はじめに
Assemblée de Dieu de Montpellier Richter で開かれた「福音を知る夜」の集いで、説教者はサムソンの生涯のある一場面に目を留めます。説教者が語りたいのは「絶望と刷新」について、つまり私たちを打ちのめし疲れさせるものと、神を信頼しようとする人の人生に神が現してくださる力についてです。
取り上げられる箇所は士師記15章17〜20節です。サムソンはペリシテ人に対して大きな勝利を収めたばかりでしたが、力が尽きかけていました。「彼はひどくかわいたので、主に呼ばわって言った」とあります。神が岩を裂かれると水がわき出し、サムソンは元気を回復し、生きかえりました。その場所には「エン・ハッコレ」、すなわち呼ばわる者の泉という名がつけられました。
説教者はこの物語を、ヨハネによる福音書7章のイエスの言葉に結びつけます。「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。」裂かれた岩は、私たちのために打たれたイエスの姿を表すものとなり、結びの招きはマタイによる福音書11章の「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい」です。
メッセージの流れ
1. エン・ハッコレ、呼ばわる者の泉
- 語り終えたサムソンは、戦いに使ったあごの骨を手から投げ捨て、その場所はラマテ・レヒと呼ばれました。そのあとに渇きと祈りがあり、岩から水が出ます。
- エン・ハッコレは「呼ばわる者の泉」という意味です。説教者によれば、そこは「主を呼ぶ者が新たに力を得る場所」です。
- 旧約聖書には、神の民が経験した出来事の中での神の臨在と力を思い起こさせる、物語を持った地名がたくさんあります。
- サムソンの渇きは、まず体の渇きです。喉がからからになり、舌がもつれます。水がなければ、人は長くはもちません。しかしこの状況を通して、福音がすべての人に明らかにする霊的な真理が浮かび上がってきます。
2. 戦いのあとで疲れ果てた人
- 15章で、サムソンは嘲りと見捨てられること、そして裏切りを経験しました。彼を知る人々が彼を引き渡し、友は彼を見捨てたのです。
- 説教者は、それが人に何をもたらすかに目を向けます。逆境を通り抜け、流れに逆らい、「みにくいアヒルの子」のように感じ、孤立して脇に追いやられること。拒絶されると、自分の人生には意味がなく、だれにも見てもらえていないように思えてきます。
- 説教者は一つの逆説を指摘します。私たちの社会は「これ以上ないほどつながっている」のに、孤独がこれほど身近になったことはありません。人々は画面の前で、自分の部屋で、ひとりぼっちなのです。
- ある報道番組の話もしました。若い男性がSNSで自分の生活を演出し、あちらで写真、こちらで写真と、まるで周りにチーム全体がいるかのように見せていました。実際はひとりで、退屈がもどってくると、そこは転落でした。彼は「これしかないんです」と言っていたそうです。
- 一方、サムソンは武器を落とします。彼は「落ち込み」、すっかり呆然としています。体の渇きのほかに、心の奥底で何かが彼を押しつぶしているのです。
3. 彼は主に呼ばわった:神はあなたに関心を持っておられる
- 「彼は主に呼ばわった。」説教者は、福音のメッセージが形を取りはじめるのはここだと言います。苦しみや行き詰まりに直面しても、答えがあり、あなたに関心を寄せている方がおられるのです。
- 「神はあなたという人にまなざしを注いでおられます。」神はあなたが経験していることに無関心ではありません。神にとってあなたは、番号でも見知らぬ人でもなく、あなたの人生を知り、あなたを名前で知っておられます。
- 「呼ばわるとは、呼ぶことです。呼ばわるとは、祈ることです。呼ばわるとは、求めることです。」サムソンは神に叫び、福音は、主を求めるなら主は見いだされるようにしてくださる、と告げています。
- サムソンは勝利を収めましたが、空っぽになっています。説教者は、今日でいう精神的な疲れ、うつ、燃え尽きに触れます。だれもそれと無縁ではなく、「私はとても強いから、すべてうまくいく」と言える人はいません。
- サムソンの祈りは誠実で正直です。彼は敵の手に落ちたくないのです。こんなに落ち込んで疲れ、底へ引きずり込まれるように感じているなら、「神にはあなたへの答えがあります」。
