イエスのように、その一線を越えて

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はじめに

福音書の中でイエスが繰り返し行っておられることを、一言でまとめるとすればこうなります。イエスは、一線を越えられるのです。誰も触れようとしなかったものに触れ、誰も耳を傾けなかった人々に語りかけ、誰もが癒やしだけを期待しているときに罪を赦されます。北山進牧師(神戸キリスト栄光教会)は、ルカの福音書5章から「イエスのように、その一線を越えて」と題した説教で、この現実を語りました。北山牧師は、日本の文化が、他の多くの文化と同じように「一線の内側」にとどまることを重んじていることを思い起こさせます。人を煩わせない、距離を保つ、面目を保つといったことです。それ自体は欠点ではありません。しかしイエスは、あなたに届くためにその一線を越えられます。そしてイエスは、あなたにも同じようにするよう招いておられます。

この箇所は二つの段階で読み解くことができます。まず、イエスがツァラアトに冒された人と中風の人のもとへ行くために一線を越えられる場面です。次に、この二人(とその仲間たち)もまた、イエスのもとへ行くために一線を越える場面です。互いに呼応する二つの動きです。

メッセージの構成

1. イエス、ツァラアトの人に触れられる:「清い」と「汚れている」の一線

ルカ5:12-16。ツァラアトに冒された一人の男がイエスを見て、地にひれ伏し、こう懇願します。「主よ、お心一つで、私をきよくすることがおできになります。」モーセの律法(レビ記13~14章)では、ツァラアトに冒された者は人里離れて暮らし、近づく者に警告するために自分自身で「汚れている、汚れている」と叫ばなければなりませんでした。毎日そう自分を言い表さなければならないことが、一人の人間にどれほどのことをもたらすか、想像してみてください。それは単なる体の病気ではありません。社会からの追放であり、当時の宗教制度においては、神から引き離す罪の目に見えるしるしでした。

そしてイエスは手を伸ばされます。この人に触れられるのです。その一つの仕草によって、一線は崩れ落ちます。本来なら、汚れた者に触れる者は汚れます。ここではその逆が起こります。イエスに触れられた者が清められるのです。あなたが信じている救い主は、あなたの汚れから逃げるのではなく、それを清めに来てくださいます。この仕草はすでに十字架を告げ知らせています。十字架の上で、イエスは「宿営の外」にとどまるべきものをご自身の上に引き受け、あなたを内側へと連れ戻してくださるのです。

2. イエス、中風の人を赦される:神だけがなし得ることの一線

ルカ5:17-26。友人たちが一人の中風の人をイエスのもとへ運んできます。中に入ることができません。家がいっぱいだったのです。そこで彼らは屋根に上り、それを壊して開け、友人をイエスの前に吊り降ろします。行儀の良い人々とは言えません。誰もかまわず先に割り込み、見ず知らずの人の屋根まで壊してしまうのですから。しかしイエスは腹を立てられません。本文はこう言います。「イエスは彼らの信仰を見て、『人よ、あなたの罪は赦された』と言われた。」

律法学者たちは眉をひそめます。「神おひとりのほかに、いったい誰が罪を赦すことができるだろうか。」原則としては彼らの言う通りです。しかしイエスは、彼ら自身の論理を逆手に取られます。「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。」「あなたの罪は赦された」と言っても、誰もそれを確かめることはできません。しかし中風の人に「起きて歩け」と言えば、はったりかどうか誰の目にもすぐに分かります。そこで、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために」、イエスは中風の人にこう言われます。「起きよ。寝床を取り上げて、家に帰りなさい。」するとその人は立ち上がります。目に見える癒やしが、目に見えない赦しを確証するのです。

