はじめに
ロシア革命直後の受難日、シベリアの小さな木造の集会所で、一人の老人が立ち上がりました。その晩、若い活動家たちが集会の半分の時間を使い、神など存在しない、復活は作り話だと声高に叫んでいました。三十人ほどの教会員たちはうつむいたまま、一言も発さずに聞いていました。すると、その年老いた農夫が発言を求めました。彼は前に出て、テーブルに手をつき、とても静かにこう言いました。「今日は金曜日です。しかし、日曜日が来ます。」沈黙が流れました。彼はもう一度同じ言葉を繰り返しました。さらにもう一度。三十分ほど経つ頃には、会衆全員がこの五つの言葉に手を打ち鳴らしていました。説教者が周りを見渡すと、会場の奥で叫んでいた二人の若者たちの姿は、もう消えていました。
四十年以上前に聞いたというこのエピソードから、2026年4月5日、横浜シオン教会のイースター礼拝は始まりました。この日の御言葉はヨハネ20:19-23です。復活の夜、弟子たちは恐れのあまり、鍵を二重にかけて閉じこもっていました。イエス様は扉を打ち破ったりはしません。誰かを辱めることもありません。ただ彼らの真ん中に立ち、傷跡を見せ、一つの言葉を語られます。「シャローム」。あなたがたに平安があるように。この言葉を、イエス様は同じ箇所の中で三度繰り返されます。ご自分を見捨てた者たちに三度。そして、閉ざされた扉と震える心に自分を重ねるあなたにも、同じように三度。
もし今日という日が、悲しみと恐れと疑いに満ちた金曜日のように感じられるなら、イースターの福音はあなたに、とても具体的な知らせを届けています。日曜日はもうすぐそこまで来ている、そして復活された主は、その中に入って来られる、ということです。
メッセージの構成
1. イエス様は、あなたが鍵をかけているその場所まで迎えに来られる
この場面をよく見てみましょう。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、戸を閉ざしていたが、そこにイエスが来て、真ん中に立ち、『あなたがたに平安があるように』と言われた。」(ヨハネ20:19、新改訳)。弟子たちは自分から迎えに出たりはしません。むしろ隠れています。自分たちも捕らえられ、あざけられ、処刑されるのではないかと恐れているのです。それでも、来てくださったのはイエス様のほうでした。壁を通り抜けて来られたのも、主導権を取られたのも、イエス様ご自身なのです。
説教者はここを強調します。イエス様は弟子たちを叱りつけるために戸を通って来られたのではありません。「臆病者たちよ、金曜日はどこにいたのか」とは言われないのです。むしろ、釘の跡が残る手を差し出し、脇腹を開いて見せ、迎え入れる言葉を語られます。イエス様が話していたアラム語で、その言葉はおそらく「シャローム」でした。今でもイスラエルでは、朝から晩までこの言葉で挨拶を交わします。それは空虚な決まり文句ではありません。あなたのすべてが、また良いものに変えられるという宣言なのです。
ペテロのことを思い出してください。裁判の夜、彼は三度、イエス様のことを知らないと誓いました。それでも、復活された主が部屋に入って来られたとき、ペテロにも「シャローム」と言われたのです。主はペテロを遠ざけたりはしません。教室の一番後ろに追いやったりもしません。あの弟子たちに、あの逃げ出した者たちに、あの裏切った者に「シャローム」と言われたのなら、今朝、あなたに何と言ってくださるか、想像してみてください。イエス様が扉越しに「シャローム」と言えないほど、閉ざされた心などひとつもないのです。
2. この世の平安とは似ても似つかない平安
最初に思い浮かぶのは、こんな反応かもしれません。「平安、そうですね、欲しいです。すべてがうまくいって、誰にも邪魔されず、穏やかな生活が送れたらいいのに。」しかし、その数日前にイエス様ご自身が語られた言葉に耳を傾けてみましょう。「わたしは、平安をあなたがたに残します。わたしの平安をあなたがたに与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がせたり、恐れたりしないようにしなさい。」(ヨハネ14:27、新改訳)。そして同じ話の締めくくりにはこうあります。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。あなたがたは、この世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っています。」(ヨハネ16:33、新改訳)。
イエス様の平安とは、波がまったくない状態のことではありません。それは、波の真ん中に立ち続けることのできる、積極的で力強い平安です。説教者は自分の言葉でこう表現します。これは受け身の平安ではなく、問題が戦場のように積み重なっても、あなたを生かし続ける平安なのだと。この平安があったからこそ、創世記50章のヨセフは、自分を奴隷として売った兄たちにこう言うことができました。「あなたがたは私に悪をたくらみましたが、神はそれを良いことのために計らわれました。」(創世記50:20、新改訳)。この平安があったからこそ、ダニエルは獅子の穴の中でも立ち続けることができました。この平安があったからこそ、鍵を二重にかけて隠れていた弟子たちが、数週間後には公に復活のキリストを宣べ伝えるようになったのです。
この平安には土台があります。20節をよく見てください。「こう言って、手とわきをお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。」イエス様はただ「シャローム」と言うだけでは終わりません。傷跡を見せ、十字架を見せ、支払われた代価を見せてくださるのです。説教者はこう言い表します。復活を伴わずに十字架だけを信じるのは、片手だけで信じるようなものだと。十字架と復活は切り離すことができません。十字架の上で、イエス様はあなたの罪の代価を払い、あなたを洗い清めてくださいました。復活において、死を貫いて続く命をあなたに与えてくださいます。イエス様が差し出す平安は、この二つの現実の上に築かれているのであって、朝起きたときの気分の上に築かれているのではありません。
