はじめに
「福音が真実なら、なぜそれを信じる人はこれほど少ないように見えるのでしょうか。そして、信じる人がしばしば予想外の人なのはなぜでしょうか。」この二つの問いから、ルカ17章11-19節の十人の重い皮膚病の人のいやしを扱う、サン・ラザール教会(Église Saint-Lazare)のメッセージは始まります。
説教者は、自分自身もこの問いを抱いたことがあると認めています。福音に応答する人があまりに少ないのを見ると、心が揺らぐことがあります。福音は偽りなのだろうか。神はあわれみ深くないのだろうか。もし神が友人たちに力強く現れてくださるなら、彼らは信じるはずなのに、なぜそうしてくださらないのだろうか。自分をクリスチャンだと思っていない人にとって、この少なさは信仰への大きな障害になり得ます。
ルカはまさに、読者を安心させようとしています。それは当たり前のことだ、と。福音は真実であり、神は今も人類をあわれみ、イエスは人々にご自身を現されます。しかし、大多数の人は信じません。この箇所は二つの部分に分けて読めます。多くの人が神のあわれみを経験する(11-14節)一方で、救いに至る信仰を持つ人はまれで、しかも意外な人である(15-19節)ということです。
メッセージの流れ
1. イエスはあわれみのために時間を割かれる
- この物語は、イエスが死を迎えることになるエルサレムへ向かう旅の続きです。イエスは自分の行く末を知っており、弟子たちに何度もそれを告げ、進むべき道から目をそらしません。
- 説教者は、プレッシャーを受けると、自分の問題のせいで他の人の苦しみが見えなくなりがちだと打ち明けます。イエスはそうではありません。死に向かって歩んでおられるときでさえ、あわれみを持ち、苦しむ人々のために時間を割かれます。
- このころ、イエスはすでに地方一帯に知られていました。十人の重い皮膚病の人たちはイエスが来られると聞き、いやしを求めて叫びます。イエスが他の人たちをいやしてこられたように、自分たちもいやしていただけると信じていたのです。
2. 聖書が「らい病」と呼ぶもの
- 説教者は新約聖書の教授ドミニク・アンジェ氏の注解を引用し、ギリシア語のレプラが8世紀以降、今日ハンセン病と呼ばれる病気と混同されてきたと説明します。
- レビ記13章と14章に記された聖書の「らい病」は、進行性の皮膚病の総称です。説教者は自分の例を挙げます。顔にある白斑(尋常性白斑)のために、自分も当時なら重い皮膚病の人とみなされただろう、と。
- この病気にかかると、儀式的に汚れた者とされました。ある種の食べ物を食べたり、遺体に触れたりしても汚れた者になりました。これらは死と破壊に結びつけられていたからです。罪の問題ではありませんでしたが、汚れた人は、神のご臨在がある神殿に入ることができませんでした。「死と、いのちの源である神は、相いれません。」
- 重い皮膚病の人々の悲劇は、体を洗ってもこの状態から抜け出せないことでした。家族を含め、だれとも距離を置かなければなりませんでした。彼らは「生ける屍」と呼ばれていました。
- 「彼らは文字どおり、自分の肌になじめずにいました。」共同体の生活からも、神のご臨在からも切り離された彼らが、13節で叫ぶとき、その涙が想像できます。「イエスさま、先生、わたしどもをあわれんでください。」
3. 御言葉に従う途中でいやされる
- イエスが重い皮膚病の人をいやされたのは、これが初めてではありません。しかし今回は、触れることも、いやしを告げる簡単な言葉を語ることもされません。いやしが実現する前に、「祭司たちのところに行って、からだを見せなさい」と告げられます。
- 人を清いと宣言する権威を持っていたのは祭司たちでした。その宣言を受けると、その人は神殿に入ることができ、社会に戻ることができました。
- イエスは彼らに、いやされると信じ、御言葉に従うことで信仰を働かせるよう求められます。「行く途中で、彼らはきよめられた」(14節)。
- これはクリスチャン生活の姿です。結果を見る前に神を信頼し、御言葉に従うなかで、私たちはいやしと変革を経験します。「試してみてください。神は信頼できます。」私たちが一夜にして変えられるとは限りません。そこには信仰が必要です。
4. 神はすべての人にあわれみを注がれる
- この物語は、イエスの弟子でない人の祈りでさえ、神が聞いてくださることを思い起こさせます。神はすべての人に、ご自身に近づき、助けを見いだし、その力を経験するよう招いておられます。
- 奇跡によってであれ、仕事、お金、健康、人間関係における神の恵みによってであれ、私たちはみな神の一般恩恵のもとに生きています。神は、私たちが神に背いているにもかかわらず、人類を祝福し続けておられます。クリスチャンでない多くの人も、自分の成功が知識や知性や能力だけの結果ではないと認めています。
- 説教者は、コメディアンのジム・キャリーのインタビューを引用します。小学2年生のとき、アイルランド出身の代用教員が朝の祈りの時間にクラスに言いました。「何か欲しいものがあるときは、いつもマリアに祈って、神様に頼んでくださいとお願いして、その代わりに約束をするの。そうすると、欲しいものは何でも手に入るのよ。」彼の家には自転車を買う余裕がありませんでした。彼は自転車が欲しいと祈りました。2週間後、居間に真新しいマスタング社の自転車がありました。友だちが内緒で申し込んでいた抽選で当たったのです。「それ以来、こういうことがよく起こるんです。」
