はじめに
その日曜日、日本の神戸キリスト栄光教会の第一礼拝で、説教者はルカによる福音書の連続講解を続けました。前の月には、百卒長のしもべのいやしを取り上げました。今月の聖書箇所は、ルカによる福音書7章11-17節、ナインのやもめの息子がよみがえる場面です。
メッセージのタイトルは、16節の群衆の叫び「神はその民を顧みてくださった」から取られています。物語は印象的な場面で始まります。町の門で出会う二つの行列です。一方には、イエスと弟子たち、そして大勢の群衆がナインの町に入って来ます。もう一方には、亡くなった若者を運んで町から出て行く葬列があります。
説教者は、この箇所を三つの流れでたどります。主は見てくださる、主は近づいてくださる、主はいのちを与えてくださる。そしてこの三つの動きの背後に、7章全体を貫く一つの問いがあります。この方はいったいどなたなのか、という問いです。
メッセージの流れ
1. 主は、もう祈れなくなったときにもあなたを見ておられます
- 11節は、前の出来事とのつながりから始まります。直前では、百卒長が人々をイエスのもとに遣わして、ひとことだけ願い、イエスはその信仰に応えてしもべをいやされました(ルカによる福音書7章1-10節)。一方、ナインの出来事が記されているのは、ルカによる福音書だけです。
- 二つの場面の違いははっきりしています。百卒長は助けを求めました。しかしやもめは何も言わず、何も求めません。息子の棺のうしろを歩いていて、たった一言の祈りさえ口にできないほど打ちのめされていたのかもしれません。約束があったわけではありません。イエスはたまたまそこを通りかかっただけでした。
- それでもルカは、主が彼女を見られたと強調しています(13節)。群衆の中で、主はまさに彼女に目を留められました。
- 説教者は家族の習慣について話します。買い物の途中でトイレに行ったあと家族とはぐれたとき、宝探しのように、まだ赤ちゃんの次女の泣き声を頼りに家族を見つけるのだそうです。ときには別の赤ちゃんを間違えて、少し気まずい思いをすることもあるそうです。私たちは、誰かを見つけるために、いつも何か目印を探します。
- 聖書は、この女性がほかの人より大きな声で泣いていたからイエスが気づかれた、とは書いていません。文脈からは、彼女が主の心を深く動かすほどに泣いていたことが読み取れます。
- 「祈りの言葉が出てこなくなっても、主はあなたを見ておられます。」主はあなたが主を見るより先にあなたを見ておられ、あなたが痛みの表し方を見つける前に、その痛みを知っておられます。
- だからといって、祈っても意味がないということではありません。あなたは痛みを主の前に持って行くことができます。けれども、神の恵みは祈りの強さで勝ち取るものではなく、あなたの信仰が神を動かすのでもありません。
- このまなざしは、監視のまなざしではありません。主はあなたを知っておられ、あなたの悲しみを見て、あなたをあわれんでくださいます。
2. 主はあなたの痛みに近づいてくださいます
- ルカは、亡くなった若者が「ある母親のひとり息子」で、「その母親はやもめであって」と記しています(12節)。この女性はすでに夫を失っていました。そして今、ひとり息子まで失おうとしています。
- 彼女の人生のすべてを知っているわけではありませんが、この言葉は喪失の大きさを物語っています。当時の社会で、やもめは弱い立場にありました。この死別は、悲しみに加えて、将来への現実的な不安ももたらしました。
- 「主はこの母親を見て深くあわれ」ました(13節)。「あわれむ」と訳されている言葉は、はらわたに結びついた言葉です。離れた所から「かわいそうに」と言うのではなく、心の奥底からわき上がる思いなのです。
- イエスは彼女に「泣かないでいなさい」と言われました。文脈から切り離すと、これは規則のようになってしまいます。信仰があれば泣かない、クリスチャンは悲しんではならない、というように。しかし、そういう意味ではありません。むしろ「わたしはあなたの痛みを知っている。わたしがここにいる。もう泣かなくてよい」という意味です。
- そしてイエスは近寄って、棺に手をかけられました(14節)。死の現実からも、悲しみからも、絶望からも、目をそらされません。死んだ人に触れることは、律法では汚れとされていました。イエスは、誰もしなかったことをされたのです。
- この行いは、イエスがどなたかを物語っています。イエスは死のない世界から降りて来て、死に染まった私たちの世界に入ってくださいました。この道は十字架へとつながっていきます。「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」(ピリピ人への手紙2章8節)。
- 説教者は慎重です。この行いが十字架を直接予告していると断言することはできません。けれども、イエスがこれから歩まれる道と響き合っています。イエスは人生を少し快適にするために来られたのではなく、罪と死に捕らわれた人々を救うために来られました。
- ナインは、名の知られていない小さな町でした。イエスは、注目される場所にだけ行かれるのではありません。人の目には取るに足りないと映る場所にも来てくださいます。ですから、あなたのところにも来てくださるのです。
3. 主はいのちを与えてくださいます
- 「若者よ、あなたに言う。起きなさい」。「すると、死人は起き上がって、ものを言い出した。イエスは彼を母にお返しになった」(14-15節)。失われた息子が母に返されました。イエスのあわれみが、具体的な形をとったのです。
