この日曜日の朝、集会は新約聖書のヨハネによる福音書6章、25節から40節までを開きました。長く、読み解くのに骨の折れる箇所です。そこでイエスは、湖の向こう岸までついて来た群衆に応答しておられます。この人々は、前日にイエスがパンを増やされたのを目撃していました。彼らは空腹を抱え、心はどこか別のところに向けたまま戻って来ます。彼らはイエスを求めていますが、イエスが本当はどなたであるかを求めてはいません。イエスは辛抱強く、彼らに、決して腐ることのない食べ物について、天から降って来たパンについて、決して終わることのないいのちについて語られます。この箇所にじっくり向き合う時間を取るなら、それがあなた自身にも直接関わることだと分かるはずです。
教えの構成
- イエスを、本来の姿ではないものにしてしまおうとする絶えざる誘惑
- イエス、天から降って来たパン
- 十字架:自分にはへりくだりを、他者には敬意を
- その肉を食べ、その血を飲むこと:信じて受け入れること
- 聖餐、すでに与えられている永遠のいのちの記念
1.イエスを、本来の姿ではないものにしてしまおうとする絶えざる誘惑
四つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)を読むと、驚くべきことに気づきます。イエスはローマ帝国に占領されたユダヤに生きておられました。そこはギリシアやローマの神々に捧げられた神殿や祭壇であふれていました。ローマの兵士や役人、偶像がいたるところにありました。それでもイエスは、彼らに対して一言も断罪の言葉を語られませんでした。それどころか、自分の僕を遠く離れたところから癒やしてほしいと願い出たローマの百人隊長の信仰をたたえられます。イエスはこの異邦人について、イスラエルの中で見つけたどんな信仰よりも大きいと言われるのです。
イエスが憤りを見せられるのは、むしろパリサイ人や律法学者たちに対してです。彼らは自分に自信を持ちきった信仰者であり、イエスが「白く塗った墓」と呼ぶ人々であり、宗教を利用して自分を他者より優れていると思い込む者たちでした。これは、群衆が期待していたこととはまったく逆の展開です。
ヨハネ6章で、群衆はちょうど食事を終えたところです。満腹しています。彼らはさらに求めます。彼らはイエスを、自分たちを養い、力ずくでローマから解放してくれる王にしようとします。彼らはイエスについて思い違いをしていますが、それは今日も起こりうる思い違いです。今日でも、ある指導者が他国に無条件降伏を求めたり、強者の理屈があたかも美徳であるかのように振りかざされたりするとき、私たちは同じ幻想に出会います。人間の力、お金、軍事力、支配が、魂に平安をもたらすことができるという幻想です。二千年経った今も、人はまだパンを取り違えているのです。
2.イエス、天から降って来たパン
この6章の中で、イエスは六回にわたって「わたしは天から降って来た」と繰り返されます。33節、38節、41節、42節、50節、58節です。これは意図的な繰り返しです。イエスは、ご自分が下から来たのではないこと、政治的な計画や、国家的な夢や、人間の期待の産物ではないことを、聞いている人々に理解してほしいと願っておられます。イエスは別の場所から来られました。父のもとから来られたのです。
33節から35節で、イエスはこう宣言されます。「神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。……わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがありません。」
イエスがあなたに差し出しておられるものは、何よりもまず物質的な快適さや、地上での成功や、あなたを苦しめる人々への仕返しではありません。それは、あなたの咎の赦しであり、神との回復された関係であり、永遠のいのちであり、今日からすでに始まる魂の深い平安です。もしあなたが、イエスから消費できるものだけを求めてイエスを探すなら、あなたはイエスその方を見失ってしまいます。この章の終わりで、御言葉があまりに厳しいという理由で去って行った群衆のようにです。
3.十字架:自分にはへりくだりを、他者には敬意を
福音が美しい理由は、とりわけ二つあります。第一に、福音はあなたが弱く、罪人であることを正直に認めさせてくれます。十字架なしでは、人間は「ごめんなさい」と言うこと、自分の過ちを認めることを非常に難しく感じます。自分を弁護し、事を軽く見せ、相手を責めることを好みます。しかし、イエスがあなたの咎を十字架まで負ってくださったこと、神があなた自身よりもあなたの闇をよく知っていながら、それでもなおあなたを愛しておられることを理解するとき、あなたは武器を下ろすことができます。あなたは、自分を押しつぶすことなく、再びへりくだることができるのです。