4. だれでもかわく者は、わたしのところにきなさい
- ヨハネ7章37節で、祭りの最後の日にイエスは立って叫ばれました。「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。」福音はイエスという方を中心に回っています。
- 祭りはほぼ一週間続きました。人々は食べ、飲み、分かち合いました。そして、だれもが満足したと思えるそのときに、イエスは立ち上がられます。説教者には、ほとんど「まだかわいている者がいるなら」と聞こえるそうです。
- 説教者は、すべてを味わってみて「満たされなかった、まだかわいている」と言う人たちに語りかけます。朝から晩までのパーティー、アルコール、薬物、あらゆる依存、ポルノに頼ろうとする人もいます。「あなたの人生を満たし、満足させることのできる方を、私は知っています。それがイエスです。」
- あなたの魂のどこかに、義や真理、愛、答えを求めてかわいている部分が残っているなら、イエスはあなたを招いておられます。
- その招きは単純です。イエスはあなたを責めず、指をさすこともありません。「イエスはあなたに『来なさい』と言われます。ありのままで来なさい、ただし誠実に来なさい。」
5. 神が岩を裂かれ、霊がよみがえる
- 神はサムソンの苦しみの叫びに無関心ではありませんでした。「神は、ご自分に叫ぶ人に無関心ではありません。福音が語るのは、答えてくださる神です。」
- 聖書は、神が裂かれたのが「岩のくぼんだ所」だと、場所まで特定して記しています。水が流れ出し、サムソンは飲みます。
- 説教者はこの場面を、ひどくかわいているときの最初のひと口の水にたとえます。何かがふたたび動きはじめるのです。しかし聖書はさらに進みます。「元気を回復し、生きかえった」。彼の中の何かが消えかかり、麻痺したようになっていたのです。
- 岩を裂かれたのは神です。ですから、働いておられるのも、主導しておられるのも神です。「兄弟姉妹、あなたの人生で神が働いてくださるなら、物事は変わります。」私たちがしようとすることと神がなさることの違いは、まさにここにあります。
- 説教者は問いかけます。あなたの人生に、死んだようになった領域、麻痺した領域、霧がかかったような領域はありませんか。もう望みはないと思ってしまうほどに。「イエスに向きなさい。」
6. 信じるとは、信頼して、その言葉を飲むこと
- ヨハネ7章38〜39節はこう続きます。「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう。」イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について語っておられます。それはちょろちょろとした流れではなく、川です。私たちの内側からわき上がる神のいのちです。
- 唯一の条件は信じることです。信じるとは信頼することです。「わたしに信頼する者」ということです。
- 説教者はユーモアを交えて、私たちはみな、だれかに失望させられたことがあり、だれかを失望させたこともある、と語ります。「みな同じ立場です。しかし、失望させない方がひとりおられます。それが神です。」
- 説教者は、この夜の証しの中で聞かれた問いに立ち返ります。「主よ、なぜこんなことを許されるのですか。私はそれなりに良い人間なのに。」「私はまあ大丈夫」と思うかもしれません。しかし私たちはみな罪を犯し、みな神のいのちから遠く離れています。それでも神は、私たちのためにご自分のいのちを注ごうとしておられます。
- 信じるとは、「まるで主の言葉を飲んでいるかのように」、それを自分の内に受け入れ、真実だと認めることです。親や友人、夫や妻の言葉が人生に刻まれることがあります。私たちの創造主の言葉は、心と人生を造り変えます。
7. 裂かれた岩、それはイエス
- 説教者はイザヤ書53章を読みます。人に侮られ、見捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた方が、私たちの病を負い、私たちの悲しみをになわれました。私たちは、その方が罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと考えました。
