はじめに
モメンタム教会の説教者は、一見ありふれた話から語り始めます。2020年、コロナ禍のさなか、フランスのテレビ局France24が「フランス人、世界一の文句屋」というタイトルの番組を放送したというのです。これには歴史的、文化的、政治的な理由があります。フランスの学校教育は肯定よりも批判的精神を重んじ、民主主義の文化の中では抗議することが市民の義務のようにさえ扱われます。それ自体が悪いわけではありません。しかし今朝、本当に問うべきことは、あなたが物事を批判するかどうかではありません。どのような心でそれをしているか、なのです。
今日のテキスト、出エジプト記15章22節から17章7節が、かなり厳しい形でこの問いに答えてくれます。そこにあるのは、救われたばかりで、神の力と恵みを歌ったばかりの民が、わずか数日後にはつぶやいている姿です。肉体的な奴隷状態からは解放されたのに、内なる霊的な奴隷状態にはまだとらわれている民です。神があえて荒野へと導き、そこで試し、癒し、神ご自身が本当はどのようなお方であり、彼ら自身が本当はどのような者であるかを教えようとされているのです。
三つの試練。人間の心について明らかにされる三つの真実。神の心について明らかにされる三つの真実。そして荒野の奥深くで、打たれる岩、天から降るマナ、甘くされる水、これらはすべてイエス様を指し示しています。本当の木、本当のマナ、本当の岩であるイエス様を。
メッセージの構成
1. 苦い民、癒される神(出エジプト記15:22-27)
- 紅海を渡り、15章の勝利の歌を歌った後、モーセはイスラエルの民をシュルの荒野へと導きます。三日間歩いても水がありません。ようやくマラに着いても、そこの水は苦くて飲めませんでした。それでこの場所は「マラ(苦い)」と名づけられたのです(出エジプト記15:22-23)。
- 説教者はこの水不足を軽く見てはいけないと強調します。これは数十万人の命に関わる深刻な事態です。民の反応は、多くの人が同じ状況でしそうな反応でした。「民はモーセにつぶやいて言った、『わたしたちは何を飲んだらよいのですか』」(出エジプト記15:24)。この後も何度も繰り返されることになる「つぶやく」という言葉が、ここで初めて登場します。声を潜めてでも、不満を漏らすという意味の言葉です。
- モーセは主に叫び求めます。主はある木を示され、それを水に投げ込むと、水は甘くなりました(出エジプト記15:25)。なぜそれで効くのかは分かりません。大切なのは、神がすぐその後に語られたことです。「主はそこで彼らのために定めと、おきてとを立てられ、また彼らを試みて」。
- この試練は偶然の出来事ではありません。教育的な意味があるのです。神は民に、ご自分の声に聞き従い、戒めを守り、ご自身に信頼することを教えようとされています。そしてこう約束を添えられます。「わたしはあなたをいやす主であるからである」(出エジプト記15:26)。
- 説教者はここで厳しい事実を指摘します。道徳的には、エジプト人とイスラエル人の間に何の違いもありません。どちらも同じように裁きに値するのです。両者を分けるのは、神がイスラエルを選び、恵みを注がれたということだけです。そして苦い水を前にした民の苦い心は、彼らがまだ同じ心の病を抱えていることを示しています。
- この場面はエリムで終わります。そこには十二の水の泉(それぞれの部族に一つずつ)と、七十本のなつめやしの木がありました(出エジプト記15:27)。ヘブライ文化において完全数である十の七倍です。荒野の中の、ほとんど理想郷のようなオアシスです。約束の地の前味です。神は荒野の真っただ中でも、完璧に備えることがおできになるのです。
2. 聞かない民、聞いて備える神(出エジプト記16章)
- エジプトを出てちょうど一ヶ月後、食糧が尽きてしまいます。再びつぶやきが起こりますが、今度は「イスラエルの人々の全会衆」がモーセとアロンに対してつぶやきました(出エジプト記16:2)。不満は伝染病のように広がっていったのです。
- 彼らの不満はさらに深刻な言葉になります。「わたしたちはエジプトの国で、肉のなべのかたわらにすわり、飽きるまでパンを食べていたころ、主の手にかかって死んでいたらよかったものを。あなたがたはこの全会衆を飢え死にさせるために、わたしたちをこの荒野に導き出したのです」(出エジプト記16:3)。彼らはゆっくり飢え死にするくらいなら、その場で災いによって即座に死んだ方がましだったと言うのです。エジプトへの郷愁さえ滲んでいます。すでに奴隷生活の過酷さを忘れてしまっているのです。
- 説教者は、この反応が私たちにもよく似ていると指摘します。今がつらいというだけで、実際には何も良くなかった過去を懐かしむのです。
- 神の応答は、怒りでも沈黙でもありません。聞いて、奇跡的に備えることでした。マズローの欲求段階とは意図的に逆の順序で、三つのことが起こります。
- まず、神の栄光を見せること。神は雲の中に現れられます(出エジプト記16:10)。この民には、自分たちを救われたこの神がどなたであるかを、改めて思い起こす必要があったからです。あなたの心がつぶやきでいっぱいになったとき、まず必要なのは、神の栄光と、その救いの力を再発見することです。