- ジム・キャリーは、イエスを救い主として礼拝しているわけではありません。仏陀やムハンマドと並ぶ、悟りを開いた師の一人と見ています。祈りが聞かれることは、クリスチャンだけのものではありません。神は、悪い者の上にも良い者の上にも太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださいます(マタイ5:45)。
- この神の恵みには目的があります。私たちが悔い改めと信仰をもって神のもとに帰ることです。パウロはローマ2:4でこう書いています。「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。」残念ながら、そのように応答する人はごくわずかです。
5. ただ一人がイエスの足もとに戻ってくる
- 十人のうち、賛美をもって応えたのは一人だけでした。「そのうちのひとりは、自分がいやされたことを知って、大声で神をほめたたえながら引き返してきて」(15節)。彼は途中でイエスのもとに引き返します。
- 説教者はここに、新約聖書と初代教会における神殿神学の小さな姿を見ます。神のご臨在の中にいるために神殿に戻るのではなく、この人はイエスのもとに戻ります。イエスこそが、今や地上における神のご臨在だからです。距離を置かなければならなかった彼が、今は近づくことができるのです。
- 彼はイエスの足もとにひれ伏します。私たちが神に出会い、神に従うよう召されているのは、まず宗教的な制度の中ではなく、イエスの足もとなのです。
- ルカは、イエスの神としての身分をほのめかすために、イメージを巧みに用いています。この人が神をあがめるとき(15節と18節)、それはイエスの足もとでなされます。彼は、神のあわれみがその仲介者であるイエス・キリスト、神の恵みの源を通して来ることを認めているのです。
- イエスはこの礼拝の行為を正そうとはされず、むしろ受け入れられます。そして他の九人について問いかけられます。「きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。この他国人のほかには、神をあがめるために帰ってきた者はいなかったのか」(17-18節)。
- 感謝と礼拝は、たとえ人前であっても、また一人の人が別の人の足もとにひれ伏すという恥を伴ってでも、私たちの人生における神の恵みへの、理にかなったふさわしい応答です。
6. いやされたか、救われたか:救いに至る信仰
- イエスはこの箇所で最も大切な言葉で締めくくられます。「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」(19節)。この人の応答は、彼が救いに至る、イエスへの信仰を持っていることを示しています。
- イエスが「あなたの信仰があなたを救った」と言われるのはこれが初めてではありません。しかし、ルカの書物の中でいやしと救いをはっきり区別されるのは、これが初めてです。他の九人は体はいやされましたが、霊的にはいやされませんでした。この人は救いを得たのです。
- イエスにとっても、ルカにとっても、いやしは救いの象徴です。神が私たちの内側に何をしてくださるかを理解する助けになります。神は、この人たちの外側を変えられたように、私たちの内側も変えてくださいます。いやしは、すべての源、私たちの魂が渇き求めているものへと私たちを向かわせるものです。
- 罪の問題は、私たちを汚れた者にしてしまうことです。罪は私たちを神のご臨在からも、他の人々からも切り離します。しかしイエスはエルサレムへ、十字架へと歩んでおられます。そこで私たちのすべての汚れとすべての罪を身に負われるのです。私たちの反逆のゆえに受けるべきだった神の正しいさばきのもとで、私たちの身代わりに死なれます。
- パウロはIIコリント5:21でこう語っています。「神は、罪を知らないかたを、わたしたちのために罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。」これは交換です。イエスが私たちの汚れを引き受け、ご自身の義を私たちに与えてくださいます。
- その恵みを受けるには、イエスと、イエスが私たちのためにしてくださったことを信じるだけでよいのです。汚れた手では、自分で自分をきよめることなどできないと認めることです。私たちをきよめられるのはイエスだけです。
- 説教者の最初の指摘は、いやされるための信仰はあっても、救われていないことがあるということです。キリスト教の一部の流れには、いやされなかったり、状況が変わらなかったりするのは、本当の信仰がないからだと信じさせようとするものがあります。それはイエスの目的ではありません。イエスははるかに、私たちの救いを気にかけておられます。神は今日もいやしを行い、奇跡を起こされますが、「それが目的ではありません」。この地上で奇跡を経験しても、救いのためにイエスに近づかないことはあり得るのです。
