はじめに
一年最後の日曜日です。喜びも、思いがけない入院も、別れの悲しみも、疲れも、何か月もの空白を経て教会に戻ってきたことも、すべてを含んだ一年があなたの背後にあります。そんな中、牧師は聖書の一番最後のページ、黙示録22章を開きました。それは偶然ではありません。ひとつの道の終わりに着いたとき、その道がどこへ続いているのかを見つめることには、大きな意味があります。
いのちの水の川。ひと月ごとに実を結ぶ、十二種類の実をつけるいのちの木。取り除かれるのろい。「わたしはすぐに来る」と語られる主。そして、書物の一番最後に置かれたこの招き。「渇いている者は来るがよい。誰でも望む者は、いのちの水を、価なしに飲むがよい。」(黙示録22:17)
あなたはもしかすると、12月28日を疲れ果てて迎えたかもしれません。あるいは、感謝に満ちて迎えたかもしれません。その両方かもしれません。この礼拝が語るメッセージは、一年の終わりは境界線ではなく、ひとつの扉だということです。そして、その扉の向こうには一本の木があります。「自分の衣を洗う者は幸いである。彼らはいのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都に入ることができる。」(黙示録22:14)
説教の構成
1. 川、木、都:私たちを待っているもの
ヨハネは、神と子羊の御座から出て、水晶のように輝くいのちの水の川を見ます。通りの中央、川の両岸には、ひと月に一度、十二種類の実を結ぶいのちの木があります。この木の葉は諸国の民をいやすために用いられます。もはやのろいは何もありません。夜もありません。神である主が彼らを照らされるからです。
これは単なる物語の背景ではありません。創世記からずっと、贖われた者たちが歩み続けてきた場所についての、具体的な約束です。覚えておいてください。いのちの木は、聖書の最初の書である創世記の2章にすでに登場していました。堕落の後、それは手の届かないところに置かれました。そして今、最後の書の終わりに、その道が再び開かれるのです。聖書全体の物語は、この大きな弧の中に収まっています。
2. 誰がそこに入る資格を持っているのか:14節の中心的な問い
「自分の衣を洗う者は幸いである。」これが招かれる人々です。しかし、彼らとは正確には誰なのでしょうか。牧師は私たちに、黙示録22章にしおりを挟んで、7章9節から14節に戻るよう勧めます。そこには、この節と対になる箇所があります。
そこでヨハネは、あらゆる国民、部族、民族、言語から集まった、誰も数えきれないほどの大群衆を見ます。彼らは御座の前に立ち、白い衣を身にまとい、手にはしゅろの枝を持っています。すると、長老の一人がこう説明します。「彼らは大きな患難を経てきた者たちで、自分の衣を子羊の血で洗い、白くしたのである。」(黙示録7:14)
これが答えです。自分の衣を洗う者たちとは、完璧な人々のことではありません。彼らは、自分の汚れた衣を十字架のもとに持ってきた人々です。自分の努力ではできなかったことを、イエスの血にしていただいた人々です。汚れていたものを、白くしていただいたのです。
3. 試練のただ中で保たれる信仰
その日曜日、牧師は集まった一人ひとりを思いながら会衆を見つめます。入院。事故。家庭で、友人関係で、教会で起きた衝撃的な出来事。「クリスチャンであるはずなのに、なぜこんなことが起こるのだろう」という問い。
それでも、と牧師は言います。あなたはイエスを手放さなかった。手放すことができなかったのです。あなたは「自分は弱い」と思ったでしょう。しかし主はこう答えられました。「いや、あなたは弱いのではない。あなたは支えられているのだ。」十字架の前に来続けること、子羊の血にあなたの心を白くしていただき続けること、それ自体がすでに勝利なのです。主は、あの譬え話のしもべに語られたように、あなたにも語られます。「よくやった、良い忠実なしもべだ。主人の喜びをともに喜んでくれ。」
4. 放蕩息子の帰還
もうひとつの場合もあります。何年も教会に戻ってこなかった。三日、半年、あるいは十年もの間、あなたの口からイエスの名前が出ることはなかった。そして今年、何かが起こりました。あなたは戻ってきました。再び賛美を歌い始めました。