- 次に、つぶやきの本当の相手を理解させること。モーセとアロンはこう説明します。「わたしたちは、いったい何者であるか。あなたがたのつぶやきはわれわれに対するのではなく、主に対するのである」(出エジプト記16:7-8)。もし神が主権者であるなら、あなたの人生の出来事は偶然の産物ではありません。上司への苛立ち、同僚の休暇への嫉妬、遅れた地下鉄へのいらだち、その裏には神への叫び、つまり神が自分に対して良くない方だ、何かを出し惜しみしているという密かな確信が隠れているかもしれません。それはまさに創世記3章で蛇がエバに囁いたことと同じです。
- 最後に、食物。神は天からパンを降らせます。毎朝、霜のような細かい粒状のものが降り、イスラエルの民はそれを「マン(これは何だろう)」と呼びました(出エジプト記16:15)。夕方には、うずらが宿営を覆いました。
3. マナに学ぶ学校:日ごとの依存
- 説教者はマナに隠された教訓を詳しく語ります。この奇跡は単なる食糧の供給ではなく、一つの学びの場だからです。
- ふさわしい備えです。栄養の必要を満たします。民はカナンに入るまでの四十年間、欠けることなくこれを食べ続けました(出エジプト記16:35)。
- 十分な備えです。誰も飢えません。「多く集めた者も余ることがなく、少なく集めた者も足りないことはなかった。おのおの食べるところに応じて集めたのである」(出エジプト記16:18)。公平さを表す姿です。
- おいしい備えです。テキストによれば、それは蜜の入った菓子のような味がしました(出エジプト記16:31)。荒野には竈もお菓子作りの道具もありません。しかも当時、養蜂はまだ発達しておらず、蜂蜜は貴重なものでした。神は彼らが自分で作れるもの以上のものを与えてくださったのです。
- 保存がききません。朝まで残しておくと、虫がわいて臭くなります。安息日だけは例外です(出エジプト記16:20)。神はここで、貪欲にならないこと、神への依存の代わりになるような蓄えを作ろうとしないことを教えておられます。
- 日が高くなると溶けてしまいます。神は早起きすること、勤勉であること、毎日集めることを教えておられます。
- 安息日への備えがあります。六日目には二倍の分量が降ります(出エジプト記16:22)。そして安息日には腐りません。神は、かつての奴隷であった民に、エジプトでは決して持てなかったものを与えられます。それは、権利として勝ち取る必要のない、礼拝と休息のための一日です。説教者はこう言います。「まるで神が本当に良い方であり、本当にすべての主であるかのようです」。
- それでも最初の安息日、何人かはやはり集めに出かけてしまいます(出エジプト記16:27)。彼らは試験に落ちたのです。神は言われます。「あなたがたは、いつまで、わたしの戒めと律法とを守ることを拒むのか」(出エジプト記16:28)。それは、これほど豊かに備えられても、なお神を疑い続ける、聞かない頑なな民の姿です。
- 説教者はここで問いをあなたに向け直します。神はみことばの中でこう言われます。「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイ5:44)。「金銭を愛する生活をせず、いま持っているもので満足しなさい」(ヘブライ13:5)。「不品行を避けなさい」(コリント人への第一の手紙6:18)。「互いに罪を告白しなさい」(ヤコブ5:16)。正直なところ、あなたも多くの点で、この民と同じように聞かない者ではないでしょうか。私たちは皆、癒される必要があるのです。
- だからこそ神は、後の世代のために、マナ一オメル分をそのまま保存するよう命じられます(出エジプト記16:32-33)。子どもたち、孫たちが、この神は真実で、信頼するに足り、約束の地に至るまで日ごとに備えてくださる方だということを知るためです。
4. 争う民、恵みを与える神(出エジプト記17:1-7)
- 三番目の場面、レピデムです。ここでも水がなく、家畜に飲ませる苦い水すらありません(出エジプト記17:1)。反逆はさらに激しさを増します。民はもはやつぶやくだけでなく、モーセと「争って」、モーセは命の危険さえ感じるほどでした。「あと少しで、彼らはわたしを石で打ち殺すでしょう」(出エジプト記17:4)。
- モーセは再び、彼らの争いが本当は神に対するものであることを説明します。彼はこの場所を「マサ(試み)」、「メリバ(争い)」と呼びました。「イスラエルの人々が争ったから、またその、『主はわれわれのうちにおられるのか、おられないのか』と言って、主を試みたからである」(出エジプト記17:7)。
- 説教者はヘブライ語の言葉遊びを指摘します。「試み」と訳される言葉は、先に「試練」と訳された言葉と同じなのです。神は民の心の状態を明らかにするために民を試されました。ところが今度は、民が神を試みるのです。これは立場の完全な逆転であり、非常に重大な事態です。詩篇95篇はこれを振り返ってこう語ります。「あなたがたの先祖がわたしのわざを見たにもかかわらず、わたしを試み、わたしを試みたメリバでのように、マサの日のように、あなたがたは心をかたくなにしてはならない」(詩篇95:8-9)。
