イエスの最後の勧め 愛と聖霊
Renathe YAO牧師による説教、ICC TVモントリオール。
はじめに
人が自分の歩みの最後にたどり着くとき、私たちはその人が語ることに耳を傾けるための時間を取ります。最後のことばには、メッセージが込められています。イエスもまた、去って行かれる前に、弟子たちに向けて具体的なことばを残されました。
ヨハネは自分の福音書の最初の十二章を、イエスの公の奉仕にあてています。数々の奇跡、ナタナエル、ニコデモ、サマリアの女性との出会い、弟子たちの召命です。13章から、語り口が変わります。イエスは身内の者たちと共に退かれます。心と心の交わりへと移っていきます。そして、これから先のための指針を伝えられます。
ヨハネによる福音書13章、14章、15章、16章を読み返すと、二つのことばが繰り返し現れます。愛と聖霊です。これらは、弟子であることにおいて譲ることのできない二つの側面です。これらなしには、あなたはイエスの重荷を担うことができません。これらなしには、あなたは弟子を作ることができません。
記事の概要
- 愛 弟子であることの出発点
- 愛は、あなたを親密な関係へと導く
- 愛は、あなたを使命へと導く 「私の羊を飼いなさい」
- 聖霊、慰め主であり油注ぎ
- 「あなたがたは力を受ける」 使徒言行録1章の約束
1. 愛 弟子であることの出発点
ヨハネによる福音書14章で、イエスは率直にこう言われます。「私を愛する者とは、私の戒めを保ち、それを行う者である。私を愛する者を、私の父も愛してくださる。私もその人を愛し、その人にご自分を現す」。
つまり、イエスを愛していなければ、その戒めを守ることはできないということです。なぜ御言葉が自分の内にとどまらないのだろうと不思議に思ったことはありませんか。なぜ読んでも、聞いても、何も変わらないのだろうかと。そのときは、イエスへのあなたの愛を見つめ直してください。
この戒めは新しいものではありません。神がご自分の民をエジプトから導き出されたとき、神は何よりも先にこの御言葉を与えられました。「あなたの神、主を愛しなさい」。そして神は繰り返し語られました。それをあなたの額に刻みつけ、あなたの門に書き記し、あなたの子どもたちに教え、朝も夕もそれを思い起こしなさい、と。神は、あなたが神を愛していなければ、それ以外のことも守ることができないと知っておられたのです。
ヤコブは別の言い方でこれを語っています。御言葉を聞くだけで行わない人は、鏡で自分の姿を見て、立ち去るとすぐに自分がどんな人間であったかを忘れてしまう人に似ている、と。何の変化もありません。なぜでしょうか。そこに愛が欠けているからです。
2. 愛は、あなたを親密な関係へと導く
誰かを愛していないとき、あなたはその人と親密になろうとはしません。「なぜ自分は隠れた場所にいないのだろうか」という問いには、単純な答えがあります。そこに愛がないからです。
パウロはエフェソの信徒への手紙5章でこのたとえを取り上げます。「それゆえ、人は父と母を離れて、自分の妻と結ばれ、二人は一体となる。この奥義は偉大です。私はキリストと教会について言っているのです」。地上の結婚は、キリストと教会との結婚を映し出すものです。しかし、愛のない結婚は、常に裏切りに終わってしまいます。
神はこのことを、ホセアを通して示されます。神はホセアに、遊女ゴメルを妻とするよう求められます。彼女は子どもを産みますが、その後、麦や粉、贈り物を与えてくれる恋人たちのもとへと再び戻っていきます。神はホセアに言われます。「彼女をもう一度迎え入れなさい」。そして続けてこう言われます。「私の民は、まさにこのように私を扱っているのだ」。
あなたは、まるで業者のところに行くかのように神のもとに来ます。ください、ください、ください、と。神は与えてくださいます。そしてあなたは去って行きます。その間、神は隠れた場所におられます。あなたを待っておられます。あなたはどこにいるのでしょうか。忙しくしています。お金を求めることに忙しく。自分の魂をどこか別のところで満たしてくれる人を探すことに忙しく。忙しいのです。
それにもかかわらず、ホセア書2章18節で、神はご自分の心を開かれます。「その日には、あなたは私を『私の夫』と呼び、もう『私の主人』とは呼ばない。私は永遠にあなたのいいなずけとなる。義と公正、恵みと憐れみをもって、私はあなたのいいなずけとなる」。人間の結婚は死によって終わりますが、キリストとの結婚は永遠に続きます。
あなたが栄光から栄光へとイエスの姿に変えられていくのは、イエスの臨在の中で、そしてそこでだけです。親密な関係なしに、変化はありません。そして、あなたが隠れた場所に行くための時間を取るためには、まずイエスを愛していなければならないのです。
3. 愛は、あなたを使命へと導く 「私の羊を飼いなさい」
