はじめに
レオボテ・イタリアのRadicati nella Parola(御言葉に根ざして)シリーズによるこの説教で、説教者は神の言葉についての教えを続け、決定的な側面、すなわち武器としての御言葉に焦点を当てます。私たちは霊的な領域に生きており、決して中立地帯に生きているのではありません。そこには戦いがあり、神は私たちを丸腰のままにはされませんでした。神はあなたの手に、たましいと霊を分ける両刃の剣を握らせ、敵を打ち負かし、あなたの人生に権威をもたらしてくださいました。しかし、この武器はまた、いつ語り、いつ黙るべきか、いつ剣を抜き、いつ神に戦っていただくべきかを知ることをも求めています。
メッセージの構成
1. 私たちは中立地帯に生きているのではない
- 私たちは時に、霊的なスイスのような中立地帯に生きていると思い込みます。しかしそれは幻想です。霊的な次元において、中立なものは何一つありません。
- 諸国で迫害されているクリスチャンたち、ただイエス・キリストを告白しているというだけの理由で殺されている人々を見るだけでも、確かに戦いが存在することが分かります。
- パウロはこう思い起こさせます。私たちの戦いは血肉に対するものではなく、天にいる諸々の勢力に対するものです(エペソ6:12参照)。
- 最も大きな戦いは、しばしば私たち自身との戦いです。自分の肉、思い、落胆、疑い、うそ、非難との戦いです。そのすべてに対して、イエスはあなたに勝利のための道具、すなわちご自分の言葉を与えてくださいました。
2. 御言葉、両刃の剣
- 神が備えてくださる全身の武具の中で(エペソ6章)、御霊の剣(神の言葉)は攻撃のための武器です。
- ローマ時代、両刃の剣は正確に打ち込むための最も精密な刃の一つでした。このイメージは、御言葉の力と正確さを物語っています。
- 御言葉には人の内側に入り込み、たましいと霊を切り分ける力があります。これこそ、クリスチャンにとって最も大きな戦いの一つです。すなわち、感情と霊を、自分の考えと神の考えを見分けることです。
- 自分自身から出るものと御霊から出るものとを切り分けてくださるのは御言葉です。それによって、いつ御霊が語っておられ、いつ自分自身の願望なのかを、確信をもって知ることができるのです。
3. 御言葉の権威は神から来るのであって、私たちからではない
- 御言葉はそれ自体で権威を持っています。あなたがそれを宣言していないときでさえ、権威を持っているのです。
- 私たちはしばしば、御言葉は自分の口から出て初めて権威を持つようになると思い込みます。しかしそれは誤りです。権威は神から来るのであって、私たちから来るのではありません。私たちは大使であって、源ではないのです。
- 私たちは、御言葉が他の人々を励まし、挑戦させ、自由にする権威を持つことは、快く受け入れます。しかし、私たち自身を切り分ける剣として、同じ権威が自分自身の上にも及ぶことを受け入れるのは、より難しいことです。
- この権威には明確な目的があります。分けること、守ること、訓練すること、立ち上がらせること、回復させることです。これこそが神の言葉の力なのです。
4.「こう書いてある」:荒野でのイエスの応答
- 荒野でのイエスは完璧な模範です。サタンは誘惑と疑いとうそによって、イエスの立場(そのアイデンティティ、権威、神への信頼)を切り崩そうとやって来ました。
- サタンにはあなたを強制する力はありません。彼の限界は誘惑することです。彼はあなたを信仰の地盤から疑いの地盤へと滑り落とそうとします。まさにそこで、あなたの決断が問われるのです。
- イエスは、ただ「こう書いてある」と答えることによって、信仰の地盤にとどまり続けたいという意志を示されました(マタイ4:1〜11参照)。権威はその口から出て、敵を打ち破ったのです。
- 私たちもまた、「こう書いてある」によって敵を打ち破るように召されています。必ずしも正確な聖句の参照箇所である必要はなく、根づいた御言葉であればよいのです。「私は思う」「私は想像する」「私の考えでは」には何の権威もなく、それは肉にすぎません。
5. 御言葉は意見でも、単なる飾りでもない
- 私たちは、にわか神学者同士で御言葉について意見を交わすことに長けてしまいました。意見交換そのものは良いことですが、御言葉は意見ではありません。それは真理であり、私たちのうちに住まわれる聖霊によって吟味されるべきものです。
- 御言葉はまた、鞘に収めたままにしておく単なる装飾品でもありません。それを抜く術を知らなければなりません。
- しかし、どのようにそれを抜くかには注意が必要です。「文字は殺し、御霊は生かす」からです(コリント第二3:6)。啓示も識別もないままでは、御言葉は言葉にとどまり、人を殺してしまいます。
- 御言葉は罪、利己心、高慢をあらわにします。命を与える御霊なしに読まれるなら、それは人を傷つけます。しかし御霊のうちに携えられるなら、同じ真理(「あなたは罪人です」)が救いと、命と、変化をもたらすのです。
- 時には、聖霊なしに剣を抜くよりも、鞘に収めたままにしておくほうがよいことがあります。特に、裁くため、復讐するため、自分をよく見せるために用いようとするときはなおさらです。
6. 沈黙、もう一つの宣言の形
- 御言葉は、あなたが語らないときでさえ権威を持ちます。なぜなら、あなたの人生そのものが語るからです。
- イエスはヘロデの前でそれを示されました。ヘロデは好奇心にかられ、挑発的で、見世物を求めていました。「ヘロデは、多くの言葉を用いてイエスに尋問した。しかし、イエスは彼に何もお答えにならなかった」(ルカ23:9)。イエスは沈黙を保たれたのです。
- 語るべき時と黙るべき時があります。御言葉がすでにあなたのうちにあり、宣言されなくても権威を持っていると知って、それを生きるのです。
