はじめに
マルコ5章では、ガリラヤ湖のほとりで二つの物語が交差します。会堂司ヤイロは、死にかけている十二歳の娘のためにイエス様に懇願しに来ます。そしてその道すがら、十二年間出血が止まらない女性が、後ろからそっとイエス様の衣に触れようとします。二つの苦しみ、二つの信仰の行動、二つの奇跡です。2026年6月21日のメッセージの中で、JM ボトロン師はこの箇所に立ち止まり、一つのシンプルな真理を語ります。イエス様は昨日も今日もとこしえに変わらないお方であり、今日もなお、信仰をもって近づく者のために働いてくださる、ということです。
あなたも今、出口の見えない状況の中にいるかもしれません。長引く病気、閉ざされた扉、すべてを打ち砕くような知らせ。この箇所は、人間にはもう解決策がなくても、イエス様の言葉は今なお創造する力を持っていることを教えてくれます。
メッセージの構成
1. ヤイロの絶望的な状況
ヤイロは会堂司でした。社会的な立場もあり、人々から尊敬され、生活も順調でした。しかしある日、十二歳の娘、別の福音書によれば一人娘が重い病気にかかります。治療を尽くしても病状は進み続けました。どんなに豊かで、周りに人がいて、良い情報を持っていても、お金や友人や知識ではどうにもならない瞬間が訪れるのです。
ヤイロは娘がもう死にかけていて、残された時間はわずかしかないことを悟ります。そこで、権威ある立場にありながら、彼はイエス様の足元にひれ伏します。これこそ神様が応えてくださる姿勢、へりくだりです。神様は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みをお与えになります。イエス様から何かをいただくためには、まず自分の力では何もできないと認め、介入してくださるよう懇願することが必要なのです。
2. 出血の止まらない女性の大胆な信仰
その道すがら、十二年間病気を患ってきた女性が登場します。彼女は何人もの医者にかかり、持っていたお金をすべて使い果たしましたが、病状はかえって悪化していました。これほど長く続く病気には、人は落胆してしまいがちです。長引くほどに、病気が生活の一部となり、もはや希望を持てなくなってしまうものです。
けれども彼女はイエス様のうわさを聞きました。JM ボトロン師は、この物語の中で姿を見せないある人物に注目します。それは、この女性にイエス様のことを証しした誰かです。もしその証しがなければ、彼女はイエス様のことを聞くことは決してなかったでしょう。あなたの証しには、あなたが思う以上の価値があります。それは、たった一人の人の運命を変えることができるのです。
この女性は信じていましたが、心の中の信仰だけにとどまりませんでした。彼女は信仰の行動を起こしたのです。群衆をかき分けて進み、イエス様の衣の房に触れました。旧約聖書の律法によれば、彼女のような状態の女性は汚れた者とされ、離れて過ごさなければなりませんでした。それでもなお、彼女はイエス様が律法を超えたお方であり、主の主であると信じていたのです。力を持っていたのは衣ではありません。布切れが誰かをいやしたことなど一度もないのです。力があったのは、その行動の背後にいるイエス様ご自身でした。
この箇所には注目すべき点があります。イエス様は彼女のために祈られたわけではありませんでした。いやしを引き起こしたのは、彼女自身の信仰でした。イエス様は自分の内から力が出て行ったのを感じ、こう尋ねられます。「誰が私の衣に触れたのか」。押し寄せる群衆の中で、ある人が特別な信仰、行動する信仰をもってイエス様に触れたのです。すべてを変えるのは、この信仰なのです。
そしてこの女性が受け取ったのは、体のいやしだけではありませんでした。彼女は震えながらイエス様のもとに来て、すべてをありのままに話します。イエス様はこう答えられます。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。もう病気にかからず、健やかでいなさい」。彼女は二重のいやしを受けて帰って行きました。体は回復し、魂は赦されたのです。これは私たち一人ひとりに必要なものでもあります。なぜなら聖書は、すべての人間を蝕むこの霊的な病を「罪」と呼び、イエス様なしにはそれが永遠の死へと至ると教えているからです。
3. イエス様の死に対する勝利
イエス様がこの女性にまだ話しておられる間に、ヤイロの家から使いの者たちがやって来て言います。「あなたの娘さんは亡くなりました。これ以上先生を煩わせることはありません」。人間的に見れば、ヤイロの衝撃はよく分かります。彼は、まだ待てるはずのこの女性のためにイエス様が時間を使うのを見ていたのです。まるで、隣で出血している人がいるのに片頭痛の患者に長々と付き添う救急医のように、イエス様を責めたくなる場面かもしれません。
