はじめに
2026年9月27日の日曜日、東京グレイス福音教会の礼拝は、ローマ人への手紙8章32節で始まります。「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。」この箇所が礼拝の方向を示します。神は最も良いものを、何も惜しまずに与えてくださいました。
続いて説教者は、パウロがエペソの長老たちに語った言葉を開きます。「わたしは、人の金や銀や衣服をほしがったことはない。あなたがた自身が知っているとおり、わたしのこの両手は、自分の生活のためにも、また一緒にいた人たちのためにも、働いてきたのだ。わたしは、あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また『受けるよりは与える方が、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである」。(使徒行伝20章33〜35節)
聖書の中でも特に有名な言葉の一つです。しかし説教者は率直に問いかけます。私たちクリスチャンは、本当にそれを信じているでしょうか。メッセージの中心にある確信は、幸せは決して偶然ではないということです。幸せには理由があります。その理由とは、与えることです。
メッセージの流れ
1. 幸せには理由がある
- 「さいわい」と訳された言葉は、人間の幸福の尺度を表しています。イエスは、その幸福は与えることにあると教えておられます。
- あなたが幸せかどうかは、偶然ではありません。幸せには理由があり、幸せが欠けているときにも理由があります。
- この箇所は、与えることと受けることを対比しています。与えることは受けることよりも人を幸せにし、受けることは与えることほどには人を幸せにしません。説教者はここに「極めて健全な」原則を見ています。
- なぜでしょうか。与える人は、自分が神から受けたものを分かち合っているからです。受け取ることを待ちながら歩む人は、自分の幸せを、与えてくれる人々に依存させてしまいます。
2. 受けることを待つ人は、人に依存する
- 受けることが一番の幸せなら、あなたの人生は与えてくれる人に左右されます。「もっと率直に言えば、縛られているのです。」与えることは、最も幸せな人の印なのです。
- この原則は聖書の外にも当てはまります。多くの人はまず愛されたいと願います。しかし、毎日愛されようと求める人の喜びは、先に愛する人の喜びを決して超えません。
- 周りを見回して愛を求めるよりも、自分から愛するほうが幸せです。その愛は神から来るからです。
- 受けることはもちろんうれしいものです。しかし、受けることだけを考える人は、他人をあてにしています。与える人には、もっと大きな喜びがあります。
- パウロはこの言葉を、エペソの長老たちを呼び寄せて別れを告げた港町ミレトで語りました。彼は警告します。多くの人は偽りの幸せを追い求めています。何があなたを幸せにするのか、思い違いをしてはいけません。受ける喜びではなく、与える喜びを求めなさい。
3. 惜しむ心、そしてそれが砕かれるとき
- 与えることをためらうとき、その背後には惜しむ心があります。好きなものにしがみつき、自分の時間を節約するのです。
- それでも、「労を惜しまない」という表現があるように、私たちはすべてを与えることもできます。生まれつきアトピー性皮膚炎の子どもを持つ家族は、労を惜しまず、食べ物の一つひとつに気を配ります。
- 子どもや妻の両方の腎臓が働かなくなったとき、父親や母親は、少しのためらいもなく自分の腎臓の一つを差し出します。惜しむ心は消えてしまいます。
- 適合しなくて提供できないことも多くあります。それが見知らぬ人なら、ほっとする人もいるかもしれません。しかし身近な人なら、「適合しません」と告げられることは大きな悲しみです。
- 愛するもの、自分にとって大きな価値があるものを前にすると、惜しむ心は砕け、私たちは与える大きな喜びを味わいます。愛する家族を守るためなら、足一本でも喜んで差し出すでしょう。
- 反対に、私たちは自分の名誉や富のために与え、投資することが多く、それほど価値のないものにも与えてしまいます。
4. 神は御子を与えられたのに、私たちは残り物を捧げているのか
- メッセージの中心となる真理です。父なる神は、私たちの救いのために、ひとり子イエス・キリストを与えてくださいました。これ以上の価値はありません。
- 説教者は、宣教地から戻ったばかりの若い宣教師との会話を語ります。彼女は言いました。「私は命がけで宣教をしています。」彼は、どんな姿で彼女に再会することになるのか、もしかすると骨壺に入った姿かもしれないと思うことがあります。
- 彼は尋ねました。「いつか子どもができたら、自分が死ぬ危険を冒して宣教に行くのと、自分の子どもを宣教に送り出すのと、どちらが辛いですか。」彼女は、子どもを送り出すほうだと答えました。「そのとおりです」と彼は結びます。
