はじめに
ヨハネの福音書に記された、イエスの七つの「わたしは」の宣言。その三番目「わたしは門である」に、メラニー・エリスマンが目を留めます。意外なイメージです。「いのちのパンなるイエス」「世の光なるイエス」「良い羊飼いなるイエス」は分かりやすいのですが、「門なるイエス」とは。けれどもヨハネ10章1〜10節のこの独特なたとえは、驚くべきことを語っています。神への入り口はただ一つ、そしてその入り口は一人の人格なのです。神への道を探しているあなたは、いったいどの門から入ろうとしていますか。
メッセージの構成
1. 天と地の間に開かれた一つの門
- 10章は9章に続く場面です。パリサイ人たちは癒やされた盲人を拒み、イエスは「神の民を導くふりをする盲人たち」を厳しく指摘します。問いはこうなります。本当の羊飼いとは誰なのか。
- イエスはまず、門を通って入る者、門番に知られ、羊たちに認められる者として自らを示します。一方、偽りの羊飼いたちは壁をよじ登って入ってきます。
- 7節から、イエスはこのイメージを広げ、ご自分こそが門であると宣言します。羊の囲い、すなわち神の家に入るための唯一の通り道です。
- 聖書は、初めに神と人とが同じ家に住んでいたと語ります。罪がそこに壁を築きました。しかし、イエスはその死とよみがえりによって門を再び開いてくださいました。今や私たちは、神から切り離された世界にはいないのです。
2. イエスが警告する、神へのにせの入り口
- ある人物。 カリスマ的な指導者、牧師、偉大な賢者、教師、インフルエンサー、民を救うと約束する政治家。前世紀の歴史は、それがどこまで行き着くかを示しました。これは壁の下で、誰か救い主のような人が自分を持ち上げてくれるのを待つ羊です。
- あなたの行い。 道徳性、献身の度合い、霊性、儀式。バプテスマでさえ、水そのものが救うと信じるなら、にせの入り口になり得ます。バプテスマは門そのものではなく、すでに誰かが門を通ったことを告げるしるしです。これは自分ではしごを組み立てる羊であり、一段一段が一つの善い行いです。
- 制度や組織。 国家、経済、教育、医療制度、そして教会でさえも。教会が自分自身を門であるかのように振る舞い、イエスがすでに受け入れておられた人々を退けてしまうことが実際に起こりました。これは壁に自分で穴を掘って、自分だけの門を作り出そうとする羊です。
- これら三つの道には共通点があります。いずれも、イエスがご自身の死という代価を払って開かれた門を迂回してしまうのです。「盗人が来るのは、盗み、殺し、滅ぼすためでしかありません。」
3. 誰が入ることができるのか、その向こうには何が待っているのか
- 「誰かがわたしを通って入るなら……」 「誰か」とは、文字通り誰でもということです。履歴書も、前提条件も、差し出すべき善行も必要ありません。しかし同時に、「誰か」とは一人ひとりでもあります。群衆でも羊の群れ全体でもなく、あなた自身、個人としてのあなたのことです。
- この門は、一つの決断を求めます。ある人々は、自由や自主性を失うことへの恐れ、あるいは後悔することへの不安から、戸口にとどまり続けます。すでに中に入った人たちに、それだけの価値があるかどうか尋ねてみてください。
- 「彼は救われます。出入りをして、牧草を見つけます。」 三つの動詞、三つの約束です。入る――門は牢獄のように閉じ込めるのではなく、あなたを安全な場所に守ります。それは安らぎの場所、休息です。出る――日々の生活は、これからは羊飼いと共に営まれます。自由に行き来できるのです。牧草を見つける――食物、あなたに必要なすべてのもの。「わたしには乏しいことがありません」(詩篇23篇)。
- イエスは、遠くから眺めるだけの門ではありません。門は決断を求めるものです。
覚えておきたいポイント
- イエスこそが唯一の門です。その死とよみがえりによって、天と地の間に神への道が再び開かれました。
- 数多くの門が私たちの前に現れます。従うべき人物、自分自身の行い、制度や組織。イエスはこれらを盗人、強盗と呼びます。
- 「誰か」とは誰でもという意味であると同時に、一人ひとりでもあります。この招きは個人的なものであり、個人としての決断を求めます。
- イエスを通って入ることは、牢獄ではありません。それは安らぎであり、安全であり、自由に行き来できることであり、何一つ乏しくならないという確信です。
- 門は、その前に立ち続けているだけでは何の役にも立ちません。信仰は、あなたが敷居を越えるときに始まります。
あなた自身への適用
- 今日のあなたは、どの門を通して神に近づこうとしていますか。ある人物、自分の努力、何らかの制度、それともただイエスでしょうか。
- あなたは今、どんな「はしご」を組み立てていますか。どんな行い、どんな儀式、どんな霊性によって、自分の力で神に届こうとしていますか。
- あなたは、指導者や牧師、政治的な人物といった「救い主のような誰か」が壁の向こうへ引き上げてくれるのを待っていませんか。門を通ることをせずに。
- もしあなたがまだ戸口にとどまっているなら、あなたを引き止めているものは正確には何でしょうか。自由を失う恐れ、後悔への不安、それとも別の何かでしょうか。
- 今週、イエスが語った三つの動詞――入る(彼のうちに憩う)、出る(日々彼と共に歩む)、牧草を見つける(必要なものを受け取る)――を、あなたは具体的にどのように生きていきますか。
引用された聖句
- ヨハネ 10:1-10 ― 羊の門なるイエス
- ヨハネ 9章 ― 生まれつきの盲人の癒やしとパリサイ人との論争
- ヨハネ 6:35 ―「わたしはいのちのパンです」
- ヨハネ 8:12 ―「わたしは世の光です」
- 詩篇 23篇 ―「主は私の羊飼い。私には乏しいことがありません」
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よくある質問
ヨハネ10章1〜10節の「イエスは門である」とはどういう意味ですか。
門とは、羊の囲い、すなわち神の家に入るための通り道です。イエスは自らを門として示すことで、神への唯一の道が自分自身であると宣言しています。罪によって断絶が生じた後、イエスの死とよみがえりによって天と地の間の門が再び開かれました。私たちは今や、ためらうことなく、イエスを通して神に近づくことができます。
この門を通ることができるのは誰ですか。どんな条件がありますか。
イエスは「誰かがわたしを通って入るなら」と言います。この「誰か」とは、文字通り誰でもという意味です。履歴書を提示する必要も、善行を積み重ねる必要もありません。同時に、この「誰か」は群衆全体ではなく、あなた自身、個人としてのあなたです。唯一の条件は、その選択をすること――戸口にとどまるのではなく、門を通り抜けることです。
イエスが警告する、にせの入り口とは何ですか。
このメッセージでは大きく三つのカテゴリーが挙げられています。(1) ある人物に望みを置くこと――カリスマ的な指導者、牧師、政治家など。(2) 自分自身の行いに頼ること――道徳性、献身、儀式、そして門そのものと見なされる場合のバプテスマさえも。(3) 制度や組織に信頼を置くこと――国家、教育、医療、あるいは教会そのもの。これらの道のどれも門ではありません。いずれも壁をよじ登ることに等しいのです。
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