- 説教者は警告します。神は限りなく忍耐深いお方ですが、その忍耐の限界を試そうとしてはならないのです。民は信仰をもってこう祈ることもできたはずです。「主よ、私たちが渇いていることをご存じですね。あなたはたった今、あなたの恵みを歌ってくださいました。どうか、それを再び見せてください」。しかし実際に出てきたのは、苦く、不信仰な祈りでした。「わたしたちを殺そうとしているのか」。彼らはまさに、あの心を頑なにしたパロと同じように、聞くことを拒んでいるのです。
- それに対して神はどう応えられるでしょうか。恵みを与えられるのです。神はモーセに、かつてナイル川を打ってのろった、あの杖を取り、今度は岩を打つように命じられます。「見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたは岩を打ちなさい。水がそこから出て、民はそれを飲むことができる」(出エジプト記17:6)。
5. 本当の木、本当のマナ、本当の岩:荒野のイエス様
- 説教者は6節にある心を揺さぶる細部に注目させます。神はこう言われました。「わたしはあなたの前に、岩の上に立つ」。神が臨在されるのは、不思議なことに、モーセが打たなければならないその岩の上なのです。打たれることになる岩の上に。
- この場面は、イエス様が、ご自分の民の反逆のゆえに打たれるその瞬間を予表しています。イザヤは千年も前にこう告げていました。「彼はわれわれのとがのために刺し通され、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめを受けて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」(イザヤ53:5)。神はどのようにして罪を裁き、かつご自分の民を救うことがおできになるのでしょうか。それは、神ご自身がその裁きを引き受けることによってです。
- 使徒パウロもこれをはっきりと語っています。「みな同じ霊的な飲み物を飲んだ。それは、彼らについて来た霊的な岩から飲んだのであるが、その岩はキリストであった」(コリント人への第一の手紙10:4)。荒野で民の渇きを癒したあの水は、すでにキリストから来ていたのです。
- この像は、他の試練の場面にも広がっていきます。
- イエス様は癒しをもたらす本当の木です。マラでは、木が苦い水に投げ込まれると、水は甘くなりました。説教者はこう語ります。本当の木とは十字架です。「イエス様は木の上で死なれました。そして、その木によって、私たちの苦く頑なな心が甘くされるのです。その打たれた傷によって、私たちはいやされたのです」(ペテロの第一の手紙2:24)。
- イエス様は本当のマナです。「わたしは天から下ってきた生けるパンである。だれでもこのパンを食べるならば、永遠に生きるであろう。そして、わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」(ヨハネ6:51)。日ごとのパンは依存を教えてくれるものでしたが、本当のマナとはキリストご自身であり、日々受け取り続けるべきお方です。
- イエス様は私たちの渇きを癒す生ける水です。「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、決して、かわくことがない。わたしが与える水はその人のうちで泉となり、永遠の命に至る水がわきあがるであろう」(ヨハネ4:14)。
6. 試練を喜びと受け止めるということ
- 締めくくりとして、説教者はイエス様の弟であるヤコブの言葉を引用します。「わたしの兄弟たちよ、あなたがたが、いろいろな試練に会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰がためされることによって、忍耐が生み出されることを、知っているからである。だが、忍耐を十分に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、完全な、申し分のない者となる」(ヤコブ1:2-4)。
- あなたの今の人生は、いわば荒野です。そしてあなたは約束の地、天の故郷へと向かって旅をしています。神はこの荒野の試練を用いて、あなたを教育しておられます。神があなたを試練へと導かれるのは、あなたに敵対しておられるからではなく、あなたの味方であり、あなたの心を変えようとしておられるからです。
- 説教者はお気に入りのたとえ話を用います。ティーバッグの話です。袋の外にある間は、その中に何が入っているかは分かりません。しかし熱いお湯を注げば、すべての風味が引き出されます。お湯が味を作り出したのではなく、すでにあったものを引き出しただけなのです。苦しみと心の関係も同じです。「口は心からあふれ出ることを語るものである」(マタイ12:34)。私たちの言葉は、私たちの心の状態を映し出します。私たちは皆、神に癒していただく必要があるのです。
