はじめに
福岡の油山シャローム教会の伝道師、中山雅実さんは、祈り会でエレミヤ書を続けて学んでいます。これまでのメッセージでは、指導者、王、祭司、そして民に向けた預言者の警告、また彼らの間に広がっていた罪と堕落が取り上げられてきました。
今回の箇所は、少し違う姿を見せてくれます。生まれる前から神に取り分けられて預言者となり、困難の中でも主のことばを伝え続けてきたエレミヤが、ここでは飾ることなく、ありのままの思いを主の前に注ぎ出します。取り上げられた箇所は、エレミヤ書15章10〜21節です。
メッセージの題が、そのすべてを言い表しています。私たちもまた、変わることのないことばを託された者なのです。
メッセージの流れ
1. 真実を語ったために退けられた預言者
- 10節で、エレミヤの悲しみがあふれ出します。「ああ悲しいかな、わが母よ、あなたはなぜわたしを産んだのか。わたしは全国の人と争い、また論ずる者となった。」
- 彼が伝えていたことばは神から出たものでした。嘆き、怒り、そしてさばきのことばです。彼は民の罪に流されることなく、真剣に、誠実に語り続けました。
- 民は聞こうとしませんでした。偽りを語る者を預言者として受け入れ、神のことばを語る人を嘘つき呼ばわりしたのです。「おまえは偽預言者だ」と。真実が耳に痛いので、耳をふさぎ、彼を迫害しました。
- 自分の務めに忠実だったために、エレミヤは憎まれ、訴えられ、退けられ、呪われました。誰にも悪いことをしていないのに、です。
2. 神は「もう十分だ」とは言われない
- 11節で、神は預言者の訴えに答えられます。災いの時には、敵のほうからエレミヤのところに来て、自分たちのためにとりなしてほしいと頼むようになる、と。12〜14節では、神のもとに立ち返ろうとしない者へのさばきが告げられます。
- 主はエレミヤに、「もう働かなくてもよい。十分にやった。おまえの役目は終わりだ」とは言われませんでした。
- 説教者は例を挙げます。もし自分が日曜学校の奉仕に疲れたと打ち明けたら、教会はきっと「よく働いてくれましたね、少し休んでください」と言ってくれるでしょう。「これは冗談です」と彼は付け加えます。しかしエレミヤの場合、話はそこで終わりませんでした。
- 彼の使命は終わっていませんでした。目の前では罪と堕落が広がり、滅びに向かって歩む民に語るべきことばがまだ残っていたのです。そのことばが空しく響くように思えても、神は彼をその務めに立たせ続けられました。
3. 孤独の中にあるみことばの喜び
- 15〜18節で、エレミヤは自分がどのように主に従ってきたかを語ります。16節には、みことばへの思いが表れています。「わたしはあなたのみ言葉を得て、これを食べました。あなたのみ言葉は、わたしにとって喜びとなり、心の楽しみとなりました。万軍の神、主よ、わたしはあなたの名をもってとなえられているからです。」
- 迫害の中で、悲しみも喜びも分かち合える人がいない孤独の中で、エレミヤは受け取ったみことばに喜びを見いだしていました。
- あなたにも、きっと覚えのある瞬間があるでしょう。礼拝の中で、黙想のひとときに、あるいは分かち合いの中で、それまで読み流していた聖書の箇所が、突然その深みを見せてくれるのです。みことばが心に湧き上がり、「血が巡るように」全身に広がっていきます。「そのとき、自分はみことばによって造り変えられているのだと気づきます」と説教者は語ります。
- すべてを捨ててこの道を歩んできたエレミヤにとって、この喜びはほとんどすべてだったのかもしれません。恥も痛みも嘲りもある中で、彼はおそらく私たちと同じように、それでもこの神とこのことばにすがっていける、と思えるだけの確信を持っていたのでしょう。
- 万軍の主の名で呼ばれるとは、あらゆる戦いに勝利を与えてくださる主に従う者の一人であるということです。私たちもキリストの名にちなんでクリスチャンと呼ばれています。それにふさわしい者ではありませんが、それでも主はこの名を負わせ、今いる場所に私たちを置いてくださっています。
4. 約束が当てにならない水のように思えるとき
- みことばの喜びは、苦しみを消し去ってはくれませんでした。18節で、エレミヤは神に問いかけます。「わたしの苦しみはどうして長く続き、わたしの傷はいえがたく、いやされないのですか。あなたはわたしにとって、偽る人、当てにならない流れのようになられるのですか。」
- 彼は主に従い、主と同じ心を持っています。しかし、民に滅びの道から離れるよう呼びかければ呼びかけるほど、彼自身も、そして主の御名も、敵意と侮辱を受けるのです。
- さばきの時は近づいているのに、民はそれに気づいていません。それどころか、自分たちは神に従っていると思っています。彼らは死の道を選び、弱い者は虐げられ、正義は行われず、生ける神は存在しないかのように扱われています。
- 説教者は預言者の立場に身を置いて語ります。そのような場所にたった一人でいたら、「なぜ私を召されたのですか。間違いだったのではないですか。私にはできないと申し上げたはずです。つらいです。あなたの約束は本当ですか。私の助けはどこにあるのですか」と問わずにはいられないだろう、と。
- 神が正しいことは分かっています。けれども、神のことばと現実との隔たりが大きすぎるように思えるとき、それを心にしまっておくことはできません。そして、頼りにしていたお方を少しでも見失うと、支えは揺らぎ始めます。
5. 「あなたが帰ってくるなら、わたしはあなたを立たせる」
- 神は19節から答えられます。エレミヤのことばの中で主を疑うかのようだった部分を取り上げ、そして彼の居場所を示されます。「もしあなたが帰ってくるならば、わたしはあなたを帰らせ、わたしの前に立たせる。」