3. ツァラアトの人と友人たちが、イエスのもとへ行くために一線を越える

説教はここで鏡を反転させます。この二つの奇跡は、イエスのもとへたどり着くために一線を越えた人々の物語でもあるのです。ツァラアトの人は、隔離された場所を離れ、近づくことを禁じる規則を破りました。イエスが自分を清くしてくださると確信していたからです。中風の人の友人たちは、群衆を押しのけ、屋根を壊し、他人の視線にさらされることも厭いませんでした。イエスにはそれだけの面倒をかける価値があると信じていたからです。彼らは何か霊的な偉業を成し遂げたわけではありません。ただ、自分の限界と常識と「人からどう思われるか」を越えていっただけです。そしてそこでこそ、イエスは働かれたのです。

北山牧師はここで、J・D・グリア牧師の著書を引用します。それによれば、使徒の働きに記された40の奇跡のうち、39は教会の外で起こっています。神があなたの町でなそうとしておられることのほとんどは、弟子たちが教会という居心地の良い場所から出て、外へと遣わされるときに起こるのです。教会は、癒やされ、力づけられる場所です。あなたをそこに温かく囲い込んでおくためのものではありません。

覚えておきたいこと

  • イエスは反抗心からではなく、愛によって一線を越えられる。挑発を楽しむためではない。救おうとしている人がいる場所へ行くために、境界線を越えられるのである。
  • イエスの触れる手は人を清める。あなたの汚れがイエスを汚すのではなく、イエスの聖さがあなたを清めるのである。
  • 罪を赦すことは、体を癒やすことよりも大きな代価を伴う。十字架があるからこそ、その赦しは単なる美しい言葉ではなく、現実のものとなる。
  • 神に喜ばれる信仰は、具体的な行動となって現れる。中風の人の友人たちは屋根を壊した。あなたの信仰もまた、普段ならしないようなことをあなたにさせるだろう。
  • 神の奇跡のほとんどは、教会の壁の外側で起こる。あなたの職場、家庭、学校こそ、神があなたを通して働きたいと願っておられる場所である。

個人への適用

  1. 今あなたをイエスから遠ざけている「一線」は何だろうか。恥の思い、自分は汚れすぎているという感覚、他人の視線への恐れだろうか。今週、その一線をあえて越えてイエスに近づくとは、あなたにとって具体的にどういうことだろうか。
  2. あなたはツァラアトの人のように、心の中で「自分は汚れている、自分は汚れている」と叫び続けていないだろうか。イエスが語られる「わたしはそう望む。清くなれ」という約束は、何を変えるだろうか。
  3. あなたの周りで、誰かが「屋根を突き破って」でもイエスのもとへ運んでもらう必要がある人は誰だろうか。そのために、あなたは何を押しのける覚悟があるだろうか。
  4. 今週、誰かのもとへ行くために神があなたに越えるよう求めておられる、あなた自身の限界(疲れ、内気さ、予定、裁かれることへの恐れ)は何だろうか。
  5. あなたは教会の中で「観客」であることのほうが多いだろうか、それとも外へ「遣わされる者」であることのほうが多いだろうか。前者から後者へと切り替えるために、具体的に何を変えられるだろうか。

引用された聖句

FAQ

「一線を越える」とは、規則に背くことを意味するのでしょうか。

いいえ。この説教は強調します。イエスは反抗心からではなく、愛によって一線を越えられます。目立つために規則を破ることではありません。あなたの礼儀正しさや恐れ、あるいは心地よさが、神があなたの道に置かれた人のもとへ行くことを妨げないようにする、ということなのです。

なぜイエスは、すぐに癒やすのではなく、まず中風の人を赦されるのでしょうか。

この人にとって本当の問題は、まず体のことではなく、神との関係だからです。イエスは根本から始められます。体の癒やしはその後に、この赦しが本物であり、イエスにその権威があることを示す目に見えるしるしとして与えられるのです。

具体的に、今週私はどこで「一線を越える」のでしょうか。

神があなたを置かれた場所でです。あなたの職場、教室、台所、住んでいる建物。あなたが避けている会話、先延ばしにしている赦し、あえて誘えずにいる誘い、同僚のためにあえてしない祈り。まず一歩から始めてください。使徒の働きの奇跡は外で起こるのです。

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