はじめに
マット・マルヴァンさんは、SOSリヨン教会(Momentum)でのメッセージを、あるクイズから始めます。「わたしがあなたがたにしたとおり、あなたがたもするようにと、模範を示したのです」。これは誰の言葉でしょうか。イエス様です。では、どんな場面で語られたのでしょうか。足を洗う場面です。十字架にかかる数時間前のその夜、イエス様は言葉で謙遜を定義されたのではありません。手ぬぐいと洗い桶、そして弟子たちの汚れた足、ユダの足も含めて、それによって謙遜を定義されたのです。このメッセージは、その定義を理論としてではなく、あなたの台所で、職場で、人との関わりの中で、日々受け取るよう招いています。
メッセージの構成
1. ヨハネ13章:イエス様は一つの行動で謙遜を定義される
- マット・ヨハネ13章1節を開きます。「過越の祭りの前に、イエスは、この世を去って父のもとに行くべき自分の時が来たことを知られた。世にいるご自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し抜かれた。」
- 夕食の最中、悪魔がすでにユダの心にイエスを裏切る思いを入れていたにもかかわらず、イエス様は食卓から立ち上がり、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取り、水を洗い桶に入れて、弟子たちの足を洗い始められます。
- イエス様はすべてをご存じでした。ご自分の時が来たこと、死んで、復活して、父のもとに帰ることを。そしてまさにその時を選んで、ご自分の愛の深さをもう一度、言葉ではなく行動で表されたのです。
- 説教者はこう強調します。この最後の食事は、愛する十二人との親密な交わりの中で行われました。公にさらされ、本当に侮辱され辱められる場面が来る前に、その定義が示されたのです。
2. 奴隷の手ぬぐい:イエス様は最も低い場所を選ばれる
- 当時の東方世界では、人々はサンダルを履いて歩き、足はいつも埃だらけでした。客人の足を洗うことは敬意のしるしでした。しかし実際にこの役目を担っていたのは、奴隷や召使いだけでした。
- マット・マルヴァンさんははっきりと言います。この務めは少し卑しいものとみなされていました。主人がすることではなく、まして神の御子がすることでは決してありませんでした。
- それでもイエス様は、ラビが着る上着を脱ぎ、召使いが身に着けていた手ぬぐいを取って、一人一人を回っていかれます。弟子たち全員の足を、順番に、時間をかけて洗われるのです。
- イエス様はユダの足さえも洗われます。数時間後に何が起こるかをご存じでした。この心がすでに敵の手に落ちていることもご存じでした。それでも他の弟子たちと同じように、何も変わらない、限りない愛をもって洗われました。
- 説教者はこの場面をこう名づけます。「裏切り者の足元にひざまずくイエス」。本来ならユダが主人の足元にひざまずくべきなのに、ひざまずいたのは主人ご自身でした。ここに教訓があります。
3. 神の栄光と隣人の益を求めるなら、どんな行動も自分を貶めることはない
- マット・マルヴァンさんはこの鍵となる言葉を何度も語ります。「神の栄光と他者の益を高めようとする時、どんな行動も私たちを貶めることはありません」。どんな行動も、です。
- 「キリストのために生き、他者のために存在する」。これは標語ではありません。イエス様が洗い桶と手ぬぐいで実際に示されたことです。
- イエス様の生涯全体が謙遜のマスタークラスだと、説教者は語ります。家畜小屋で生まれ、強盗のように十字架で死なれた。その間ずっと、奴隷の場所を取って汚れた足を洗われました。その生涯のどこを見ても、この一本の線から外れることはありません。
- 説教者はここから強い原則を導き出します。他者に仕えることほど神的なもの、天的なものはありません。それこそ、神に最も似た行動なのです。
4. アダムの高慢、キリストの謙遜:上着を着替える
- 私たちが受け継いだのは謙遜とは正反対のもの、アダムの高慢だと、マット・マルヴァンさんは言います。罪とは結局のところ、神なしで自分の人生を生きられると考えることです。
- しかしキリストにあって、私たちは新しい性質、新しいアイデンティティ、新しい上着、すなわちイエス様の謙遜を受け取ります。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)。