- この奇跡は、信じれば失ったものがすべて返される、という約束ではありません。クリスチャンも病気になり、愛する人を失いますし、祈りが期待どおりに、またすぐに聞かれるとは限りません。クリスチャンであっても、悲しみがなくなるわけではありません。
- ですからこの記事は、祈れば必ず望む奇跡が起こるという法則を述べているのではありません。祈りには力があり、主は耳を傾けてくださいますが、それを機械的な規則にしてしまうのは別のことです。
- ルカが示そうとしているのは、イエスがどなたかということです。百卒長は「ひとこと」を願い、しもべは言葉によっていやされました。ここでは、イエスが死んだ若者に直接語りかけ、その言葉が彼を起き上がらせます。
- エリヤとエリシャも、死んだ人が生き返るのを見ました(列王紀上17章17-24節、列王紀下4章32-37節)。しかし彼らは神に祈り、神が働かれました。一方イエスは、ご自身のうちに死人をよみがえらせる権威を持っておられます。
- 群衆は「なんという奇跡だ」で終わりません。神をあがめて言います。「大預言者がわたしたちの間に現れた」、また「神はその民を顧みてくださった」(16節)。神はご自分の民を忘れてはおられません。遠くから眺めておられるのではなく、イエス・キリストにおいて来てくださったのです。
- 7章では、まだ多くの人がイエスがどなたかを知りません。説教者が来月に取り上げると予告している次の箇所には、バプテスマのヨハネの問いが記されています。「きたるべきかたはあなたですか。それとも、ほかに待つべきでしょうか」(ルカによる福音書7章19節)。ここが7章の中心です。この方はいったいどなたなのか。
4. 二つの行列、一つの出会い
- 説教者は、最初の情景に戻ります。町に入って来る行列と、墓へ向かって町から出て行く行列です。二つは門のところで出会います。
- 葬列の中で、主は母親を見てあわれみ、近づき、若者を起き上がらせて、母に返されました。
- 私たちの人生にも、避けられない悲しみがあります。祈ってもすぐには変わらない状況があり、愛する人との別れがあります。口先では「きっとうまくいく」と言えても、心から信じることはできないときもあります。
- けれども、いのちを返す力を持っておられる、よみがえった主がおられます。キリストは死に勝利されました。だからあなたは、悲しみの中でも、試練の中でも、死に直面するときでさえ、希望を持ち続けることができます。
- 説教者は、これらの真理を頭で理解するだけでなく、体験するよう勧めています。主は私を見ておられ、私に近づいてくださり、私にいのちを与えてくださる、と。
心に留めたいポイント
- 主は、あなたが主を求めるより先にあなたを見ておられました。祈りの言葉が出てこないときにも、主はすでにあなたの痛みを知っておられます。
- 主のあわれみは、心の奥底から来ます。「泣かないでいなさい」は非難ではなく、慰めの言葉です。
- イエスは死や悲しみを避けて通られません。それに近づき、棺に手をかけ、忘れられた場所にまで来てくださいます。
- この奇跡は、望むものを手に入れるための方式ではありません。死に対するイエスの権威を現しているのです。
- イエスにおいて、神はその民を顧みてくださいました。キリストは死に勝利されました。だから、悲しみの中でも希望は揺らぎません。
個人への適用
- 今、あまりに重い痛みの中にいて、もう祈ることができなくなっていませんか。主がすでにあなたを見ておられるという事実は、あなたにとって何を変えますか。
- 神の恵みは、祈りの強さや信仰の強さに左右されると思うことはありませんか。ルカによる福音書7章は、その考えをどのように正していますか。
- あなたの人生のどの領域で、イエスに「近づいて」いただき、死んでいるように見えるものに触れていただく必要がありますか。
- 祈ってもすぐに状況が変わらないとき、どのように希望を持ち続けることができますか。
- 今週、聖書を読むときに、7章の問いを自分に問いかけてみましょう。私にとってイエスは、今日、どなたですか。
引用した聖書箇所
よくある質問
ルカによる福音書7章11-17節のナインで何が起こりますか。
町の門で二つの行列が出会います。イエスと弟子たち、大勢の群衆の一行と、やもめのひとり息子の葬列です。イエスは母親を見てあわれみ、棺に手をかけて「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われます。死んだ若者はものを言い出し、イエスは彼を母にお返しになります。
なぜイエスはやもめに「泣かないでいなさい」と言われたのですか。
説教者は、これは泣くことを禁じる言葉でも、クリスチャンは悲しんではならないという意味でもないと説明します。それはあわれみに満ちた呼びかけです。「わたしはあなたの痛みを知っている。わたしは来た。もう泣かなくてよい」という意味です。「深くあわれ」と訳された言葉は、はらわたからわき上がる思いを表しています。
この奇跡は、失ったものをすべて神が返してくださるという約束ですか。
いいえ。説教者は、この記事は祈れば必ず期待した奇跡が起こるという法則ではないと説明します。クリスチャンも今なお病気になり、愛する人を失います。この記事が何よりも示しているのは、イエスがどなたかということです。死に対する権威を持ち、その方において神がご自分の民を顧みてくださった、そのお方です。
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