3. 秘訣は、御霊を受け、遣わされること
では、この平安はどのようにして、ページの中の言葉からあなたの心へと移っていくのでしょうか。その鍵は22節にあります。「そう言って、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」(ヨハネ20:22、新改訳)。そしてその直前、21節にはこうあります。「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」イエス様の平安は、コレクションのように集めておくものではありません。聖霊によって受け取り、あなたが遣わされるときに働き始めるものなのです。
説教者はここで、立ち止まって考える価値のある指摘をしています。聖書を丸暗記し、神学の講座を受け、ヘブル語やギリシア語を学んでいても、この内なる平安を一度も味わったことがない人がいます。逆に、ただ素直に聖書を読み、心を開いて祈るだけの人が、真夜中に、ふと心によみがえってきた一つの御言葉に支えられることもあります。イエス様の約束を思い出してください。「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14:26、新改訳)。御霊は、あなたを目新しく劇的な体験で満たすためではなく、必要なときに、あなたを立たせてくれる御言葉を思い起こさせてくださるために働かれます。
そして、この内なる平安は必ず、遣わされることへとつながっていきます。「あなたがたが誰かの罪を赦すなら、その罪は赦されます。誰かの罪を留めるなら、それは留められたままになります。」(ヨハネ20:23、新改訳)。説教者はここで注意深く付け加えます。これは、誰が天国に行くかをあなたが決める権威を持つという意味ではありません。そうではなく、もしあなたが語り、祈り、誰かを教会に招くなら、イエス様はあなたと共に働いてくださるということです。逆に、あなたが口を閉ざし、鍵をかけた扉の後ろに隠れているなら、主はご自分の自由の中で、しばしば待つことを選ばれます。これは重い言葉です。あなたの閉じた口は、御業を遅らせることがあります。あなたの開いた口は、それを前進させることができるのです。
覚えておきたいポイント
- イエス様はあなたの扉を打ち破ったりはしません。閉ざされた部屋に入って来られ、傷跡を見せ、「シャローム」と言われます。
- イエス様の平安は嵐がないことではなく、嵐の真ん中で立ち続ける、生きた平安です。
- この平安は十字架と復活の両方の上に築かれており、どちらか一方だけの上にあるのではありません。
- 聖霊は、あなたの祈りと御言葉との時間の中で、あなたを立ち上がらせる御言葉を思い起こさせてくださる方です。
- 受け取った平安は、遣わされることへとつながります。「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
個人的な適用
- 今、あなたの人生における「鍵のかかった扉」は何でしょうか。恐れから隠れている場所はどこですか。
- 失敗した後で、イエス様から「シャローム」と言われた経験はありますか。もしまだなら、その言葉を受け取ることを妨げているものは何でしょうか。
- あなたが信頼しているのは、状況次第の平安でしょうか、それとも十字架と復活から来る平安でしょうか。
- つらい時に、あなたの心によみがえってきた御言葉はどんな言葉でしたか。その思い起こしのために、御霊に感謝できますか。
- 今週、あなたが遣わされて、祈り、語りかけ、あるいはただ招くべき相手はいますか。
引用聖句
- ヨハネ20:19-23(新改訳)
- ヨハネ14:26-27(新改訳)
- ヨハネ16:33(新改訳)
- 創世記50:20(新改訳)
- マタイ11:28(新改訳)
- テサロニケ人への手紙第一5:16-18(新改訳)
よくある質問
なぜイエス様はヨハネ20章で「あなたがたに平安があるように」を三度繰り返すのですか。
19節、21節、26節において、イエス様は同じ祝福の言葉を語られます。それはおそらくアラム語の「シャローム」でした。最初は、恐れる弟子たちを安心させるためです。二度目は、彼らを宣教へと遣わすためです。そして次の週の初めの日(八日後)には、疑っていたトマスに同じ言葉を語られます。イエス様が与える平安は、恐れと、使命と、疑いのすべてを覆うものなのです。
今日、この復活者の平安をどのように受け取ればよいのですか。
意志の力でつかみ取れるものではありません。聖書を開き、祈りの中で口を開き、御言葉を思い起こさせてくださる御霊に心を開いてください。22節でイエス様が言われるように、この平安は聖霊を受け取ることと結びついています。それは、多くの場合、日曜日の礼拝の中で、復活された主と規則的に交わりを重ねる中で育っていきます。
日曜日の礼拝を欠席することは、深刻な問題なのですか。
説教者ははっきりとこう言います。これは規則の問題ではありません。三回や五回、日曜日を欠席したからといって、あなたが天国から締め出されるわけではありません。イエス様は、あなたを脅すために死なれたのではないのです。しかし、日曜日は復活の日です。そこは、あなたが他の人たちと再会し、共に歌い、御言葉を聞き、御霊があなたが何者であるかを思い起こさせてくださる、本来の場所です。長くそこから離れることは、一週間あなたを立たせてくれるものを、自分自身から奪ってしまうことになるのです。
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