ヨハネによる福音書21章です。イエスは死んでよみがえられ、漁に戻っていた弟子たちのもとに現れられます。イエスは彼らと共に食事をされます。それからペトロのほうを向かれます。イエスは三度、同じ問いを彼に投げかけられます。「シモン、ヨハネの子よ、あなたは私を愛しているか」。
三度尋ねられたのは、ペトロが三度イエスを否んだからです。イエスは彼を回復させに来られたのです。そしてペトロが答えるたびに、イエスはこう続けられます。「私の小羊を養いなさい」「私の羊を飼いなさい」「私の羊の世話をしなさい」。
つながりは明白です。イエスの重荷を担うためには、イエスを愛していなければなりません。羊を養うためには、イエスを愛していなければなりません。愛がなければ、あなたは羊を養うことができません。伝道のために立ち上がることには、この愛が必要とされるのです。
正直に振り返ってみてください。あなたは何回、自分から伝道に出かけたことがありますか。誰かに求められたわけでもないのに、その人にイエスについて語りに行ったのは何回でしょうか。ある教会が伝道への外出を企画し、千人のうち26人しか動かないとしたら、それは第一に段取りの問題ではありません。愛の問題なのです。
神は聖霊によって、私たちの心にご自分の愛を注いでくださっています(ローマの信徒への手紙5章5節)。それはすでにそこにあります。あとは、それが働き出すように求める必要があります。なぜなら、愛は憐れみの心を生み出すからです。その憐れみの心が、あなたにこう言わせるのです。「いや、人々を地獄に行かせるわけにはいかない」。
自然界において、神は女性の体の中に、生まれたときからすでに何百万もの卵子を蓄えておられます。子を産み出すために必要なものはすべて、すでにそこにあるのです。自然界は、超自然的なことの反映です。教会は、子を産み出すために形づくられました。愛はすでに蓄えられています。あとはただ、活性化されるのを待っているだけなのです。
そして愛が本当に働くとき、従順と服従は、実行すべき原則であることをやめます。それらは、あなた自身のあり方そのものになります。もはや伝道の仕方を教える必要はありません。「お願いだからチラシを持って行って」というような状態ではなくなります。あなたはイエスに満たされているので、もはや恐れることがなくなるのです。
4. 聖霊、慰め主であり油注ぎ
これは、イエスがヨハネによる福音書13〜16章で弟子たちに伝えられる第二の側面です。イエスは、やがて来られる慰め主について語られます。
「私が去って行くことは、あなたがたの益になる。私が去って行かなければ、慰め主はあなたがたのところに来ないからである。しかし、行けば、私はその方をあなたがたに遣わす」(ヨハネによる福音書16章7節)。地上での奉仕の間、イエスは一度に一つの場所で弟子たちと共におられました。しかし聖霊は、一人ひとりの内に住んでくださいます。
イエスは聖霊に、具体的な名前を与えられます。パラクレートス、すなわち「かたわらに呼ばれた方」です。聖霊は教え、すべての真理へと導き、御言葉を思い起こさせ、道を示してくださいます。聖霊はまた油注ぎでもあります。行動するためにあなたを装う力です。
この二つの側面は、あなたの内で働かなければなりません。パラクレートスはあなたを導き、油注ぎはあなたを可能にします。前者がなければ、あなたは手探りで歩むことになります。後者がなければ、あなたは自分自身の力だけで試みることになります。
御霊によって歩むとは、単に「自分は御霊によって歩んでいる」と言うことではありません。それは、何をすべきかを御霊が語られるのを聞くことです。もし聞こえないなら、隠れた場所に戻ってください。妻が騒がしさの中でも夫のささやきを聞き分けるように、あなたは親密な関係にあるからこそ、御霊の御声を見分けることを学んでいきます。そして御霊の識別は、常に御言葉に基づいています。御言葉を知れば知るほど、あなたは御霊の声と他の声とを区別できるようになるのです。
5. 「あなたがたは力を受ける」 使徒言行録1章の約束
使徒言行録1章で、イエスは弟子たちと最後の食事を共にされます。イエスは彼らに、エルサレムを離れず、父が約束された賜物を待つようにと勧められます。「ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく、聖霊によってバプテスマを授けられる」。
しかし弟子たちは、別の問いを投げかけます。「主よ、イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか」。イエスは彼らの視点を正されます。「父がご自分の権威によって定められた時や時期を知ることは、あなたがたの務めではない。しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受ける。そして、あなたがたは私の証人となる」(使徒言行録1章7〜8節)。
ここに区分があります。時についての憶測はいりません。天でどんな食事をするかという計算もいりません。この地上での仕事は、聖霊とその力を受け、証人となることなのです。