- この上着は、日曜日の午後3時半から5時まで身につけて教会で謙遜そうに見せるための、よそ行きの服ではありません。一週間ずっと、あらゆる場所で、あらゆる人間関係の中で身につけるアイデンティティです。
- 神の前での謙遜は、それが人の前での謙遜として表れなければ何の価値もありません。神の前で膝をかがめながら、月曜日には隣人を踏みつける、そんなことは成り立ちません。
- 「謙遜を根とせずに成り立つ愛はありません」。説教者はコリント人への手紙第一13章を、行動する謙遜の描写として読み直します。自慢せず、高ぶらず、自分の利益を求めず、すべてを大目に見、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐え忍ぶ。
5. アリのたとえ:なぜイエス様は私たちの一人にならなければならなかったのか
- マット・マルヴァンさんは一つのイメージを提示します。あなたが一匹のアリを愛していて、そのアリが自分を殺してしまう場所に向かって突き進んでいるのを見たとしましょう。どうやって警告しますか。アリはあなたの声を聞くことも、あなたを見ることも、あなたを理解することもできません。手をアリの前に置いても、アリはその上を通り過ぎてしまいます。
- 唯一の解決策は、あなた自身がアリになって、そのアリのところまで行き、アリの言葉でこう言うことです。「私についてきなさい。そちらに行ってはいけない。死んでしまうよ」。
- まさにこれがイエス様のなさったことだと、説教者は言います。イエス様は栄光の天におられましたが、私たちのためにアリになることを選ばれました。栄光を離れ、私たちのところまでへりくだって降りてこられ、人としての姿を取られました。私たちがついにその声を聞き、従うことができるようにするためです。
- 「私についてきなさい。そうすればあなたは生きる。私についてきなさい。他のすべてを手放しなさい。私はいつもあなたと共にいる」。キリストの謙遜のすべては、すでにここに、降りてこられたというその事実の中にあります。
6. 小さなことから始める:食卓で、感謝の言葉で、タオル一枚から
- どこから主に倣い始めればよいのでしょうか。食卓からです、とマット・マルヴァンさんは答えます。これから食べる食事について、ただ神に感謝を言うこと、それだけですでに一つの謙遜の表れです。
- 多くの人は、それが当然の権利であるかのように食事をします。「主よ、お腹いっぱい食べられる恵みに感謝します。この食卓の豊かさに感謝します」と言う時間を取ることは、自分だけの力で生きているのではないと認めることです。
- 説教者は「良い伝統」「良い習慣」さえも擁護します。毎日、食事のたびに、神が良い方であり、正しく、真実な方であることを思い起こすこと。これは心を謙遜に保つ小さな行動です。
- 次に、タオルを手に取ること。素敵なレストランでは、給仕が腕にタオルをかけています。それは仕える用意ができている、粗相を直す用意ができているというしるしです。イエス様はまさにそのタオルを取って、仕えられたのだと、マット・マルヴァンさんは言います。
- 柔和で心のへりくだった者として、常にタオルを手元に置いておくこと。それが弟子のしるしです。
7. 何者かになるのではなく、仕える:御国のパラドックス
- 「何者かになろうとするのではなく、仕えることを求めましょう」と、マット・マルヴァンさんは言います。高慢はいつもあなたを、何者かになろう、名を上げよう、肘で押しのけてでも上に行こうと駆り立てます。
- 一方、キリストの謙遜はあなたを仕えることへと導きます。それはあなたを消えさせます。なぜなら、あなたはもはや自分自身によって存在しているのではないからです。「イエス様は最後の食事の場で、姿を消されました。奴隷になられたのです」。
- 説教者はこのパラドックスをこう言い表します。「謙遜こそ、神の御国における唯一の栄誉への階段です。上りたければ、下らなければなりません」。
- 何者かになることは神の仕事です。自分をへりくだらせることは、あなたの仕事です。神にしかできないことは神に任せ、神が求めておられること、すなわち自分を低くすることを行いましょう。