しかし、イエス様は人間の論理では動かれません。イエス様には別の論理、信仰の論理があります。イエス様は遅れて来られたのではありません。いやし以上のこと、すなわちよみがえりのために来られたのです。ヤイロはまだそのことを知りません。
語られたばかりのその否定的な言葉に対して、イエス様は言い争われません。本文は、イエス様がその言葉を意に介さず、その上に別の言葉を重ねられたと記しています。「恐れることはない。ただ信じなさい」。これこそ、私たちに悪い言葉が降りかかるとき(「お前には絶対に無理だ」「お前はひとりぼっちになる」「その病気で死ぬんだ」)、私たちが行うべき行動です。その上に神様の言葉を重ねるのです。「そうだ、信仰によって私はやり遂げる。そうだ、神様は道を開いてくださる」と。
それからイエス様は、信仰を持つ三人、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを伴われます。ヤイロの家に着くと、泣き叫び、あざけっていた騒がしい群衆を外に出されます。イエス様は不信仰を締め出されたのです。あざける者たちの真ん中で、信仰による祈りはできないからです。それから子どもの手を取り、「タリタ、クミ」、すなわち「少女よ、起きなさい」と言われます。すると彼女はすぐに起き上がり、歩き出しました。
イエス様の言葉は創造する言葉です。初めに、神様は「光あれ」と言われ、光がありました。ヨハネ1章は、この創造の言葉こそイエス様ご自身であると教えています。イエス様は死のあるところに命を創造し、解決策のないところに解決策を創造されます。あなたの状況が死んでいて希望がないように見えても、イエス様はひと言語ることで新しい命を創造することがおできになるのです。
覚えておきたいポイント
- イエス様は、絶望的だと思える状況にも介入してくださいます。
- 祈りが聞かれるのは、へりくだりから始まります。ひざまずき、自分の力ではどうにもならないと認めることです。
- あなたの証しは、病気の女性に語ったあの人のように、誰かをイエス様のもとへ導くきっかけになり得ます。
- 物事を変える信仰は、なまぬるい信仰ではありません。それは行動する信仰、一つの行動を起こす信仰です。
- 人の言葉があなたを押しつぶそうとするとき、その上に神様の言葉を重ねてください。「恐れることはない。ただ信じなさい」。
自分への適用
- 「出口のない」どんな状況を前にして、あなたは祈ることをやめてしまいましたか。今日、ヤイロのようにイエス様の足元にひれ伏すために戻ってこられますか。
- 今あなたの人生に重くのしかかっている否定的な言葉は何ですか。その上にどんな神様の言葉を重ねることができますか。
- あなたの信仰は、考えるだけの信仰ですか、それとも行動する信仰ですか。今週、イエス様があなたに期待している具体的な一歩は何でしょうか。
- それがその人の人生に何を引き起こすか分からなくても、イエス様があなたにしてくださったことを、誰に証しできるでしょうか。
- 試練のとき、あなたは誰に囲まれていますか。疑う人たちですか、それとも共に祈ってくれる信仰の人たちですか。
引用された聖句
- マルコ 5:21-43 ・ 出血の止まらない女性とヤイロの娘。
- ヘブル 13:8 ・ 「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも同じです。」
- 創世記 1:3 ・ 「神は、『光あれ』と仰せられた。」
- ヨハネ 1:1-14 ・ 創造の言葉であるイエス様ご自身。
- ローマ 3:23 ・ 「すべての人は罪を犯したので、神の栄光を受けることができず。」
よくある質問
なぜイエス様は、到着する前にヤイロの娘が死ぬのを待たれたのですか。
ヤイロは、私たちと同じように、人間的な緊急性で考えていました。しかしイエス様は決して遅れて来られることはありません。病気の女性のために時間を使われたのは、いやし以上のことのため、すなわちよみがえりのためでした。イエス様の論理は私たちの論理とは違いますが、その計画は完全です。
イエス様の衣のように、物に触れることでいやしを得ることはできるのですか。
いいえ。衣はただの布であり、それ自体には何の力もありません。働いたのは、その行動の背後にいるイエス様ご自身に対する、この女性の信仰でした。私たちが近づくべきなのは物や迷信ではなく、イエス様ご自身なのです。
JM ボトロン師の言う「行動する信仰」をどう持てばよいのですか。
行動する信仰とは、具体的な行動を起こす信仰です。祈りの中でイエス様のもとに来ること、イエス様に近づくこと、人間的な論理が何を言おうとも御言葉に従うことです。それは、自分には何もできないと認めるへりくだりから始まり、イエス様がどんな状況をも超えるお方であるという信頼へとつながっていきます。
メモを取ったり質問したりするにはサインインしてください。