はじめに
ヨハネの第一の手紙2章29節から3章10節を扱うこの説教で、メラニー・エリスマンは「第一ヨハネの手紙」シリーズを続け、義の試みという厳しいテーマに向き合います。誤った教えに苦しめられていたクリスチャンたちに、ヨハネは一見矛盾するように見える二つのことを思い起こさせます。あなたは本当に神の子であるということ、そしてこのアイデンティティがあなたの生き方を変えるということです。父の愛を静かに見つめ、罪を真剣に受け止め、それがあなたの内に居座ることを拒む招きです。
メッセージの構成
1. 父の愛を見つめる:あなたは本当に神の子です
- ヨハネは、使徒たちの教えと異なる教えによって苦しめられ、福音のメッセージが乱されていたクリスチャンたちに書き送っています。
- 手紙全体を通して、彼は信仰の真実さを見極めるためのいくつかの試みを示します。今日取り上げるのは義の試みです。
- まず何よりも、ヨハネは驚きをもってこう言います。「見なさい、父がどれほど私たちを愛してくださったかを。私たちは神の子と呼ばれ、実際にそうなのです。」
- このアイデンティティは、他の人がどう思おうと変わらない事実です。それがこれから語られるすべての出発点となります。
2. 私たちを聖くする希望:私たちは主に似た者となる
- 私たちはすでに神の子ですが、私たちが何になるかはまだ完全には現されていません。
- キリストが現れるとき、私たちはありのままの主を見て、主に似た者となります。それこそが神のご計画全体です。私たちを御子に似た者としてくださること。
- 「イエス・キリストに望みを置く者はみな、イエス・キリストご自身が清くあられるように、自分を清くする。」この目的に向かって進むこと自体が、すでにあなたを清めています。
- こコリント人への第二の手紙3章18節とつながります。主の栄光を見つめることによって、私たちは栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていくのです。
3. 罪の重大さを理解する
- ヨハネは4節で罪を定義しています。罪を犯すとは、神の律法を拒むこと、神に不従順であることです。
- それは性格の弱さでも、単なる「うっかりミス」でもありません。神の御心に対する反逆の行為です。
- ヨハネの時代にも、罪の重大さを軽んじる人々がいました。今日でも、「それは十字架で解決済みだから、わざわざ話す必要はない」という声を耳にします。
- 罪の重大さを語らないことは、恵みの力を大きく損なうことになります。
4. 罪とクリスチャン:相容れないもの
- 罪は悪魔から来るものであり、悪魔は初めから罪を犯し続けています。
- 神の子が現れたのは、まさに罪を取り除き、悪魔の働きを打ち壊すためです。そのためにイエスは死なれました。
- 罪はそれほど深刻ではないと言うことは、イエスがほとんど無意味に死んだと言うようなものです。
- そこにはただ二つのグループしかありません。神の働きをする者たちと、悪魔の働きをする者たちです。ヨハネの語り方ははっきりしていて、心地よい第三の選択肢を残しません。
5. 緊張を保つ:避けるべき二つの偏り
- 一つ目の偏りは、徹底した完全主義です。自分の努力によって愛されるにふさわしい者、神の子と呼ばれるにふさわしい者になろうとすることです。
- 答え:「もし私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、私たちの罪を赦し、あらゆる悪から私たちを清めてくださいます」(ヨハネの第一の手紙1章9節)。
- 二つ目の偏りは、罪を同居人のように受け入れてしまうことです。「自分はこういう人間だから、変われない」というものです。
- 答え:いいえ、あなたはそういう人間ではありません。あなたは神の子です。その罪と仲良くするのをやめなさい。
6. 夏に向けて:神は休暇を取らない
- 夏という生活のリズムの変化は、福音の中心と、実を結ぶ父との関係に立ち返る機会です。
- 神は、あなたがどこへ行こうと、あなたと一緒に休暇に出かけます。
- どんな状況でも問うべき問いはこれです。「イエスならどうされるだろうか」。
- 本文はガラテヤ人への手紙5章の朗読で締めくくられます。「御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことはありません。」
心に留めたいポイント
- あなたは本当に神の子です。それはイメージではなく、世がどう思おうと変わらない事実です。
- あなたの生き方は、あなたが誰であるかを映し出します。私たちの行いは、私たちが何者かを物語ります。
- 罪は単なる過ちではなく、神に対する反逆の行為です。それを真剣に受け止めることは、恵みの力を正しく測ることです。
- イエスは、あなたの罪を取り除き、悪魔の働きを打ち壊すために来られました。その死は象徴的なものではありませんでした。
- 自分の内にある罪の存在に満足しないでください。それを拒みなさい。あなたは恵みによって救われ、恵みによって変えられ、恵みによって栄光を受けるのです。
個人的な適用
- 少し立ち止まって考えてみてください。「神の子である」ということは、あなたにとって本当は何を意味しますか。それはあなた自身に届いている現実ですか、それとも単なる考えにすぎませんか。
- あなたの行いは、あなたが誰であるかについて何を語っていますか。それは父の子としてのアイデンティティと一致していますか。
- あなたの人生の中に、あまりにも親しくしてしまっている罪、長く居座っている「同居人」はいませんか。それを神の前で名指ししてみましょう。
- あなたは完全主義(愛されるに値する者になろうとすること)と、あきらめ(「自分はこういう人間だから」)のどちらに引かれやすいですか。十字架はその傾向にどう語りかけますか。
- この夏、あなたが出会う様々な状況の中で、どのようにシンプルに「イエスならどうされるだろうか」と自分に問いかけますか。
引用聖句
よくある質問
クリスチャンは罪を犯し続けることができますか。
ヨハネは二つの真理を並べて示しています。一方で、もし私たちが罪はないと言うなら、私たちは自分自身を欺いています(ヨハネの第一の手紙1章8節)。他方で、神から生まれた者は、罪を自分の生き方とし続けることはできません(ヨハネの第一の手紙3章9節)。クリスチャンもなお時折罪を犯しますが、それを何事もなかったかのように習慣として居座らせることはできません。解決は罪を否定することではなく、常にそれを言い表し、それが当たり前になることを拒むことです。
ヨハネの第一の手紙3章によれば、罪とは何ですか。
ヨハネは4節で罪を定義しています。罪を犯すとは、神の律法を拒むことです。それは単なる過失でも性格の弱さでもありません。神の御心に対する反逆の行為です。罪の重大さを軽んじることは、恵みの力を軽んじることです。
ヨハネの第一の手紙3章によれば、なぜイエスは来られたのですか。
ヨハネは二つの理由を挙げています。イエスは罪を取り除くために現れ(5節)、また悪魔の働きを打ち壊すために現れました(8節)。そのためにイエスは死なれたのです。罪をそれほど深刻でないかのように扱うことは、イエスがほとんど無意味に死んだと言うことに等しいのです。
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