- ですから今朝の問いは、まず「なぜこの試練が起こったのか」ではありません。「この試練は私の心の何を明らかにしているのか」なのです。ヤコブと共に、それを喜びと受け止めることができるでしょうか。神が与えようとしておられる成熟のために、この試練が役立っていると信じて。それとも、メリバの民のように、なおも文句を言い、疑い、心を頑なにし続けるのでしょうか。
まとめのポイント
- 荒野は道のりの偶然の出来事ではありません。神があえて民を導き入れ、試し、心の状態を明らかにし、癒される学びの場なのです。
- つぶやきは些細なことではありません。それは、より深い霊的な病、すなわち苦く、聞くことを拒み、争いを好み、神ご自身を訴える心の症状なのです。
- 神はつぶやきに対して、怒りではなく、ご自分の栄光を現すことで、そして不満の本当の相手(神ご自身)を理解させることで、そのうえで具体的で教育的な備えをもって応えてくださいます。
- マナは、日ごとの依存、貪欲との戦い、勤勉の訓練、そして権利としてではなく贈り物としての安息日を教えてくれます。
- マサとメリバで、神は打たれることになる岩の上に立たれます。この岩は、コリント人への第一の手紙10:4によれば、キリストでした。十字架は、神がどのようにして罪を裁き、かつご自分の民を救うことができるのかという問いへの答えです。
- イエス様は癒しをもたらす本当の木であり、養ってくださる本当のマナであり、永遠に渇きを癒す生ける水です。クリスチャンの人生とは、この方に一歩一歩、日ごとに寄り頼みながら、自分の荒野を歩んでいくことなのです。
個人への適用
- あなたは今、どんな試練の中にいますか。それは、あなたの「ティーバッグ」の中身、すなわちすでにあなたの心の中にあるものについて、何を明らかにしていますか。
- あなたが不満を口にするとき(地下鉄について、上司について、子どもについて、教会について、政府について)、その不満が神との関係について本当は何を語っているのか、それに耳を傾ける準備はできていますか。
- 今週、あなたにとっての「日ごとのマナ」とは何でしょうか。神なしで済ませられるような蓄えを作るのではなく、具体的にどのように、日ごとに神に頼りたいと思いますか。
- 神が与えてくださる安息日(礼拝し、休むための一日)を、あなたは贈り物として受け取っていますか。それとも、なおも「集めに」出かけ続けていますか。
- ホレブで打たれた岩を見つめながら、今週、あなたはどのように十字架を、あなたの代わりに打たれ、あなたの荒野に命の源となってくださったイエス様を、改めて思い巡らしたいと思いますか。
引用された聖句
- 出エジプト記15:22-27
- 出エジプト記16章
- 出エジプト記17:1-7
- 詩篇95:7-11
- イザヤ53:5
- マタイ5:44
- マタイ12:34
- ヨハネ4:14
- ヨハネ6:51
- コリント人への第一の手紙10:1-4
- ヘブライ13:5
- ヤコブ1:2-4
- ペテロの第一の手紙2:24
よくある質問
なぜ神は、民をまっすぐ約束の地に導かず、荒野を通らせたのですか。
説教者は、荒野こそ神が心を明らかにし、変えてくださる学びの場だと答えます。イスラエルの民は、肉体的、外的な奴隷状態からは解放されましたが、内なる霊的な奴隷状態にはまだとらわれていました。荒野の旅は回り道ではなく、約束の地に入り、そこで生きるために必要な、聞くこと、従うこと、依存することを神が民に教えられる場なのです。
「マラ」「マサ」「メリバ」という地名には、それぞれどんな意味がありますか。
「マラ」は「苦い」という意味で、民が飲めなかった水(出エジプト記15:23)、そしてその時の民の心の状態を表しています。「マサ」は「試み」または「試練」、「メリバ」は「争い」を意味します(出エジプト記17:7)。ここでの言葉遊びは重要です。神は民の心を明らかにするために民を試されましたが、メリバでは逆に、民が神を試みるのです。これは重大な立場の逆転であり、詩篇95篇は後の世代への警告として、これを思い起こさせています。
打たれた岩は、どのようにイエス様を予表しているのですか。
出エジプト記の本文には、神が打たれることになる「岩の上」に立たれると書かれています(出エジプト記17:6)。使徒パウロはコリント人への第一の手紙10:4で、「その岩はキリストであった」と明確に説明しています。説教者はここから、十字架の予告を読み取ります。神ご自身が、民が受けるべき打撃を引き受けられるのです。こうして神は、義であられ(罪は裁かれる)、かつ救い主であられる(罪人は赦される)ことができるのです。マラで苦い水を甘くした木も、同じ方向を指し示しています。私たちの苦く頑なな心を甘くし、癒す十字架を。
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