ペトロはそれを理解していました。彼には妻がおり、子どもたちがおり、仕事がありました。イエスから二階の部屋で待つようにと言われたとき、彼はそれが十日間も続くとは知りませんでした。それでも彼はとどまりました。あなたをとどまらせるのは、愛です。あなたを力をもって送り出すのは、聖霊です。
覚えておきたいポイント
- 弟子であることは、二本の柱の上に成り立っています。イエスへの愛と、聖霊に満たされることです。どちらか一方ではなく、両方が必要です。
- 愛は従順に先立ちます。あなたが戒めを守るのは、規律正しいからではなく、イエスを愛しているからです。
- 愛なしに親密さはなく、親密さなしに変化はありません。あなたがイエスの姿に変えられるのは、隠れた場所においてなのです。
- 「私の羊を養いなさい」は、「あなたは私を愛しているか」を前提としています。私たちは義務によって魂の世話をするのではありません。あふれる愛によってそれを行うのです。
- 聖霊は二つの側面において働かれます。パラクレートス(導き、教え、慰める)と、油注ぎ(行動のための力で装う)です。その両方を求めましょう。
自分への適用
- 最後に、隠れた場所で主と共に、一人で長い時間を過ごしたのはいつですか。本当のところ、それを妨げているものは何でしょうか。
- ここ数か月のあなたの御言葉との向き合い方を振り返ってみてください。それはあなたの内にとどまり、行いへとつながっているでしょうか。それは、キリストへのあなたの愛について何を物語っているでしょうか。
- 今年、あなたは何回、イエスを知らない誰かに自分からイエスについて語りましたか。その数字は、あなたに何を明らかにしているでしょうか。
- あなたは日常生活の中で聖霊の御声を聞き分けていますか。語っているのが聖霊であって、自分自身の考えではないと、どうやって分かるでしょうか。
- あなたの人生の中に、本来神が占めるべき場所を奪っている「恋人」、仕事、人間関係、娯楽、あるいは思い煩いはないでしょうか。あなたは今日、神のもとに立ち返る備えができていますか。
引用された聖句
- ヨハネによる福音書 14章15〜21節 · 「私の戒めを保ち、それを守る者、それが私を愛する者である」。
- ヨハネによる福音書 16章7節 · 「私が去って行くことは、あなたがたの益になる。私が去って行かなければ、慰め主はあなたがたのところに来ないからである」。
- ヨハネによる福音書 21章15〜17節 · 「シモン、ヨハネの子よ、あなたは私を愛しているか。私の羊を飼いなさい」。
- 使徒言行録 1章4〜8節 · 「あなたがたは力を受ける。聖霊があなたがたの上に臨まれ、あなたがたは私の証人となる」。
- エフェソの信徒への手紙 5章31〜32節 · 「この奥義は偉大です。私はキリストと教会について言っているのです」。
- ホセア書 2章16〜19節 · 「あなたは私を『私の夫』と呼び、もう『私の主人』とは呼ばない」。
- 申命記 6章4〜9節 · 「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。
- ローマの信徒への手紙 5章5節 · 「神の愛は、私たちに与えられた聖霊によって、私たちの心に注がれている」。
- ヤコブの手紙 1章22〜25節 · 「御言葉を行う人になりなさい。ただ聞くだけの者となってはいけません」。
- エフェソの信徒への手紙 5章18節 · 「酒に酔いしれてはいけません。むしろ御霊に満たされなさい」。
よくある質問
神への愛は「感じる」ものでなければならないのですか、それとも愛は別の形で証明されるのですか。
ヨハネによる福音書14章15節で、とても具体的な基準を示しておられます。「あなたがたが私を愛するなら、私の戒めを守りなさい」。愛は、御言葉があなたの内にとどまり、あなたの選択に現れる仕方によって見られるものです。感情は変わることがあります。御言葉への忠実さこそ、最も信頼できるものさしなのです。
慰め主としての聖霊と、油注ぎとしての聖霊とは、どう違うのですか。
パラクレートス(ヨハネによる福音書14章26節、16章13節)は、教え、慰め、真理へと導き、御言葉を思い起こさせます。油注ぎ(使徒言行録1章8節)は、行動し、証しし、仕えるためにあなたを装う力です。これらは、同じ御霊の二つの側面です。その両方を求める必要があります。
自分が本当に神と親密であるかどうか、どうすれば分かりますか。
親密な関係は、隠れた場所で育まれます(マタイによる福音書6章6節)。それは三つのしるしによって分かります。神の御声をより容易に聞き分けられるようになること、神との触れ合いによってあなたの人生が変わっていくこと、そして、他の人々のための神の重荷を担い始め、神の憐れみがあなた自身の憐れみとなっていくことです。
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