- 沈黙は従順であり、識別であり、力ともなり得ます。あなたを困らせるためだけに、あるいは単なる好奇心から話しかけてくる人々もいます。御霊は、彼らが話している間、あなたに黙って、自分を弁護しないようにと求められることがあります。
7. ヒゼキヤとアッシリア人:神があなたのために戦われるとき
- アッシリアの王はイスラエルの民をあざけり、傲慢な態度で挑発しました(「さあ、あなたがたに二千頭の馬を与えよう。もしそれに乗る者を出せるならば」列王記第二18:23参照)。
- ヒゼキヤ王は、非常に奇妙な戦略を命じました。答えるな、というものです。「民は黙っていて、彼に一言も答えなかった。王が『彼に答えてはならない』と命じていたからである」(列王記第二18:36)。
- 翌朝、民が目を覚ますと、十八万五千人のアッシリア兵が死んでいました(列王記第二19:35参照)。民が眠っている間に、神が戦ってくださったのです。
- 耐え忍ぶことは弱さではありません。それは従順であり得ますし、「神が私のために戦ってくださる」という意味を持つこともあります。時に神は、「今回だけは、わたしに任せなさい」と言われるのです。
8. 見分ける:語るか、黙るか
- 御霊なき御言葉には均衡がありません。御言葉なき御霊にもまた均衡がありません。クリスチャン生活とは均衡なのです。
- 黙ることは弱さではなく、御霊がそれを求められるときには、成熟のしるしです。
- 敵は反応を引き出そうとします。アッシリアの王のように、彼はあなたを神への信頼から自分自身への信頼へと滑り落とさせようと挑発してきます。
- 御言葉を前にしたクリスチャンには二つの姿勢があります。「こう書いてある」と剣を抜く備えをすること、あるいは、神は真実であり、あなたのために戦ってくださると知って、静かに休むことです。
心に留めておきたいこと
- 中立地帯は存在しません。あなたは霊的な戦いの中に生きており、神はご自分の言葉を武器として与えてくださいました。
- 御言葉は両刃の剣です。それはあなた自身の内側においても、たましいと霊を切り分けます。
- 権威は神から来るのであって、あなたの口から来るのではありません。御言葉は沈黙の中でさえ権威を持っています。
- 「こう書いてある」は敵を打ち破りますが、「私はこう思う」では敵を揺るがすことはできません。
- 御霊なき御言葉は殺し、御霊とともにある御言葉は生かします。
- 御霊が求められるときに黙ることは、神にあなたのために戦っていただくことです。
個人への適用
- 今、敵はあなたの健康、仕事、家族、アイデンティティのどの部分で、信仰の地盤から疑いの地盤へと滑り落とさせようとしていますか。今週、それに答えるために覚えられる具体的な「こう書いてある」の御言葉は何ですか。
- あなたは、御言葉が他人に語りかけるためだけでなく、あなた自身の上にも権威を持つことを受け入れていますか。具体的にどの点で、あなたの感情と御霊が語っておられることとを切り分けてくださるよう御言葉に求めていますか。
- 裁くため、自分を正当化するため、あるいは復讐するために御言葉を用いている領域はありませんか。語る前に剣を鞘に収め、啓示を受け取れるように祈るなら、何が起こるでしょうか。
- 他の人があなたを挑発したり、あなたに逆らって語ったりしているとき、神はどのような状況であなたに黙るように求めておられるかもしれませんか。自分を弁護せず、神に答えていただく備えはできていますか。
- 「こう書いてある」があなたの口に自然と上るようになるために、御言葉をあなたのうちに根づかせる具体的な習慣(毎日の通読、週に一節の暗唱、声に出しての黙想)として、何を始めることができますか。
引用聖句
- エペソ6:10〜17 · 神の武具と御霊の剣。
- ヘブル4:12 · 神の言葉は生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭い。
- マタイ4:1〜11 · 荒野で誘惑されたイエスは「こう書いてある」と答えられる。
- コリント第二3:6 · 文字は殺し、御霊は生かす。
- ルカ23:6〜9 · ヘロデの前で、イエスは沈黙される。
- 列王記第二18:17〜36 · アッシリア人の傲慢とイスラエルの沈黙。
- 列王記第二19:35 · 一夜のうちに打たれた十八万五千人のアッシリア兵:神がご自分の民のために戦われる。
- 詩篇121:4 · イスラエルを見守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。
よくある質問
なぜ神の言葉は「御霊の剣」と呼ばれるのですか。
エペソ6章に描かれている武具の中で、それが唯一の攻撃用の武器だからです。ローマの両刃の剣のように、それは精密で、生きていて、力があります。それはたましいと霊を分けるまでに深く入り込み(ヘブル4:12)、イエスが荒野でそうされたように、クリスチャンが敵に立ち向かうことを可能にします。
いつ語り、いつ黙るべきかを、どうすれば知ることができますか。
この識別は御霊から来ます。イエスは必要なときには語り(「こう書いてある」)、ヘロデの前では黙られました。御霊があなたを、人を建て上げるために答えるよう促しておられるのか、それとも神に戦っていただくために沈黙へと招いておられるのかを尋ねてください。従順による沈黙は弱さではなく、成熟のしるしです。
「文字は殺し、御霊は生かす」(コリント第二3:6)とはどういう意味ですか。
啓示も愛もなしに引用された御言葉は、救う代わりに傷つけることがあります。それは命をもたらすことなく罪をあらわにするだけです。御霊のうちに携えられるなら、同じ真理が悔い改めと、回復と、変化へと導きます。裁くために御言葉を抜いてはいけません。聖霊の導きのもとで抜きなさい。
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