

3. モーセの嘆き:成長が重荷になるとき

二つ目の展開は、とても人間的なものです。9節でモーセはこう言っています。「あの時、私はあなたがたにこう言った。『私は、あなたがたを一人で背負うことができない。』」語り手はこれを「モーセの嘆き」と呼びました。この民、彼自身が微笑みながら「不平を言う民」と呼ぶこの人々を導く責任は、彼にとって次第に重くなっていったのです。

その日の訳文は正確でした。「一人で背負う」とは、あなたがたを導く責任を一人で担うという意味です。それが重いのです。12節でモーセはこう続けます。「私はどうして、あなたがたの重荷と負担と争いを、一人で背負うことができようか。」ここで語られているのは、単なる不平や愚痴だけではありません。民の間で実際に起きている法的な争いのことでもあります。それぞれが自分の天幕を前に「これは私のもの、あなたのものではない」と言い張る。争いの重さが、一人の人間には耐えきれないほど大きくなっていったのです。

そしてここに、実は慰めとなる真実があります。モーセが「もう耐えられない」と言うとき、それは自分のためだけに語っているのではありません。あらゆる教会の歩みに通じる真実を語っているのです。成長は困難を伴う、ということです。歴史は彼らにとっても、私たちにとっても、決して薔薇色一色ではありません。しかし、この困難は失敗のしるしではありません。むしろ、神が働いてくださったしるしなのです。民が大勢いるのは、神が増やしてくださったからです。モーセが背負っている重さは、祝福の重さです。そして祝福は、一人で背負うようにはできていません。

もしあなたが今、チームで、奉仕の場で、あるいは家庭の中で、自分が背負っているものに押しつぶされそうになっているなら、ここで立ち止まってください。語り手はあなたに、強がりを演じるよう勧めているのではありません。モーセのように、声に出してこう言うよう招いているのです。「私はこれを一人で背負うことができない」と。

4. 責任を分かち合う:千人隊長、百人隊長、十人隊長

続いてモーセが行うことは、今も色あせないリーダーシップの教えです。彼は、出エジプト記で舅エトロが助言してくれたことを思い起こします。民に責任者を選ばせ、彼らを任命するのです。しかもそれは、15節に明記された段階を踏んで行われます。千人の頭、百人の頭、五十人の頭、十人の頭です。

語り手はここに、今日の教会にも通じる非常にシンプルな原則を見出しました。小さな責任もあれば、大きな責任もある。そしてその両方が必要だということです。誰もが最初から説教をするわけではありません。まずは誰かに、具体的な奉仕を任せるのです。奉仕の内容は人それぞれ異なりますが、それを分かち合うことで、責任を負う人々の負担ははるかに軽くなります。

新約聖書もまた、執事という形で同じ考えを受け継いでいます。食事の配給や、やもめたちを訪ねる働きを担う人々です。それは使徒たちが祈りと御言葉の奉仕を軽んじたということではありません。配給や運営といった働きに専念する別の人々の場所もある、ということです。それぞれが自分の分を担い、誰も全部を背負わない。

そして、もしあなたが関わることをためらっているなら、語り手のこの実践的な言葉は金言です。教会である責任を頼まれたとき、あなたはこう言うことができます。「半年、あるいは一年だけ引き受けて、また改めて考え直しましょう」と。これは断ることではありません。ただ、これが生涯の約束ではないと伝えているだけです。そしてこれは、はるかに解放的なことです。主はあなたに力を与えてくださいます。新しい責任にはそれぞれ制約が伴いますが、もしあなたが「一生ここから抜け出せない」と思い込んでいるとしたら、あなたを立ち止まらせているのは奉仕そのものではなく、その思い込みなのです。

5. 差別せず、恐れず:教会に宿る神の御性質

モーセは責任者を立てると同時に、すぐさま規則を定めます。16〜17節は、リーダーシップの教えを凝縮した一節です。「あなたがたの同胞の言い分を聞き、人と人との間、あるいは在留異国人との間の争いも、正しく裁け。裁判では、えこひいきをしてはならない。身分の低い者にも高い者にも、同じように耳を傾けよ。人を恐れてはならない。裁きは神のものだからである。」