第二の理由は、この十字架が、他者に対する深い敬意をあなたに与えてくれることです。なぜなら、イエスの犠牲はクリスチャンだけのために備えられたものではないからです。それは例外なくすべての人に差し出されています。東洋の人にも西洋の人にも。すでに信じている人にも、まだ信じていない人にも。誰もが、この贈り物を受け入れるか拒むかを自由に選ぶことができます。もしあなたがこの贈り物を受け取ったのなら、あなたは赦された者たちの中の一人の赦された者にすぎません。まだ信じていない人を見下すことはできません。「あなたは間違っている、あなたは私より劣っている」と言うことは、あなたの役目ではありません。あなたの役目は、祈ることであり、一貫した生き方をすることであり、すでに静かに相手の心の中で働いておられる御霊に信頼することです。
二十年ほど前、伊豆大島で開かれた中高生のための夏期キャンプで、一人の女子高生が牧師のもとを訪れました。彼女は信者ではありませんでした。十歳のときに母を亡くしていました。父親はお酒に溺れ、帰宅した兄は彼女を殴りました。夜になると、彼女は一人で歩き、見知らぬ人たちに声をかけられていました。彼女はこう言いました。「私はイエスが好きではありません。でも教会は好きです。あそこには、私を温かく見つめてくれる人、優しく話しかけてくれる人がいます。信じていなくても行ってもいいですか。」牧師はこう答えました。「もちろんです。神は生きておられます。教会に来たいと思うその願い自体が、すでにイエスがあなたの中で働いておられるしるしです。急がなくていいのです。来て、とどまって、いつか信じるようになるでしょう。」彼女は言いました。「あなたは、私に信じることを強いない初めての牧師です。」彼女はキャンプの他の若者たちに、それは「変わった牧師だ」と言っていたそうです。そうかもしれません。しかし、神はまさにそこで働いておられたのです。
4.その肉を食べ、その血を飲むこと:信じて受け入れること
51節から58節で、イエスは聞いていた人々に衝撃を与え、今なおあなたを戸惑わせるかもしれないイメージを用いられます。「わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。……わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもまたその人のうちにとどまります。」
この言葉は、文字どおりの意味で受け取るべきものではありません。イエスの肉を食べ、その血を飲むとは、イエスをあなたの心に迎え入れることです。それは内側からイエスを信じることです。食物があなたの体に入って肉体のいのちを支えるように、イエスはあなたの魂に入って霊的ないのちを支えてくださいます。イエスは、あなたの日々の糧となられます。イエスなしでは、たとえ体が十分に養われていても、あなたの魂はやせ細ってしまいます。
イエスを信じることは、一度チェックを入れれば終わりの項目ではありません。それは日々新たにされる、受け入れの動きです。あなたは扉を開き、食べ、養われます。そして明日、また同じことを繰り返すのです。
5.聖餐、すでに与えられている永遠のいのちの記念
イエスがヨハネ6章で語られたことは、最後の晩餐の夜に成就します。マタイ26:26〜28で、弟子たちが食事をしているとき、イエスはパンを取り、感謝をささげ、それを裂いて弟子たちに与え、こう言われました。「取って、食べなさい。これはわたしのからだです。」それから杯を取ってこう言われました。「みな、この杯から飲みなさい。これは、罪の赦しのために多くの人のために流される、わたしの契約の血だからです。」
あなたが聖餐にあずかるたびに、それは単なる儀式ではありません。あなたは、イエスがあなたのために死なれたこと、死にとどまることなくよみがえられたこと、悪に打ち勝たれたこと、そしてイエスによってあなたが愛された神の子どもとされ、永遠のいのちを約束されていることを、もう一度心に刻み込んでいるのです。聖餐は、この目には見えないが確かな現実に、あなたを結びつけます。