- 立ち返るべき場所は、偽りの平安の中で安らいでいる人々のところではなく、神ご自身のもとです。揺らいだ預言者を立たせてくださるのも、語らせてくださるのも、神です。
- 「わたしはあなたをこの民に対して堅固な青銅の城壁とする。彼らはあなたと戦うが、あなたに勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて、あなたを救い、あなたを助け出すからである」(20節)。
- これは、神が最初の日、1章でエレミヤを召されたときに語られたことばと同じです。彼は若く、経験もありませんでしたが、神は「恐れるな。わたしがあなたと共にいて、助け出す」と言われました。
- 最初の一歩を踏み出すときに与えられた約束は、少しも損なわれることなく、そこにありました。このことばは、崩れ落ちそうになっていたエレミヤに、何も変わっていないことを思い出させたのです。
6. 最初の召しを思い出す
- あなたが初めて主の召し、つまり福音を聞いたのはいつでしたか。説教者は、誰もがそのときのことをはっきり覚えているはずだと考えています。主に出会い、「主が私のような者でもよいと言ってくださるなら、この道を歩もう」と心に決めた、あのときです。
- 説教者は、今日も、そしてこれから遣わされるどんな場所でも、そのことを思い出してほしいと願っています。神は初めのときと同じ約束を守っておられます。私たちが忘れても、神は覚えておられます。神は私たちを、生まれる前から取り分けてくださいました。
- あなたは今、理解できないこと、受け入れられないことを経験していて、神に「なぜですか」と問いたくなっているかもしれません。置かれた場所で退けられたり、冷たく迎えられたり、耳をふさぐ人や、敵のように扱う人に語らなければならないこともあるかもしれません。努力が報われず、苦しんでいるのは自分だけで、傷はいやされないと感じることもあるかもしれません。
- けれども、私たちは取り分けられ、そこへ遣わされるために召されたのです。そのために選ばれたのなら、そこには語るべきことばと、なすべきことがあります。
- 時代は変わり、多くのものが過ぎ去っていきますが、神の約束は変わりません。「わたしがあなたと共にいて、あなたを救い、あなたを助け出す。」このことばはエレミヤだけに語られたのではありません。今日、私たちに語られています。
- 主と共に歩むとき、主は必要なものを備えてくださいます。語るべきことばも、そのほかのことも同じです。主が「恐れるな」と言われるのですから、恐れる必要はありません。ここまで、私たちの心配も、恐れも、言い訳も、主のことばによって取り去られてきました。だから私たちは今ここにいるのです。「それは主のみわざです。」
- メッセージは、エレミヤ書1章8節で結ばれます。「彼らを恐れてはならない。わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである」と主は言われる。説教者は、神から語るべきことばを与えられ、この終わりの時代に務めを託された者として、この一週間を過ごすよう勧めています。
ポイントのまとめ
- エレミヤが退けられたのは、過ちのためではなく、民が聞きたがらないことばを忠実に伝えたからです。
- 神は、ご自分のしもべの正直な訴えを受け止められますが、使命から解き放つことはされません。語るべきことばはまだ残っています。
- みことばの喜びは孤独の中でも支えになりますが、痛みをすべて消し去るわけではありません。
- 揺らいだときに立ち返る場所は、神ご自身です。私たちを立たせてくださるのは神です。
- 召しの約束は変わりません。「わたしがあなたと共にいて、あなたを救い、あなたを助け出す。」
個人への適用
- エレミヤのように、飾らずに、本当の気持ちを神に打ち明けているでしょうか。
- 初めて主の召しを受けたのはいつで、そのときどのような決断をしましたか。
- 最近、あなたにとって喜びとなり、心の楽しみとなった聖書のことばは何ですか。
- どんな場所で、あるいはどんな人々の中で、退けられている、あまり耳を傾けてもらえないと感じていますか。そして、神はそこで何をなお託しておられるでしょうか。
- 主が共にいてくださるという約束に支えられて、どんな恐れや言い訳を主にゆだねる必要がありますか。
引用された聖句
よくある質問
エレミヤ書15章10〜21節では何が語られていますか。
神のことばを忠実に伝えたために退けられ、呪われたエレミヤが、飾ることなく主の前に心を開きます。彼はみことばの喜びを語り、同時に痛みと疑いも語ります。神は、ご自分のもとに立ち返るよう彼を招き、召しの約束を新たにされます。「わたしがあなたと共にいて、あなたを救い、あなたを助け出す。」
なぜ神はエレミヤに休むようにと言われないのですか。
中山雅実さんによれば、エレミヤの使命はまだ終わっていませんでした。目の前で罪と堕落が広がり、滅びに向かって歩む民に語るべきことばが残っていたからです。そのことばが届いていないように見えるときも、神は彼をその務めに立たせ続けられました。
エレミヤ書15章20節と1章の召しには、どんなつながりがありますか。
「わたしがあなたと共にいて、あなたを救い、あなたを助け出す」という約束は、神が召しのときにエレミヤに語られたこと(エレミヤ書1章8節)を繰り返しています。説教者はここに、変わることのない約束を見ています。私たちが初めを忘れても、神は覚えておられます。そしてこのことばは、今日の私たちにも語られています。
メモを取ったり質問したりするにはサインインしてください。