語り手は二つのことを強調しました。

一つ目:誰にも肩入れしないこと。これは教会において非常に大切な規則です。もし人々が「あの人の方が自分より大事にされている」と感じるなら、彼らは傷つきます。それは人間として自然な感情です。しかし、この不公平な感覚は避けなければなりません。身分の低い者にも高い者にも耳を傾けるとは、神があなたの道に置かれたすべての人を、その持ち物や世間的な立場に関わらず、真剣に受け止めることです。

二つ目:在留異国人、弱い立場の人を守ること。申命記、そして旧約聖書全体には、神の民が自分たちの国にやって来た人々を世話し、愛し、守るべきだという言葉であふれています。語り手ははっきりとこう述べました。憎しみや差別は、教会に居場所を持たない、と。私たちは共に生きることを学ぶ民です。私たちの規模なりに社会への模範となり、互いに共にあることの豊かさを知っている民なのです。

なぜでしょうか。それが神の御性質だからです。神があなたに、子どもを抱えたシングルマザーを、在留異国人を、最も弱い立場にある人を気にかけるよう求めるのは、神を喜ばせるためではありません。神ご自身が、そういうお方だからです。弱い立場の人々を気にかけることは、神の御心そのものです。そして聖霊は、私たちが同じ心を生きられるように助けてくださいます。

語り手はもう一つのことにも触れました。奉仕を分かち合うことは、単なる運営上の人間の知恵ではありません。それは神ご自身に内在するものです。神は三位一体であり、父、子、聖霊です。神ご自身がすでに、その内で分かち合っておられます。だから私たちも同じように分かち合うのです。

最後に、恐れについてです。恐れは両方の側面をふさぎます。人の目を恐れて関わることをためらう人々をふさぎ、また、すでに責任を担っている人々をもふさぎます。彼らは時に一人きりだと感じながら、自分の悩みや不安を口にすることができずにいます。誰もバーンアウトと無縁ではありません。リーダーシップの責任を担う人々にとって、教会の内でも外でも、心を打ち明けられる相手を持つことはとても大切です。それは贅沢なことではなく、牧会上の必要なことなのです。

6. 収穫は多い:主に働き手を送ってくださるよう祈る

礼拝で読まれた二つ目の箇所は、新約聖書への橋渡しとなりました。マタイの福音書9章35〜38節です。「イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やされた。群衆を見て、イエスは深く憐れまれた。彼らが羊飼いのいない羊のように、弱り果てて倒れていたからである。そこで弟子たちにこう言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、その収穫のために働き手を送ってくださるよう祈りなさい。』」

これは福音書に置き換えられた、同じイメージです。神が増やしてくださる民は、刈り取りを待つ畑です。そしてその認識は、モーセのそれと変わりません。もっと多くの働き手が必要だ、ということです。誰もこれを一人で背負うことはできません。イエスご自身でさえも、それは同じです。だからこそイエスは、他の人々が送り出されるようにと、弟子たちに祈るよう求めておられるのです。

イエスによって変わったことは、モーセが民のすべての問題を担いきれなかったのに対し、イエスは担うことがおできになるということです。誰も背負うことのできなかったものを、イエスは背負ってくださいます。そして今日教会にいるあなたに、イエスは二つのことを求めておられます。まず祈ること(収穫の主は送り出される方であり、あなたが人を募るのではなく、主が送り出してくださるのです)。そして次に、あなた自身がその働き手の一人となる備えをすることです。

並外れた賜物は必要ありません。語り手はこう言いました。教会には、生まれ持った才能を持つ人々もいれば、聖霊の賜物を持つ人々もいます。ある人は美しい声を持っていますが、それも磨く必要があります。ある人は語る賜物を持っていますが、それもときに訓練され、導かれる必要があります。生まれ持った才能は出発点であって、言い訳ではありません。すべては磨かれ、分かち合われ、収穫のために用いられていくのです。