- 箴言16章はこれを裏づけます。「すべて心の高ぶる者は主に忌みきらわれる。確かに、彼は罰を免れない」(5節)、そして「高ぶりは滅びに先立ち、誇る心は倒れに先立つ」(18節)。高慢の下に自分を置く時、あなたは自分自身を罰しているのです。
要点のまとめ
- イエス様は言葉ではなく行動によって謙遜を定義されます。手ぬぐいを取り、足を洗い、ユダの足に至るまでそれを実践されました。
- 神の栄光と他者の益を高めようとする時、どんな行動もあなたを貶めることはありません。これは人の目から自由になるための原則です。
- アダムの高慢は生まれつきあなたのうちにあります。キリストの謙遜は恵みによってあなたに着せられます。あとは、月曜の朝にその上着を戸棚にしまい込まないことです。
- 神の前での謙遜は、人の前での謙遜として表れなければ何の価値もありません。本当の試験は、隣人であり、同僚であり、身近な人です。
- 御国では、栄誉への階段は下へと続いています。何者かになろうとするのではなく、仕えることを求めましょう。あとのことは神が引き受けてくださいます。
自分に問いかけてみましょう
- この謙遜の上着は、日曜日に教会で身につけるだけですか、それとも月曜の朝、職場でも身につけていますか。どこでその上着を戸棚に置いたままにしがちでしょうか。
- 今のあなたにとっての「ユダ」は誰でしょうか。あなたを傷つけた、あるいはこれから傷つけるかもしれないと分かっていながら、それでも今週、その人の足を洗うよう招かれているのは誰でしょうか。
- 「自分にはふさわしくない」と感じるどんな務めにおいて、神はあなたに降りて具体的に仕えるよう求めておられますか。家庭で、教会で、職場で。
- 高慢はどんな場面で、仕えることよりも「何者かになりたい」という思いへとあなたを駆り立てますか。もしその計画を手放して、代わりにタオルを一枚手に取ったら、何が起こるでしょうか。
- 今週、どんな小さな行動を実践しますか(食事の前の感謝、静かな奉仕、へりくだった一言など)。イエス様に少しでも似ていくための練習として。
引用された聖書箇所
よくある質問
なぜイエス様はユダの足も洗われたのですか。
それは、イエス様の愛が条件つきではないからです。マット・マルヴァンさんはこう強調します。イエス様はユダがこれから何をするかをよくご存じでした。その心はすでに敵の手に落ちていました。それでもイエス様は、他の弟子たちと同じように、何一つ変わらない完全な愛をもって、その足を洗われたのです。ここに、キリストの謙遜の深さが表れています。それは相手を選ばず、功績に応じて報いるのでもなく、ただ仕えるのです。「裏切り者の足元にひざまずくイエス」という場面は、まさにユダにその資格がなかったからこそ、心を打つのです。これこそ、イエス様が私たちに残された模範です。
具体的に、どうすればこの「謙遜の上着」を一週間ずっと身につけられますか。
マット・マルヴァンさんは小さな行動を大切にしています。毎回の食事の前に、機械的に食べるのではなく、神に感謝を言うこと。給仕の「タオル」を手に取り、他者の失敗を直すために自分を差し出せる状態でいること。見返りを求めずに、身近な最も小さな人に仕えること。隣人を自分より大きな存在として見ること。そして何よりも、自分の肉の性質がキリストとともに十字架につけられたことを、毎日思い起こすことです。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」。謙遜は教会だけでなく、台所で、コーヒー休憩で、家族の中で実践されるものです。
このメッセージは、どこで、誰によって語られたのですか。
このメッセージは、SOSリヨン教会(Momentumチャンネル)で、マット・マルヴァンさんによって語られました。説教者はヨハネ13章を起点に、コリント人への手紙第一13章や箴言16章にも触れながら、非常に具体的な謙遜の定義を展開しています。語り口は率直かつ牧会的で、給仕の手ぬぐい、自らアリになることでしか救えないアリのたとえ、下へと続く御国の栄誉の階段など、印象的なイメージが用いられています。この動画は2025年11月19日に、教会のYouTubeチャンネルで公開されました。
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