- 父なる神は、私たちのためにひとり子を与えてくださいました。神が私たちに知ってほしいのは、私たちがどれほど愛されているかということです。私たちはその愛に応えているでしょうか。もちろん、完全に応えることは決してできません。
- それでも感謝のしるしとして、私たちはよく残り物を捧げていないでしょうか。聖書では、献げ物は余ったものから取るのではありません。初穂、つまり最初の収穫として、まず最初に捧げるものです。
- パウロはコリントの教会に、まず取り分けておくようにと勧めています(コリント人への第一の手紙16章2節)。お金は決して十分にはない、と説教者は認めます。しかし残りで、神はあなたを十分に養ってくださいます。「イエス・キリストは、私たちの残り物にふさわしいお方でしょうか。」
- 私たちの中には、与えたいという願いと、それに向き合う惜しむ心があります。この引き裂かれた心のただ中で、神は私たちを先に愛してくださいました(ヨハネの第一の手紙4章19節)。ここが与えることの出発点です。何か残っているかどうかではなく、私たちを先に愛してくださった神の愛です。
5. イエスに似る者になるとは、与えること
- 私たちはよくこう祈ります。「主よ、私をイエスのようにしてください。私の性格を変えてください。」しかし、イエスの愛に満たされたいなら、与えることから目をそらすことはできません。
- 誰かに「イエスのようになれたら素晴らしい」と言うなら、まず与えることを教えなければなりません。そうでなければ、それは起こりません。
- 毎日受けることばかり考える人は、与えてくれる人に左右される人生を生きています。それは神が私たちに望んでおられる人生ではありません。だからパウロは、エペソで、そしてこの箇所を読むすべての教会に、与えることの大きな幸せを教えているのです。
6. 真の交わり
- 交わりとは、お茶を飲みながら楽しくおしゃべりすることではありません。それは表面的なものです。コリント人への第二の手紙8章1〜4節が描く真の交わりとは、互いに与え合い、貧しい人を助けるために心を一つにし、良い気持ちだけでなく価値あるものを一致のために捧げることです。
- それには時間がかかり、時間を捧げなければなりません。お金も必要です。真の交わりは、言葉だけの問題ではありません。
- 与えるときが来ると、向かい側から小さな声が返ってきます。「でも、先生……。」この惜しむ心は、クリスチャンの心を苦しめます。
- カンボジアをはじめ各地で、多くの子どもたちが困窮しています。彼らにはトイレが必要です。年に一度のハンバーガーさえ食べられません。
- 惜しむ心は痛みます。だから私たちは、いつしか忘れてしまいます。心は硬くなり、無関心が居座ります。スラムで暮らす子どもたちがいても、難民が大勢いても、「自分には関係ない」と思うのです。こうして私たちは、あちこちへ遊びに出かけているうちに、神の祝福から遠ざかってしまいます。
- この言葉に心が揺さぶられるなら、それはあなたの中に神の愛があるからです。自ら進んで十字架に向かい、私たちの身代わりに死を受けられたイエスが、あなたの中に生きておられます。この愛がなければ、「それがどうした」と肩をすくめるだけです。
- 説教者は聖書の言葉を思い起こします。寒さに震える貧しい人に「お大事に」と言うだけなら、それは偽善です。セーターを一枚あげてはどうでしょうか。「ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、あなたがたのうち、だれかが、「安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。」(ヤコブの手紙2章15〜16節)
- この真の交わりを生きていない人は、美しい言葉と美しいあいさつの後に教会を後にします。しかし、その人は今も一人です。心は満たされていません。その欠乏は愛の欠乏から来ます。惜しむ心が、内側から私たちをむしばむのです。
7. 万事について:あなたを傷つける人を祝福する
- パウロは、この原則を「万事について」示したと言います。つまり、あらゆる状況においてです。その直前に、彼は自分が受けた試練と迫害に触れています。そのただ中でも、彼は恨みを抱かず、呪わず、祝福します。
- イエスも、人から悪く言われるときには喜ぶようにと言われました。「喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイによる福音書5章12節)
- 具体的には、職場で傷つくことを言われたら、心の中でこう言いましょう。「主よ、この嫌な上司を祝福します。主よ、この意地悪な同僚を祝福します。」自分を虐げる人を祝福する人こそ、真の勝利者です。