そしてこの聖餐は、信仰においてあなたより先を歩んだ人々にも、あなたを結びつけます。日本の偉大なクリスチャン医師であった日野原重明博士は、病院の院長を務め、看護学校の学長も務めましたが、百五歳を超えて生きられました。晩年のあるインタビューで、彼は正直にこう語っています。「死ぬことは、やはり怖いです。」しかし彼は、父が牧師であり、すでに天に召された妻を持つ、誠実なクリスチャンでした。それでも、自分自身の死を前にして、彼は恐れを感じたのです。彼を支えたのは、彼自身の勇気ではありませんでした。それは、イエスの十字架と復活でした。そして彼は、安らかに旅立たれました。
今日、この集会はまた、九十七歳で、横浜教会の会員であり、がんとの闘病の末に主のもとに召されたばかりの山本みつ姉妹のことを、心に留めています。その五十二年前、四十五歳のとき、彼女はすでにこう証ししていました。「主の喜びこそ、私の力です」(ネヘミヤ8:10)。日本アルプス北部で看護師として働き、孤独と失意の中にあった彼女は、信仰者の姉妹たちを通して信仰に出会いました。彼女は主に捕らえられるため、夜行列車に乗って東京まで旅をしました。そして多摩川でバプテスマを受けました。その後、彼女は横浜の自宅を、祈り会と子どもたちの集会のために開放しました。横浜教会の誕生につながる集会は、まさに彼女の家から始まったのです。また、ある日、自宅の前を通りかかった二人の少女に声をかけ、「子どもたちの集会があるから、いらっしゃい」と言ったのも彼女でした。その二人の少女のうちの一人は、後に牧師になりました。ただ一人、イエスを受け入れた人が、何世代にもわたって実を結ぶのです。
山本姉妹は、数年前に長男を亡くしていました。九十歳を過ぎてから、自分より先に我が子を見送ることは、計り知れない苦しみです。それでも、彼女は最後の日々まで、「ありがとう、ありがとう、ありがとう」と繰り返していました。これこそが、いのちのパンが一つの魂の中に生み出すものなのです。
心に留めたいポイント
- イエスは、あなたの地上的な欲求を満たすために天から降って来られたのではなく、あなたの魂に永遠のいのちを与えるために来られました。
- 群衆は物質的なパンを求めますが、イエスは決して腐ることのない食物を差し出されます。
- 十字架は、あなたを押しつぶすことなくへりくだらせ、まだ信じていない人々への敬意をあなたに与えます。
- その肉を食べ、その血を飲むとは、日ごとにイエスをあなたの人生に迎え入れることです。
- 聖餐は単なる思い出ではありません。それは、あなたの現在を、すでに始まっている永遠のいのちに結びつけます。
自分への適用
- イエスがまず何よりもご自身をあなたに与えたいと願っておられるのに、あなたは今、イエスに対してどんな「地上のパン」を求めていますか。
- あなたの周りに、まだ信じていないからという理由で見下している人はいませんか。その人を裁くのではなく、そのためにどう祈ることができるでしょうか。
- 最後に、言い訳をせずへりくだって誰かに赦しを求めたのは、いつのことでしたか。
- 次に聖餐にあずかるとき、あなたはどんな現実をより深く心に刻みたいと願いますか。
- 山本姉妹に倣って、今日、あなたは誰を、素朴にキリスト者の集まりに招くことができるでしょうか。
引用聖句
- ヨハネ6:25〜40 ・ 天から降って来たいのちのパン
- ヨハネ6:15 ・ イエスは力ずくで王にされることを拒む
- ヨハネ6:50〜58 ・ その肉を食べ、その血を飲む
- マタイ26:26〜28 ・ 聖餐の制定
- ネヘミヤ8:10 ・ 主の喜びはあなたがたの力
FAQ
ヨハネ6章の群衆は、なぜ最終的にイエスから離れて行くのでしょうか
彼らは、パンを与えてローマから解放してくれる王を期待していたからです。イエスがその役割を拒み、霊的なパンについて語られると、彼らは失望します。彼らが望んでいたのは、自分たちの尺度に合ったキリストであり、神の尺度による救い主ではなかったのです。
イエスの肉を食べるとは、比喩なのでしょうか、それとも現実なのでしょうか
それは、内的な現実を表す深い比喩です。その肉を食べ、その血を飲むとは、イエスを信じ、イエスを受け入れ、信仰においてイエスと一つになることです。聖餐は、イエスご自身が逮捕された夜に与えられたしるしとして、この一致を目に見える、実感できるものとしています。
信者ではない人にイエスについて、その人を傷つけずに語るには、どうすればよいでしょうか
あのキャンプの牧師が女子高生にしたように、強制せず、見下さず、御霊がすでに働いておられることを認めながら語ることです。あなたの役目は、受け入れること、自分の生き方によって証しすること、そして祈ることです。残りは、生きておられ、その人をあなた以上に愛しておられる神のなさることです。
メモを取ったり質問したりするにはサインインしてください。