心に留めたいこと

  • 神は約束されたことを増やしてくださいます。その恵みを数えることは選択肢ではありません。前へ進もうとする信仰者にとっての、最初の行いです。
  • 成長は重さを伴います。それは失敗ではなく、しるしです。祝福の重さは、分かち合うためのものです。
  • 責任を分かち合うことは聖書的な原則です。千人隊長、百人隊長、十人隊長、それぞれの分量に応じて、誰も全部を背負いません。
  • 誰にも肩入れせず、誰も恐れないでください。身分の低い者にも高い者にも耳を傾け、弱い立場の人を守り、差別を拒んでください。
  • 収穫の主に祈ってください。そして、自分自身を差し出してください。収穫は多く、働き手は少ないのです。

あなた自身への適用

今週、静かな時間を取り、正直に自分にこう問いかけてみてください。

  • この十二ヶ月の間に、神が私の人生に置いてくださった具体的な恵みを五つ挙げるとしたら何でしょうか。それを声に出して、主に感謝を捧げたことがあるでしょうか。
  • 今、分かち合えるはずなのに、私が一人で背負っているものは何でしょうか。今週、誰に助けを求めることができるでしょうか。
  • 私の教会に、生涯続くのではないかという恐れから避けている責任はないでしょうか。「半年だけ、また改めて考える」と言うことはできないでしょうか。
  • 神が私の道に置いてくださっている人(在留異国人、シングルマザー、より弱い立場の兄弟姉妹)の中で、私がつい後回しにしてしまっている人はいないでしょうか。
  • 神が、私の地域で、私の教会で、私の職場で、収穫のために働き手を送ってくださるようにと、祈る時間を取っているでしょうか。

引用された聖書箇所

  • 申命記 1:8-18(LSG) ・モーセは民を一人で背負うことができないことを思い起こし、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長を立てたことを語る。
  • マタイ 9:35-38(LSG) ・イエスは弱り果てて倒れている群衆を見て、弟子たちに収穫の主に働き手を送ってくださるよう祈るように求める。
  • 申命記 17:18-20(LSG) ・王は自分のためにこの律法の写しを書き記さねばならないという、語り手が触れた箇所。
  • 詩篇 27篇(LSG) ・賛美の時間に歌われた「主はわが光、わが救い」。
  • 出エジプト記 18章(LSG) ・エトロがモーセに権限を委任するよう助言する箇所。

よくある質問

なぜ今、旧約聖書の律法の書である申命記を説教するのですか。

申命記は単なる法律集ではないからです。これは、約束の地の境界に立つ民に向けて語られた、モーセの一連の説教です。その三つの鍵となる動詞(思い起こす、聞く、選ぶ)は、今もクリスチャンの歩みの中心にあります。神がご自分の民と契約を結ばれることを思い起こさせてくれる書であり、その契約は今日の教会にも当てはまります。

教会で責任を引き受けるべきかどうか、どう見極めればよいですか。

語り手はシンプルで解放的な基準を示しました。「一生の約束」として考えないことです。半年、一年といった限られた期間を提案し、そのあとで見直すのです。もしその招きが主から来ているなら、主が力を与えてくださいます。そうすれば、その制約は罠ではなく、学びの場となるでしょう。

すでに責任を担っていて、疲れ果ててしまったらどうすればよいですか。

モーセのようにしてください。声に出して、「私はこれを一人で背負うことができない」と言うのです。心を打ち明けられる誰か(あなたの群れの内でも外でも)を見つけてください。誰もバーンアウトと無縁ではなく、責任を担う人々もまた、耳を傾けてもらう必要があります。奉仕を分かち合うことは、単なる良い実践ではありません。それは、父、子、聖霊という三位一体である神ご自身の心から来ている原則なのです。

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