牧師は強調します。主はそのことを喜んでおられます。なぜなら、罪とは何よりもまず、過ちのリストのことではないからです。聖書的に見れば、罪とは神に背を向け、御心から離れることです。そして、たとえ一度でも神に向き直って帰ってくることは、それだけですでに天の喜びなのです。問われるのは「どれだけ長く離れていたか」ではなく、「あなたは帰ってきたか」ということだけです。
5. 「来なさい」と語る二つの声
「御霊も花嫁も、『来てください』と言っている。これを聞く者も、『来てください』と言いなさい。渇いている者は来るがよい。誰でも望む者は、いのちの水を価なしに受けるがよい。」(黙示録22:17)
これは聖書全体の一番最後の招きです。二つの声がこれを語ります。御霊と花嫁、すなわち教会です。聖霊ご自身が、人々の心の中で「来なさい」とささやいておられます。そして教会は、この日曜日もまた、同じ言葉を語り続けています。今度はあなたが、まだ遠く離れている人々に「来なさい」と語る番です。
「価なしに。」これがすべてを解決する言葉です。いのちの水は、努力で勝ち取るものではありません。ただ受け取るものです。
覚えておきたいポイント
- 聖書は、いのちの木で始まり(創世記2章)、いのちの木で終わります(黙示録22章)。救いの物語全体は、この失われた道が再び開かれることの中にあります。
- 「自分の衣を洗う」ことは、霊的な功績ではありません。それは、自分の汚れを子羊の血のもとに、何度でも持ってくることです。
- 厳しい一年をイエスを手放さずに歩み通すこと、それ自体がすでに主の目に勝利です。
- 罪とは、突き詰めれば、神に背を向けることです。神に立ち返ることは、それだけですでに天の喜びです。
- 聖書最後の招きは、受け入れることへの命令です。来なさい、そして他の人にも「来なさい」と伝えなさい。
個人的な適用
- 終わりを迎えるこの一年を振り返るとき、自分ではもう持ちこたえられないと思った瞬間に、イエスがあなたを支えていてくださったと感じたのはいつでしたか。
- あなたの人生の中に、まだ十字架のもとに持ってきていない汚れ、自分自身で洗い流そうとしているものはありませんか。
- あなたは今、距離を置いていた季節を経て、神に立ち返ろうとしていますか。今週、その帰還を具体的にどのように示すことができますか。
- あなたの周りにいる誰かに向けて、御霊は年の終わりまでに「来なさい」ともう一度語るよう、あなたを促していませんか。
- 来るべき世界において、あなたがいのちの木の実の中で最も待ち望んでいるものは何ですか。いやしでしょうか、和解でしょうか、休息でしょうか、それとも神の臨在でしょうか。
引用された聖句
- 黙示録22:1-17・いのちの水の川といのちの木、「わたしはすぐに来る」、「渇いている者は来るがよい」。
- 黙示録7:9-14・白い衣を着た大群衆、子羊の血で洗われた者たち。
- 創世記2章・初めにあったいのちの木。
- マタイ25:21・「よくやった、良い忠実なしもべだ。」
よくある質問
「自分の衣を洗う」とは、具体的にどういう意味ですか。
それは、ありのままの姿でイエスのもとに来て、自分自身では自分をきよくすることができないと認め、十字架の上での彼の死が、あなたの行いとあなた自身を覆ってくださることに委ねることです。これは宗教的な功績ではありません。必要な回数だけ何度でも繰り返される、心の向きの転換です。
長い間教会から離れていましたが、本当に戻ることができるのでしょうか。
できます。放蕩息子の譬え話も、この礼拝の締めくくり方も、同じことを語っています。父は、帰ってくる者に向かって走り寄られます。あなたが「もう遅すぎる」と思っていることを、神は「ちょうどよい時」と呼んでくださいます。
クリスチャンであるのに、なぜこの一年はこれほど厳しかったのでしょうか。
聖書はどこにも、患難のない人生を約束していません。聖書が約束しているのは、そのただ中で支え続けてくださる臨在と、すべての涙がぬぐい去られる目的地です。黙示録7章の白い衣は、まさに「大きな患難」を経てきた者たちが着ているものです。それを避けた者たちではなく、イエスにしっかりとつかまりながらそれを通り抜けてきた者たちが着ているのです。
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