- イエスは警告されます。「あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。」(マタイによる福音書7章2節)あらゆる状況で与えないなら、私たちは恥をかくことになります。
- 聖書はあらゆる場面でこう語ります。「与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」。(ルカによる福音書6章38節)与える人は神から受けます。受けることを待つ人は、最後には人に支配されます。
- たとえ誰かにひどく傷つけられたとしても、歯を食いしばってこう言うことができます。「主よ、この人を赦します。この人を祝福します。」すると、祝福される神が動き始め、それはあなた自身をも祝福します。
8. まず神の国を求めなさい
- 「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」(マタイによる福音書6章33節)イエスはこれを、信仰の小さな人々に語られました。まず神の国を求めるこの信仰こそ、私たちの幸せの条件であり、それは与えることによって生きられます。
- 「あの人は運がいい、たまたま幸せなのだ」と言うのは、自分に嘘をつくことです。その人は、この原則を生涯にわたって生きているから幸せなのです。
- 神は私たちに、最も尊いもの、イエス・キリストを与えてくださいました。「私たちの残り物では足りません。」
- 説教者は一人ひとりに決断を迫ります。この幸せの基準を受け取りますか。それとも、このメッセージを一週間脇に置いて、忘れてしまいますか。そうして人は祝福を逃してしまうのです。
- 彼はいつもより30分早く話を終えます。「もう十分に話しました。あとは、あなたがたが受け取り、信じ、受け取ることです。」
- 彼の祈りは、私たちがもう他人から与えられるものに支配されず、自分から与える人となり、主が私たちを本当にイエスのかたちへと造り変えてくださることです。
覚えておきたいポイント
- 幸せは偶然には訪れません。使徒行伝20章35節によれば、受けるよりは与える方が、さいわいです。
- 受けるために生きる人は、与えてくれる人に依存します。与える人は、神から受けたものを分かち合います。
- 与えることの出発点は、私たちに残っているものではなく、私たちを先に愛し、ひとり子を与えてくださった神の愛です。
- 真の交わりは美しい言葉にとどまりません。時間とお金を捧げ、現実の必要に応えます。
- 「万事について」与えるとは、自分を傷つける人を祝福することでもあります。
個人への適用
- あなたの人生で、人から最も受けたいと願っているものは何ですか。関心、評価、愛でしょうか。先に愛したら、何が変わるでしょうか。
- 今、あなたの心は何を惜しんでいますか。時間、お金、エネルギーでしょうか。
- 神に捧げるものは最初に来ていますか。それとも月末に残ったものからでしょうか。
- あなたの周りに、あるいはもっと遠くに、無関心になってしまった具体的な必要はありませんか。
- 今週、歯を食いしばってでも祝福する必要がある人は誰ですか。上司、同僚、あなたを傷つけた身近な人でしょうか。
引用された聖句
- 使徒行伝20章33〜35節
- ローマ人への手紙8章32節
- コリント人への第一の手紙16章2節
- ヨハネの第一の手紙4章19節
- コリント人への第二の手紙8章1〜4節
- ヤコブの手紙2章15〜16節
- マタイによる福音書5章11〜12節
- マタイによる福音書7章2節
- ルカによる福音書6章38節
- マタイによる福音書6章33節
よくある質問
「受けるよりは与える方が幸いである」とはどういう意味ですか。
使徒行伝20章35節で、パウロは主イエスの言葉を思い起こさせています。説教者にとって、これは幸せの聖書的な定義です。幸せは偶然には訪れず、理由があります。受けることを待って生きる人は、与えてくれる人に依存します。与える人は、自分が神から受けたものを分かち合い、その喜びはより大きなものになります。
なぜ私たちは与えることが難しいのですか。
与えたいという願いのそばに、私たちの中には惜しむ心があるからです。この心は、愛するものの価値を見たとき消えてしまいます。親は、ためらうことなく子どもに腎臓を差し出します。説教者は、与えることの出発点は残っているものではなく、私たちを先に愛してくださった神の愛であると語ります。
このメッセージによれば、真の交わりとは何ですか。
礼拝の後にお茶を飲んで、美しい言葉を交わすことではありません。真の交わりとは、時間、お金、価値あるものを互いに与え合い、苦しむ人の現実の必要に応えることです。それがなければ、礼儀正しくても一人のまま、満たされない心で教会を後にすることになります。
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