- 十字架の上で、イエスは大声で叫ばれます。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」、すなわち「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。サムソンと同じように、イエスも苦しみを叫びますが、それは拒まれ、見捨てられ、神に見られていないと感じているすべての人に代わっての叫びです。
- 「神は一つの岩を裂かれました。その岩がイエスです。」士師記15章の裂かれた岩は、何世紀ものちに私たちの罪のために打たれる方を、預言的に告げています。
- イエスの死から、永遠のいのちがわき出ました。「彼を信じる者は滅びることなく、永遠のいのちを受け継ぐ」のです。信じるすべての人がこの水を飲み、神の御霊を受けることができます。御霊は、ぐらついて不安定なものを整え直してくださいます。
- 結びに、説教者はマタイ11章28〜30節を読みます。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」この言葉は、「私は強い、すべてうまくいっている」と言う人に向けられたものではなく、自分の疲れを認める人に向けられています。「まず私自身がそうです」と説教者は付け加えました。
- 祈りの時間のあと、説教者は最後のたとえを語ります。飲めば効く良い薬のように、「私は毎日飲んでいる治療薬があります。その名前はイエスです」。その用法は毎日で、朝、昼、晩に、主の言葉を自分に繰り返しながら飲むのです。
心に留めたいポイント
- 勝利を収めたあとでも、疲れ果て、かわいてしまうことがあります。心の疲れと無縁な人はいません。
- 主に呼ばわるとは、主を呼び、主に祈り、主を求めることです。神は、ご自分に叫ぶ人に無関心ではありません。
- イエスは、すべてを味わってなおかわいている人に語りかけます。責めることなく、「来なさい」と言われます。
- 神が主導してくださるとき、物事は変わります。麻痺していたものが、ふたたびいのちを取りもどすことがあります。
- 裂かれた岩は、私たちの罪のために打たれたイエスを告げています。イエスを信じるとは、イエスに信頼し、毎日その言葉を飲むことです。
個人への適用
- 最近のどんな戦いのあとで、武器を落としたサムソンのように、空っぽになったと感じていますか。
- 今、心の渇きをいやすために何を求めていますか。それは本当にあなたを満たしてくれましたか。
- あなたの人生のどの領域が、死んだようになっていたり麻痺していたりして、もう望みがないと思えますか。
- 「主よ、私はかわいています。疲れています。重荷を負っています」と、イエスにただそう言ってみたことはありますか。
- 今週、朝、昼、晩と主の言葉に養われながら、毎日どのようにあなたの「治療薬」を飲むことができますか。
引用した聖書箇所
- 士師記15章17〜20節
- ヨハネによる福音書7章37〜39節
- イザヤ書53章3〜5節
- マルコによる福音書15章34節
- ヨハネによる福音書3章16節
- ローマ人への手紙3章23節
- マタイによる福音書11章27〜30節
よくある質問
士師記15章のエン・ハッコレという名前は何を意味しますか。
エン・ハッコレは「呼ばわる者の泉」という意味です。戦いのあとで渇きに迫られたサムソンが主に叫び、神が岩から水をわき出させてくださった場所です。説教者によれば、そこは主を呼ぶ者が新たに力を得る場所です。
サムソンの渇きと、ヨハネ7章のイエスの言葉にはどんなつながりがありますか。
サムソンの渇きは体の渇きですが、そこには霊的な真理が現れています。ヨハネ7章37節で、祭りの最後の日にイエスは叫ばれました。「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。」イエスは、ほかのどんなものでも満たせない心の渇きについて語り、ご自分を信じる者からは生ける水が川となって流れ出ると約束しておられます。
なぜ裂かれた岩はイエスを告げているのですか。
説教者によれば、神が裂かれた岩は、イザヤ書53章に描かれているように、私たちの罪のために打たれ、苦しめられたイエスを預言的に告げています。イエスの死から永遠のいのちがわき出ました。イエスを信じる人はみな、この水を飲み、神の御霊を受けることができます。