7. サマリヤ人、思いがけない人
- 二つ目の指摘は、戻ってきた人の意外な素性です。ルカは、彼がサマリヤ人だと明記しています。サマリヤ人は何世紀も前に神から離れ、イスラエルの他の人々に反逆し、偶像を拝む国々と結びついて、別の土地に住む別の民族集団になっていました。彼らとユダヤ人の間には、現実の敵意がありました。互いに敵同士だったのです。
- それでも、イエスのもとに戻り、イエスを神が約束された王、メシヤと認めたのは、彼ただ一人でした。他の九人は、おそらくユダヤ人でしたが、それを見ようとしませんでした。
- これは、ルカの書物の宛先であるテオピロ、ユダヤ人ではないギリシア人の大きな問いへの答えです。イエスが本当にイスラエルに約束されたメシヤなら、なぜ認めるユダヤ人はこれほど少ないのか。なぜこの小さな運動は、主にギリシア人や異邦人のものなのか。ルカは答えます。それは当たり前のことで、イエス自身がすでに経験されたことだ、と。神の民として生き、神のあわれみと奇跡を経験しながら、なお信じないままでいることはあり得るのです。
- ですから、イエスのもとに来る人がこれほど少なくても、驚くには及びません。特にヨーロッパでは、文化、芸術、科学、医学に何世紀ものキリスト教の遺産があるにもかかわらず、そうです。説教者が語っているのは、単なる宗教への帰属ではなく、イエスとの現実の関係です。イエスを礼拝し、人前で自分の人生をささげ、感謝のうちに生き、救いをイエスに信頼する人々のことです。
- キリスト教は今日、激しい迫害のもとにある中国や、貧しさが神の善意への疑いを生みかねないアフリカで広がっています。平均的なクリスチャンは、もはや白人男性ではなく、むしろ貧しい黒人女性の姿をしています。
- パリの8区と9区にある教会は、手段があり、おそらく影響力や教養もある、テオピロにより近い存在です。その教会に問いが投げかけられます。そうする人が少なくても、またそうする人が思いがけない人、予想外の国から来た外国人であっても、私たちはイエスに従う用意があるでしょうか。もしそれが気になるなら、それは私たちへの問いかけです。自分の計画や学歴や社会的地位がどうであれ、私にも救い主が必要なのだろうか。
- いやされながらイエスに感謝しに戻らなかった人々がいたのなら、イエスを伝える私たちが、その必要性を感じない人々に出会うことは、なおさら覚悟しておくべきです。「イエスが退けられたのなら、今日もそれが起こるのは当たり前です。」メッセージは一つの招きで終わります。祈ってみて、神がそこにおられるか、叫ぶときに答えてくださるかを確かめ、そして神を信頼し、自分の人生をささげてください。
要点
- 多くの人が神のあわれみを経験しますが、救いに至る信仰でそれに応える人は、まれで意外な人です。
- 十人の重い皮膚病の人は、結果を見る前にイエスの言葉に従ったことで、道の途中できよめられました。
- 信じる人もそうでない人も含め、すべての人に向けられた神の恵みには、私たちを悔い改めに導くという目的があります。
- いやされても救われていないことはあります。救いに至る信仰は、イエスの足もとに戻り、栄光を帰します。
- 信じる人が少ないからといって、福音の真実性が揺らぐわけではありません。イエス自身も退けられたのです。
自分への問いかけ
- 最近、神の恵みのどんなしるしを受けましたか。そして、神に感謝するために戻りましたか。
- あなたはイエスに、まずいやしや問題の解決を求めていますか。それとも、救いとイエスご自身の臨在を求めていますか。
- どんな分野で、神は結果を見る前に御言葉に従うよう、あなたを召しておられますか。
- たとえ社会的に居心地が悪くても、人前でイエスを礼拝する用意がありますか。
- 学歴や社会的地位にかかわらず、自分には救い主が必要だと認めていますか。
引用された聖書箇所
よくある質問
なぜ十人の重い皮膚病の人のうち、イエスのもとに戻ってきたのは一人だけなのですか。
十人全員が神のあわれみを経験し、道の途中できよめられました。しかし、イエスの足もとに戻って神に栄光を帰したのは、サマリヤ人の一人だけでした。説教者によれば、これは救いに至る信仰のしるしです。彼は、神の恵みがイエスを通して来ることを認め、人前で神に栄光を帰したのです。
ルカ17章で、いやされることと救われることはどう違うのですか。
他の九人は体はいやされましたが、霊的にはいやされませんでした。イエスが「あなたの信仰があなたを救ったのだ」と言われたのは、サマリヤ人だけです。いやしは救いの象徴であり、神が私たちの内側に何をしてくださるかを示しています。いやされるための信仰はあっても、救いに至る信仰は持っていないということはあり得ます。
なぜ今日、イエスを信じる人はこれほど少ないのですか。
説教者は、ルカがすでにこの問いに答えていると示します。多くの人が神のあわれみを受けますが、救いに至る信仰でそれに応える人は、まれで意外な人です。イエス自身が退けられたのなら、今日、従う人が少ないのは当たり前のことです。それは福音の真実性を揺るがすものではありません。